近頃はこういうキャラのことをナントカ障害と言うらしい。

これは、管見では少なくともテレビアニメでは、私はこれまで見たことのないタイプの作品である。いや、タイプというよりは、むしろ「このレベルまで達しているのを見るのは初めて」と言うべきだろう。何のレベルがか。「いじめられっ子の描き方」のレベルが、である。

主人公・彩がいじめられるようになった経緯が明かされる。特徴的なのは、彩を「いわれなくいじめられている」キャラクターとしてはいないという点である。彩のヴァルネラビリティ(攻撃の誘因となる要素)を、攻撃を正当化するような視点で、寧ろそれを視聴者に説得するような語り口のシークエンスだ。

魔法少女まどかマギカの鹿目まどかは自分のことを「鈍臭くて何の取り柄もない」と卑下し、最後はそんな自分が誰かの役に立つにはこれしかないと、捨て身の攻撃をかける魔法少女に一世一代の変身を遂げるのだが、何しろ直接描写がないので、彼女のどこが鈍臭くて何の取り柄もないのかさっぱりわからないまま、自分ではそう言ってるけどなかなかいい子じゃないかという印象だけが残り、それが結末の悲劇性を強める。寧ろ相方の暁美ほむらの方が、魔法少女になる前にはいかに鈍臭くて何の取り柄もなかったかが痛々しく描かれているのだが、彼女の「鈍臭さ」と引っ込み思案の根底には心臓の持病という、彼女自身にはどうにもできない理由がつけられている。しかもそれは周囲への影響としては精々見ていて不快になる者もいるという程度でしかない。第三者として見る、特に深夜枠の対象年齢の視聴者は多くが彼女に肩入れするか、最低限そうしなければならない…と思いながら見るだろう。

これに対して、この作品は万人が主人公である彩の側についてくれるような、こうした装置を一切剥ぎ取り、寧ろその描写に仮託して、いじめる側の「大人のお題目に納得してない本音」を視覚的に見せてくれる。アニメでは声も効果音も音楽も付く。運動能力が低いことが、話し声が小さいことが、周囲の特に児童生徒にとってどのように「実害」がある(と主張したい)のか。それが先生が唱える「平等」とか「思いやり」とか「いじめはいけない」とかとどのように分かち難く結びついている(という面を見てほしい)のか。更に「致命的」なことには「お礼が言えない」。大人でも、いや大人だからこそ、もう人によってはいじめの輪に加わりたくなるような、「ある種のいじめられっ子のリアル」を突きつけて見せる。フェイゼロの名セリフになぞらえれば、

「これはいじめではなく、誅伐だ」

ということになろう。

しかしこのように徹底的に受け手が彩の敵に回るように持っていった上で、相方の奴村に「あなたは全然ダメじゃない」と言わせる。これに虚を突かれる大人の視聴者も少なくないだろう。いや、ダメだろコイツ。甘やかしてたら彼女によくないよ。しかして今回の後段、反則とも言える「奴村の事情」が明かされるに至って、そうした視聴者にも言葉を失う向きが少なくないことだろう。

いじめの中には全くいわれのないものがあるので、それは救済されなければならないー。現在のいじめの問題点はこれをはるかに超える質的変容を遂げており、刑法犯として容認できない水準、最悪の場合「誤って、ーあるいは興奮のあまりいじめ殺してしまった」という段階に昂進する危険性を常に想定しなければならない。我々は何という社会を作り上げてしまったのか。しかしそこから目をそらすことが死者を生む、そう表現されても仕方ない現実が日々報道されている。

このような状況において「理由もなく人を傷つけてはいけない」というところにとどまるのはある意味ではかえって危険である。寧ろ少なくとも日常において「越えてはならない一線」があることを知らしめねばならない。それが彩の口腔を問答無用にカッターで突こうとしたいじめっ子さりなの喉を迷いなく切り裂いた奴村の論理なのだろう。それは勿論現実には肯定され得ないが。フィクションだからこそ可能な問題提起なのだ。

しかしその一方で尚、この状況では、さりなを支持する視聴者も老若男女問わず多かろう、魔法少女の力を得て驚きの策動を窺わせるさりな。この辺、「さりなの言い分」がどう描かれるのか注目している。