(西洋)音楽を理解、というかバッハを(多少なりとも)理解するには、なかなか回り道が長いです。その理解のために、この本を読みました。
私は大学受験で日本史を取ったので、高校で世界史の授業は寝ているか、又は先生が黒板で字を書いているときに抜け出して図書館で別の本を読んでいた(先生は非常勤の講師だったのでみんな無視していた<--今から思うと反省しています)。そのため、私の世界史の知識は中学レベルです。そんななかで、最近、クラシックギターと音楽の本等を趣味とすることにしたのですが、(西洋に対する)世界史、思想史的知識の欠如を痛感し、また、「キリスト教を知らずして、西洋音楽を語る事はできない」と(私の小さな頭で)考えました。それで、神田の古本屋で見つけ、入門用にこの本を購入しました。

●キリスト教の歴史/小田垣雅也/講談社学術文庫イエペス
●著者
著者は1929年東京生まれ、青山学院大の神学部卒業、国立音楽大学の教師等を勤めた人らしい。音楽大学で、キリスト教の歴史を教えるのは、私も重要と思う。その理解無くして、(西洋)音楽の表現も無いかも知れない・・・。著者は、いまはかなりの高齢だが「みずき教会」というHPを作っている。私の印象は、キリストの先に「無」をみているお坊さんのような人だ。

●概観
解説には「古代から中世を経て近代、現代に至るキリスト教の歴史を、各時代の思想、政治や社会情勢のなかで描いている。そのなかで真の信仰のあり方を問う力作」と書いてある。これ1冊あれば、キリスト教の歴史の重要ポイントが押さえられると言う感じ。何も知らない私にとって、目から鱗の本でした。この著者も近代合理主義の限界を感じていること、その一方で、キリスト教徒であるにもかかわらず、キリストの名によるキリスト教徒による数々の殺戮に対して、宗教は理性を麻痺させるとも言っている。シャーマニズム的宗教観を持つ私にとって、(それなりに高度の発展を遂げた)キリスト教の歴史を足速く見ようとして読み始めたのですが、面白い以上の本だ。また、所々にちらっと著者自身の宗教観もかいま見ることが出来るのも面白い。

以下は、私の勉強用の抜き書きです。でも、この著者は異端の人かもしれない。

●序論
○キリスト教は・・・、哲学のように不動の心理ではなく、人間に対する問いかけである・・・、その意味で、それは常に歴史的相のもとにあるという点に、キリスト教が歴史的宗教と言われる所以・・・。聖書もこのような意味で理解されるべき。
○現代人の常識は、(聖書の)神話的表現をそのまま受け入れることは出来ない。聖書の神話的表現を削除するのではなく、その本義に至るために解釈されなければならない。
○(聖書)の非神話化は聖書を主体的に読むことを要求している。・・・聖書が客観的な神の言葉であるからではない。・・・聖書は聖書であるのではなく、聖書になることが大事であるといえる。
○モーゼの十戒・・・きわめて排他的な内容であるが、多神教でみられるような寛容性と対立した排他性と理解することは間違い。・・・人間が自己を絶対化することへの別の意味での警告である。

●本論
●第1章キリスト教の成立
○イエスについて史実として確かめうることは極めて少ない。・・・複音書はイエスの伝記ではなく、イエスが神の子であることを主張するために書かれた原始宗教の信仰告白である。
○イエスを反律法主義と理解するのは重大な誤解である。・・・、律法を必要とし、それを自己目的化しないという肯否二重の態度がイエスのリアリティだ。
○イエスが譬え(たとえ)という多意的言語で語られた。禅の「考案」に似た機能を持っていると言うひともいる。
○「イエスはキリストである」という信仰告白がキリスト教の基礎である。イエスをキリスト教の創始者と考えるのは正確ではない。その信仰告白を同じくする人々によって原始エルサレム教団が形成された。
○パウロ(~65、イエスの死後入信)なしにはキリスト教は考えられない。キリスト教を創立者jはパウロであるとする学者もいる。詳細は書かれていない。おそらく、キリスト教徒にとっては、常識なのだろう。
○信仰義認「人々が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による]<--パウロによる「ローマ信徒への手紙」より。これが複音主義的信仰の基本的立場である。・・・人間が倫理や知性において完全になることは出来ない・・・だから神が人間を義、つまり無罪と宣する以外に人間は救われることはできない。・・・この信仰が、ルターの「罪人にして同時に義人」に受け継がれている。また、親鸞の「善人往生す、まして悪人おや」にも通じる。
○ヨハネによる福音書は1世紀の終わり頃に書かれた。これは、他の3つの共感福音書(マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書)とは性格が異なっている。キリストは神が仮の姿を取って現れたとする「仮現論」に対する反対で書かれた。神やキリストに人間が概念的規定をあたえることに反対した。・・・ヨハネの思想は(ギリシアの)ロゴス思想に代表されるように哲学的瞑想的である。ここも、この本では詳しくは書かれていない。HPでしらべるとルターはパウロとヨハネによる福音書を高く評価したらしい。この著者もプロテスタント系なんだとおもう。あとで、カトリック系の神学の本を読むのも面白いかも。そうなると、西洋の作曲家が、カトリックかプロテスタントか、はたまたロシア正教かは要チェック項目だ。なお、モーツアルトはカトリックだったようだ。

●第2章古代から中世へ
この章は、コンスタンティヌス大帝によるキリスト教(313年)の公許令に至るまでの使徒後時代と、その後の三位一体が確立する382年頃までが書いてある。
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○キリスト教徒に対する迫害が組織化されたのは3世紀後半からで、それまではユダヤ教の1つのセクトと見なされていて、ユダヤ教徒のあまりの偏執性のなかで人々の蔑視と共に放置されていた。なお、悪魔の原型の一つである皇帝ネロの迫害も、もともと、そのころ西洋にヒューマニズムというのは無かったので、個人の好き嫌いによると著者は言っている(ようだ)。
○313年の公許令は、多くの宗教の一つとして公認されただけだったが、テオドシウス一世のとき393年に国教となった。・・・テオドシウス一世が395年に死んだ後、ローマ帝国は東西に二分され、キリスト教会も東方教会と西方教会に分かれた。東方教会は、神学論争にあけくれ、その間西方教会は教皇権を確立していった。
○キリスト教の外的勝利に対して、アリオス論争という内的危機に直面した。・・・アレクサンドリアの神学者アリオスと主教アレクサンドロスとの論争で、前者がキリストと神の異質性を論じたのに対し、後者はキリストトと神の同質性を論じキリストの神性を守ろうとした。325年にコンスタンティヌス大帝が招集したニカイア総会議でキリストは神と同質という協議が採択され、アリオス派は追放された。この議論はその後も継続され、381年の総会議で「作られざる、同質なる、共に永遠なる三位一体」が確立された。キリストには、神性と人間性が一体ではなく共存しているというのが正当な解釈のようだ(たぶん)。
○・・・以上のような三位一体論等は、教理上でも希な紛糾した不毛な論争である。・・・三位一体論は、近代プロテスタント神学ではあまり重要視されなくなる。う~ん、なるほど。つまり、近代になると哲学と神学が分離し、論理的、弁証法的検討は哲学に移ったということなのだろうか・・・(もっと、勉強が必要だ)。
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この本は第11章まである。第三章以降のキリスト教の紆余曲折は、393年にローマ帝国の国教になったことから始まるようだ。長々と書いたので、とりあえずここまでと。なお、あくまで自分のために(その2)も書いてみようかと。

●聴いた音楽
今までiPodを聴くのに使っていたSONYのイヤホンの線が片方切れたので、iPodに付いていた純正のに変えたら、音が変わった。純正のは高周波の音のふらっと性が悪い。そのせいか音のキレが悪くなるがギターやリュートの音は柔らかくなる。このまま聴くか、新たにイヤホンを買い換えるか、しばらく様子を見ようと思っています。
●ツエートマイア・クァルテット/バルトーク弦楽四重奏曲第五番他

・・・ということで。