野球で楽天の勝ち負けを見て、一喜一憂している。最近は、巨人が連敗しても感情は動かないが、楽天だと、4連敗、7連勝、6連敗で(ほんとうに)つかれる。今は9章10敗で、まあまあです。だんだんと自分が楽天ファンになっていくのが分かる。なお、東北人は義理堅いので(悪い東北人もいるが)、最初の田尾前監督のことも気に掛けている。止めさせられかたが納得がいかなかった(サラリーマンに似た悲哀も感じる)。それで、田尾が元気でいるのをたまにTVで見ると安心します。ただ、やはり野村監督は凄い。でも、サッチーだけは見たくない・・・(怖いもの見みたさはある)。

●バッハの音楽における言葉の位置
バッハは逐語霊感説的な聖書の読み方をしなかったと思われる。そこで、バッハの音楽における言葉の位置、聖書の言葉と意義という問題が生じる。バッハの「宗教音楽」におけるキリスト教的な言葉や複音書の言葉などは、彼の音楽においてどのような位置と意味を持っていたのだろうか。

フリーデマン高尾さんは、この例として「音楽的才能において自分を凌駕している」とJ.S.バッハ自らが言ったとされる長男ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(1710年-1784年)の悲劇を引用している。以下は、1922年に出版された「フリーデマン・バッハ/プラッハ・フォーゲル著」から、高尾さんが引用したものです。
それにしても、右記の肖像画はいつの時代の画なんだろう・・・。他のバッハ家の肖像画とは違いすぎる(あとで調べてみよう)。

・・・しかしフリーデマンはただ一つのことが欠けていた、そしてその一つが欠けていたために、全体が欠けたことになった。

自己の中から自己の理想を作り上げるという領域は、彼には縁なき国であった。・・・。(一方)J.S.バッハは聖書を愛した。複音書こそは、彼が詩的感激の大きな冠を編むべき桂の葉を、その上に茂らせ花咲かせる土地であった。

(フリーデマン)の詩的感激がだんだんと宗教的なものから離れ、ついには神秘的な、また哲学的なもののなかに失われてしまったことの根本的原因であった。
・・・。
彼は、J.S.バッハのように、聖書の言葉を創作の源として採り、感動を複音の素朴な尊さの下に置くことが出来ないで、無から、即ち空虚な土から・・・幻想の中から、直に賢者の石、輝く宝石を作り出し、・・自己の額を飾る宝飾となそうとした。

う~~ん、何を言おうとしてるかは判る。バッハが敬虔な信仰から聖書に基づいて音楽を作ったと言い、フリードマンは信仰が無かったから失敗したと言っている。おっしゃるとおり、キリスト教の立場なら正論です。
  ★
フリーデマンは、J.S.バッハは生きている間は良かったが、その後は没落し、貧窮のうちにベルリンで死んだ(らしい)。才能はたしかにあった。放蕩息子だったとは思うが、宮廷や教会に所属さないかぎり音楽家としてはやっていけないこの時代には、生まれるのが早すぎたのだろう。
  ★
バッハのはなしからそれますが、思うに、母親マリア・バルバラが早くして死んだことも、彼にはつらかったのではないか。有名人の子どもの不祥事のこと等を思うと、世の中、どこでも同じと思ってしまう。

●聴いた音楽
めずらしくFMでヘンデルのオラトリオの一部を聴きました。
また、図書館で借りた、下記CDを聴きました。
●シューベルト:ピアノ・ソナタ第14番,17番/内田光子
内田










なお、この高尾さんの記事(論文)は、まだ、下記が残っています。
●宗教における「外」と「内」
●宗教的表象の「事実性」
●音楽の「抽象性」救済的意味

これは、その3で書こうかと。フリードマン・バッハのCDも(図書館から借りて)聴いてみよう。・・・ということで。