土日で、昨年5月以来の家族2人の小旅行をやってきました。平地にお城が建っていて、お城は跡地だけがある町です。そこで、つらつら・ぼんやりと考えた妄想的雑念や、(私にとって面白い)エピソードを書かせて頂きます。なお、この旅行を含め最近2冊の本を読みました。それは、次のブログで書こうかと。

●雑念
小旅行で、ぼんやりと考えた。
私は、広い世界を知ろう、自分を高めるために読書しようなんてことには、とうの昔にあきらめてしまった。ただ、私の両親の介護が終わってすこし余裕が出来た数年前、(クラシック)ギターを再再開しました。なんのために、クラシックギターをはじめたんだろう・・・。単なる暇つぶしか・・・。それでもいいんだけれど・・・。
それで、ふと、下記妄想が浮かびました。

●妄想的問答
なんのために、クラシックギターを再開したの。
昔ギターをやっていたので、いつか再開しようと思っていたことは事実です。今始めないと、(できるかどうかは別として)有るレベルに達することはできないという危機感もありました。
結局、昔が懐かしいということか。
それは(ちょっと)違うんです。昔が懐かしいだけなら、ギターなんぞは再開していなかったと思うんです。
では、なんのために。
大学を卒業し、もともとひねくれていた自分の感覚が、社会の中でまっすぐになるどころか、よりねじれてしまったんです。それで、過去のねじれはスパッと裁ち切り、(人の受け売りの)価値観と決別し、自分の考えで(まっすぐ)進んでみようと思った訳なんです。
それが、なんでクラシックギターと繋がるの。
社会に出て、自分の頭の小ささを実感したんです。で、世界認識のほうは、つまみ食い程度であきらめました。それで、もともと輪郭程度は知っているクラシックギターと音楽なら、小さな頭でもやっていけるんではないかと・・・(安易に)思ったんです。
ほう、ほう、それで、やってみてどうだった。
やってみると、やっぱり私の頭の容量はとても小さいのを再認識したんです。今は、音楽とクラシックギターだけでも、行きつ戻りつで迷い続けています。でも、(偏りがあると感じつつも)自分の感覚を信じて進むのは、結構、楽しいのが判ってきたんです。え~と、ケーキの(とびきり)おいしいところを先に食べている感じです。
う~ん。話しについて行けないけれど。で、初心の「自分の考えで真っ直ぐ」はどうなったの。
最近、いろんな音楽があるのも(体で)判ってきました。もともと「まっすぐ」の先のゴールを意識して始めたんで無いし、というかゴールはどこでもいいんで、自分に対して真っ直ぐであればいいということなんです。もともと疑い深いんで、自分の目線で音楽なんかを見ていこうと。あのニーチェも、音楽から哲学を考えたんだし、私もクラシックギターというマイナーなとこから音楽の全体(え~と、こまかいところや、興味のないところは飛ばして)を見て、さらに音楽から(可能なら)世の中全体をを、人に惑わされずに見てみようかと・・・。
何を言っているかさっぱり判らないんだけど、結局、(あんたの年になって、人の指図はうけない)自分の勝手気ままに、やってみたいということでないの。
・・・・(答えられないので、沈黙)。

●小旅行のエピソード
お城の階段の手すりで遊んでいた5~6人の外人のガキがいた(高校低学年ぐらいか)。危ないな~と思っていてもだれも注意しない(混んなかったこともある)。ふとみると、横に「あぶない」という立て札があった。それで、下記の注意をしました。
(日本語版)
おい、こら、ガキども!
この立て札がなんだか判るか・・・。
「あぶない」というのが判らんか!
ちゃんとよめ!迷惑だ!ばかたれ!
(英語版)
Excuse me・・・。
Please see・・・。
The meaning of ・・・・。

そのあと少し考えました。「学校で習った英語は、なんと立派な(紳士の)英語なんだ。とても迫力がない」。やっぱり「けんか英語」も勉強していかないと・・・。でも、遊んでいるのがもっと大きい、強いガキンコだったらどうだろう。やっぱり注意しないだろうな~。

・・・という、どうでもいいはなしでした。

●読んだ本(前の週からの続き)
●国家・個人・宗教-近現代日本の精神/稲垣久和/講談社現代新書
この人は国際キリスト教大学の教授で、その観点で小泉、安倍と流れた現代を評論している。国家と個人の二元論ではなく、市民社会の必要性を説いている。北欧の福祉社会主義も、個人をクライアントとしてしか見ていないと言っている。そこに、宗教というかスピリチュアルなものが入ってくるというもの。魑魅魍魎というか過去の亡霊も出てきた靖国論争がすこし一段落して、こんどは対岸からの反論が出てきた感じ。
●キリスト教の歴史/小田垣雅也/講談社学術文庫
この本は、何も知らない私にとって(とても)面白い。どの切り口をとっても新たな入り口が見つかる。また、旧約聖書や新約聖書は歴史的に作られた書物なので、キリスト教原理主義者というのはあり得ないと言っている。たしかに、原理主義者同士が対立したら・・・。想像するだけでも大変だ。偶然ですが前の本と併せて読むともっと面白い感じ。

・・・ということで。