●図書館にて

以前借りたCDを返しに近くの図書館に行ってきました。そこで、下記の本を借りてきました。

○ギター-ルネサンスから現代まで」/ハーヴェイ・ターンブル/浜田滋朗/音楽之友社

たまにはギターの本を読んでおこうと思い、図書館にあったこの本を借りました。この本は1974年に出版されたもので、日本語版は1985年に出されてます。著者はイギリスの学者らしい。浜田さんは訳のあとがきで、「イギリスの学者なのにデユアルテが書いていない、また、モンポウなども入っていない。」とコメントしています。ただ、「これは余計なあら探しであって、良くまとまった、訳しがいのあるいい本」と評しています。私は、この本が出た1985年の頃は、全くギターというか、音楽から全く離れていて、残業にあけくれていた。こんな本が出ているとは知りませんでした。

○バッハから広がる世界/樋口隆一/春秋社

いくつもあるバッハ関係の本の一冊ですが、昨年6月出版された新しい本であること、シェーンベルクのことが書いてあることで借りました。というのは、以前白水社の「フーガ」という本を読んだときに、「バッハ以後、いろいろな作曲家がフーガを取り入れているが、新たな展開はシェーンベルグ迄待たなければならない」と書いてあった記憶があったからです(ウラを取ってません)。


●図書館でレコード芸術3月号を読んで

演奏家は娼婦?

図書館でCDを返し、前記2冊を借りた後、レコード芸術を読んでタイトルの記述に当たりました。これは、吉田秀和さんのコラム「之を楽しむに如かず」の中で、吉田さんがロストロポービッチのDVDを見たこと。DVDの中でロストロポーヴィッチが「音楽家は「好み」で何を言ってもいいが、演奏家は作曲家を自分の趣味で選べないので「娼婦」のようなものだ」と言っていることが書いてありました。吉田さんは、全体としてこの話に同感しているようだ。確かに、プロの演奏家は好きなものだけ演奏することはできない(かもしれない)。アマチュアこそ好きな作曲家、好きな曲のみ、たとえ技術的に未熟であっても、弾くことができる(かもしれない)。プロは、ほんとうに自分の感性のみで曲を選ぼうとすると、現代でも「変人」と言われてしまうのだろう。なお、吉田さんのコラムにはこの言葉に関連して、プロコイエフとショスタコーヴィッチの会話が書いてありそれも面白かった。また、プロコイエフが革命の混乱を避けてアメリカ亡命し、再びソ連に戻った後、「(私には)、バッハ、ただバッハがあるのみ」と含蓄のあるコメントを残しているらしい。うろ覚えなので、全体理解するため、また図書館で、このコラムを確認してみよう。なお、この図書館には「音楽の友」は置いていないので、読んでません。


●現代ギターのバックナンバー

当該図書館で購読していなくとも、他の区の図書館で購読していれば、予約借り入れができると聞いて、「現代ギター」をPCで調べて借りようとしたら、昨年11月~2月まで借り出されていました。それで、今回は借りるのをあきらめました。江東区にも熱心な人がいるようだ。


●追記

今週末は遠出をせずに、ジョナサンでモーニングを食べて、スーパーで買物をして、図書館に行って、車検で車を預けました。・・・あと少し家でギターの練習をしました。平日は練習しなかったので、やっと指が動くようになってきたところで、また月曜が始まります。それで、なかなか進みません。えーと、とりとめのない話でした。また、余計なことをいろいろと書いてしまったので、ここらで終わりにします。