首記のバッハ全集とはバッハ没後250年を記念して、1999年に小学館から出されたCD156枚のシリーズのことです。このシリーズは解説書が充実していて全15巻あり、少しずつ図書館から借りて読んでいます。読んだのは第1巻~第3巻、第5巻の4冊で、今は第9巻と第15巻を読んでいます。そもそも、バッハの全曲を聴いてみようと思ったのが、図書館でこのシリーズ"発見"した事に始まります。つまり、え~と、バッハを聴こうと思ったのではなく、そこにそびえ立つように膨大なCDシリーズと解説本があり、(むらむらと挑戦ではなく)数年は楽しめそうと思ったのが発端です。
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「むらむら」と思ったのこちらです。浅草合羽橋の台東区中央図書館で発見したジュリアン・ブリューム大全集全20巻です。これは、ギターを再開した10数年前に2万円ぐらいで発売されたのですが、手が出ませんでした。ちなみに前記バッハ全集は39万円です。ここまでいかなくとも、バッハ事典は手元にもっていたい。そろそろ改訂版を出してほしいと思っています。

●どうでもいい話PLUTO
私は、たま~に漫画喫茶にいきます。
そこで、ビッグコミックオリジナルの「PLUTO」とかビッグコミックの「ゴルゴ13」等を読んでます。宮崎駿の「風の谷のナウシカ」は読みました。漫画喫茶ではないんですが、白土三平の「カムイ外伝」や「忍者武芸帳」も読みました。はるかむかし「ハレンチ学園」と一緒に俗悪漫画に挙げられた「マタンキ団」とかいったのを読んで、その強い友情に涙を流したことがあります。
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それで、思い出したエピソードをひとつ。ある喫茶店(平井の浪漫亭という喫茶店)で、漫画本を3冊とか「サライ」という週刊誌?なんかを積んで読んでいたら、マスターが「漫画好きですか」と聞いてきた。このとき私はとても動揺したのを覚えています。なんというか、普段ひとには見せない(本当は見抜かれている)本心を突然指摘されたたような気がしたのです。マスターは私と同年代らしく、少年マガジンの創刊号を読んだことがあるとか、そのときの週刊誌は背中が丸かったとか話に花が咲きました。マスターは過去に心筋梗塞を2回やったらしく、今度倒れたらおしまいと言っていた。彼はここ1年店には出てきていません。どうなったか(とても)心配です。そうそう、この「浪漫亭」は常盤新平が昔よく通っていたという由緒ある喫茶店です。

●バッハと女性/大角欣矢
この記事の著者の大角さんは1960年生まれの東京芸大の准教授らしい。「ハルモニアの語りを超えて-音楽学の成立と変遷をめぐる省察」とか「ドイツ・プロテスタントの音楽と神学-死の問題をめぐって」とかの論文を出している。これらの論文は(大いに)興味はあるし、芸大の図書館に行けば見れるかも知れないのですが、今のところは(というか、ずっとになると思いますが)新書と文庫と町の図書館とCDで楽しもうかと思っています。

●二人の妻
バッハが個人的関係を持った女性は、記録ではマリア・バルバラ・バッハとアンナ・マグダレーダ・バッハの二人の妻しかいない。ただ、この二人について史料的痕跡が欠けている。有名な「(アンナ・マグダレーダの)バッハの思い出」は贋作で、1925年頃にイギリスの女流作家によって書かれた。私は、贋作と知りつつこの本を読みましたが、結構面白かった。

●リューベック、ミュールハウゼン-そして結婚
1705年、バッハは4週間の休暇願いでリューベックに出かけ4ヶ月滞在する。ブクスデフーデは引退を望んでいたが、後継者になるにはハンザ都市の伝統に従い当時30歳の彼の娘と結婚しなければならなかった。この地位が、バッハにも提供されたのか、提供されたがバッハがあきらめたのか、確かなことは何も判っていない。バッハは、1707年6月に教会当局との不和が絶えなかったアルンシュタットを後にしてミュールハウゼンの教会オルガニストに就任した。マリア・バルバラとは同年10月に結婚式を挙げている。バルバラは1684年生まれでバッハとほぼ同年齢であること、バッハ一族であること、バルバラの叔母がアルンシュタット市長の妻で、両親を亡くしたバルバラが叔母を頼って身を寄せていたこと。バッハがこの市長の持つ2つの家のどちらかに少なくとも1年は住んでいたことに、二人の接点があったと推測している。

●マリア・バルバラの死
マリア・バルバラは1720年に35歳で死んだ。「故人略伝」はバッハの弟子と息子エマニュエルが協力して執筆したらしいが、バッハが君主のお供で出かけているときに亡くなったと書いてある。著者は、この話は、後年バッハが折に触れて物語ったのか、または当時6歳だったエマニュエル自身の記憶によるのではないかとし、エマニュエルに与えた衝撃の深さを物語っていると想像している。

●新たな出会い、マグダレーナの筆写譜バッハの思い出
バッハは、1年半の後の1721年にマグダレーナと再婚した。バッハの仕事を考えると当時の結婚としては普通であると著者は書いている。私の郷里東北でのいなかでは、妻が死ぬとその妹がその後釜に入るのは当たり前だったらしい(どこも同じだ)。この記事ではその他いろいろ詳しく書いていますが、書ききれないので省略します。
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マグダレーナは、夫バッハのトラブルと音楽活動の多忙の中で、ほとんど毎年子供を生んでいた。このような生活が維持できたのは、マグダレーナの明るさと、バッハの包容力を感じると著者は言っている。そして驚くのは、マグダレーナの筆者譜がバッハの自筆譜と瓜二つということです。この記事では、最初は稚拙だったのが、またたくまに上達して且つ専門化が間違うほど似通ってきたと書き、その例が載せられている(有名なヴァイオリンパルティータ2番のシャコンヌです。私は、ギターで弾いています。長いので暗譜していませんが、たまに元気があるとき楽譜を見ながら弾いて楽しんでいます。あの~、速いところは一応暗譜していますが、人前ではできません。)。これは、マグダレーナが優れていたためと思うが、夫と心身ともに一体になったのではないかと思われる(仲がいい夫婦は顔まで似てくるというやつです)。このようなことは、だれもが思ったのではないか。そういう想像の下に贋作「バッハの思い出」が書かれたと(私は)思います。

●バッハの家庭音楽会
バッハの頑固な性格もあって行政当局との不和が絶えなかったし、子どもの死なども重なる中、バッハ家の伝統で家庭では音楽会がよく開かれた。そこではメランコリーを癒すとともに、神の恵みを実感しながらコラールが歌われたようだ。この記事では、下記が引用されている。
コラール「たれが神の御心のままに」(BWV691)
(「マグダレーナ・バッハの音楽帳」から)

しばらくの間だけ耐え忍なさい。
そして、すべてをご存じの恵み深い神様が定めたことをもって、
自ら満足しなさい。
私たちを選んだ方は、
私たちに何が必要かもよく知っているのだから。

私も、つらいことがあったとき、この言葉を思い出そうかと・・・。なお、これが入っているCDは持っています。

●マグダレーナの最後の日々
1750年のバッハの死後、マグダレーナは再婚しないと言う条件で、4人の未成年の子どもの後見を願い出た。マグダレーナは1760年に死んだが、その葬儀は最低ランクだったので「極貧の中で死んだ」といわれてきたが、官吏の未亡人として生活保護を受けていたので、日々の暮らしに困っていたとは結論できないと著者は言っている。マグダレーナは死の1年前、息子のフリードリッヒがビュッケブルクの宮廷楽長になるのを見ることができた。
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マグダレーナがライプツイッヒに留まったのはなぜだろうか、未成年の娘の教育を行うことを大切に思ったとともに、亡き夫とすごしたこの町に愛着があったのではないかと、著者は想像している なお、当時としては珍しい庶民マグダレーナの肖像画があったのですが、現在は失われてしまったらしい。現存していたら、どんな感じだったのだろうか・・・。


前書きが長すぎて、本題を全部かけませんでしたが、ここまでと。