首記の件(その3)です。即本題に入ります。

●本の構成
この本の構成は、下記のように6章から成っています。そのうち、第3章~第5章が今回のブログの対象です。
ほんのさわりしか書けませんが・・・あしからず。
●第1章/人間と人間観
●第2章/自由意志論争
●第3章/伝統と革新
●第4章/ヒューマニズムの偉大と悲劇
●第5章/神の人間性

●第6章/宗教改革と現代

●ルターの紋章「白バラと紋章」ルターの紋章
ルターは「薔薇の上におかれたキリスト教徒のハートは十字架の真下にあるとき脈打つ」と述べ、「信仰によって魂は死から生命に復活し、清純と喜びに満ちた白薔薇のような生活に導かれる」と説く。

●ヒューマニズム
私の理解が不十分なのですが、この本では、エラスムスのヒューマニズム、キリスト教のヒューマニズムと、ヒューマニズムが色々と出てくる。それで、ヒューマニズムという意味が分からなくなってきた。フリー百科事典ウイキペディアを見ると、英語では人道主義は「humanitarianism」と言い、(キリスト教の)「humanism」と区別して表すらしい。では「humanism」とはなんだろう・・・、ますます判らなくなってくる。この本では、人間を構成する霊、魂、身体(肉)の中間の「魂」のありかたをヒューマニズムと言っているように思える。所謂「humanitarianism」ではないということか。さらに、ルターは、神の下の「humanism」=愛と言っているようだ。

●神の人間性
ルターは「律法により人間は自己の罪を認識し、その認識の上に謙虚になって神の福音を受け入れるように導かれる」と説く。神の福音は、エラスムスの言う自由意志に共働する恩恵ではなく、恩恵に共働するのは人間である。行為する主体は自由意志ではなく、神の恩恵である。著者金子さんは、これを「神を中心とするヒューマニズム」であると言う。また、その結論は、人間の罪、悲惨な現実に対するルターの実存的認識から導かれたと言っている。

●「原罪」に対する理解
●エラスムスの言い分
エラスムスは、ルターが原罪を誇張しすぎと非難し、ルターの逆説的な命題「擬人にして同時に罪人」は間違いと言う。ルターの原罪の誇張は「人間本性の最も卓越した能力」(<--神を知る理性と善悪を実現する自由意志)まで破壊すると主張する。「人間の善行の功績が無意味なら、どうして審判について語られるのか」と非難する。
●ルターの言い分
ルターは、「精神と身体、霊と肉全体は"原罪"によって破壊されている」と言い、「もし"肉"の部分のみキリストの償いにより救われるのなら、(魂は)神から自立し人間のも否定する恐るべき矛盾に帰着する」と警告する。ルターは「人間存在の根が原罪により腐敗している」という「根本悪」を主張する。

●私の中途半端なこの本の理解
この本のメインは第4章「ヒューマニズムの偉大と悲劇」です(たぶん)。エラスムスがルター批判を「(人間の)自由意志」に絞ったのはすばらしい。そして、この論争が現代的意味を持つという著者・金子さんに同感です。ただ私自身は、「絶対存在である唯一の神」というキリスト教の大前提の理解が不十分であり、それ故にルターの論理のきらりと光る天才的な直感を感じつつも、その凄さについて行けないところがある。
  ★
一方、私はカトリックとルター等プロテスタント派の論争に対して、中立をめざすが結局何も出来なかった学者エラスムスの"悲劇"に、同情を禁じ得ない。キリスト教徒であれば、ルターの論理は革命的であり説得力がある。しかしながら異教徒の私には、ルターの言う「神の人間性」ではなく、異教徒の英知も尊重したと言われるエラスムスの論理を突き詰めたところ、「(不完全な)人間の神性」に希望を託したい・・・。
  ★
こう書いてきて、ふと頭をよぎったのが、米国のキリスト教会派の原理主義化です。キリスト教が歴史的に作られたのであれば、原理主義はあり得ない(そもそも「原理」が・・・)。聖書は、解釈により修正されるもので、それにより常に現代的意義を持つと思う。「(聖書の)無謬性」=原理主義の硬直性に問題があるのかも知れない・・・。浅はかな考えですが、米国のキリスト教はWASPというようにプロテスタントだとすると、その始まりはルターの宗教改革に有るのかも知れない。そうすると、神の絶対性に対する人間が作る宗教のあまりの不完全さに、人間の業を感じざるを終えない。これは、日本の(国家)神道も同じです。

●話はそれますが
私は、仕事でドイツのフランクルフルトの隣町のオッフェンバッハに行ったことがあり、関連の会社の人の両親が経営しているモーゼル川沿いに有る町のワイン園に行きました。そこで飲み且つ購入した値段は数マルク程度(500~600円ぐらい)のモーゼルワインのフルーティな味が忘れられません。そこで見たことですが、川を隔でカトリック教会とプロテスタント教会が分かれていました。昔、その川を挟んで凄惨な宗派の闘いがあったと聴きました(ウラは取ってませんが30年戦争のことと思います)。今になって、このことが思い出されます。

川端なんか、表面的なところをなぞっているだけですが、私の理解はこんなものです。
そのような状況の中、バッハは、ギムナジウムでこの複音主義ルターの教義を習ったのだろう。川端純四朗(さん)は著書「J.S.バッハ-時代を超えたカントール」で、その当時の学校は、戦争中の日本の国民学校で教育勅語だけ教わったのと同じで、ルター派国教会からは異教徒と見なしていたカトリック教会やカルヴァン派や再洗礼派の教義は教わらず、ルター派の教義だけ教わったのではないかと言っている。そうすると、こてこての複音主義ルター派だったのだろうか。それでも、川端さんは、ブクスデフーデの音楽に触れたとき、外の世界を知ったバッハは音楽的にも人間的にも大きな成長を遂げたと言っている。

・・・と、ここまでと。