出張の行き帰りで「パブロ・カザルス-喜びと悲しみ」訳吉田秀和他を読みました。最初は、彼の音楽の交友を知りたいと思いこの本を読みはじめましたが、読んでみて20世紀を生きた音楽家(芸術家すべてですが)を知るには、どうしても戦争のことを避けて通れないのだと実感しました。なお、カザルスの音楽を知るため、別の本を捜してもう1冊読んでみようと考えています(ちくま文庫で「カザルス-鳥の歌」があるらしい)。
以下は、当たり前のことなのでしょうが、大学受験で「世界史」を選択しなかったこと、世界史の授業は、代返を頼んで授業を抜け出したり熟睡したりしていて、私はよく知らないのです(実は、選択したはずの日本史も大同小異でなにも知りません)。


●カザルスとセゴビア
カザルスの本を読んで、常に対比したくなるのがセゴビアです。


パブロ・カザルス

1876生-1973死で、スペイン北東部カタルーニャ州生まれ。1939年フランスに亡命し、ついにスペインには帰らなかった。皮肉にもフランコは1975年に死んでいる。

アンドレス・セゴビア

1893生-1987死、スペイン南部アンダルシア州生まれ。1936年スペイン内乱を機に国外脱出し1952年にスペインに戻る。


カザルスは、スペイン内戦勃発した1936年以降も、スペインに留まり共和国側でフランコ政権に対抗し続け、バルセロナがフランコ反乱軍に陥落したとき、難民と共にフランスに逃げた。また、フランスがナチス・ドイツに占領されたときもフランスに留まり、カタルーニャ人のために尽力し、ドイツでヒットラーのための演奏を要請されたときも断った。一方、セゴビアはそのような話は(私には)聞こえてこない。カザルスの行動は、その人間性(宗教的且つ音楽的頑固さが相まったもの)と共に、彼が中央からの独立を指向してきたカタルーニャの生まれであることが大きいと思う。私は、「・・・だからセゴビアは・・」と言うつもりはありません。その間、セゴビアもロドリゴもファリャも、スペイン的明るさに根ざした美しい音楽を作り又は弾きつづけたと思います。
なお、カザルスはチェロの奏法を改革し、バッハのチェロ組曲を(再)発見しました(彼が13才の時です。世に出したのは25才のとき。実に12年間研究していたのです)。一方、セゴビアもギターの奏法を改革し、バッハのリュート組曲を(再)発見すると共に、シャコンヌを初めてギターで演奏し、スペインの民衆楽器を世界の独奏楽器に高めました。また、カザルスもセゴビアも、ロマン的に「濃い」というのは似ています。このように、いろいろと共通点がありますが、違いも見えてきます。

●フランコ独裁政権と連合側の対応
フランコ独裁政権は、1936年にドイツ、イタリアの援助を受けてスペイン共和国・人民戦線に反抗し、最後まで抵抗したカタルーニャ(最後の首都はバルセロナ)を1939年に陥落させ、スペイン全土を掌握しました。1938年12月バルセロナが陥落したとき、カタルーニャ人50万人はフランスに逃げました。その中にカザルスもいたようです。全土制圧の後、共和国側の人々を大弾圧し、何万人も処刑したようです。「その間、フランス、イギリスは戦争を恐れてフランコと妥協し続け、それがヒットラーのポーランド侵攻を行なわせた」というのが、カザルスの言い分です。また、第二次世界大戦の後も、カザルスの意に反して、連合国はフランコ政権と妥協し続けます。それがカザルスを常に悲しませます。
カザルスは、カタルーニャ人であったが故に、芸術至上主義とは行かなかったようです。


●余談ですが
フランコ総統はサッカーが大好きで、サッカーチームを応援し、傘下のクラブチームに「レアル」の称号を使うことを許可しました。その筆頭は、あの「レアル・マドリッド」です。一方、バルセロナは、「レアル」の冠を拒否したようです。こういうのを知るとスペインのサッカーリーグを見るのも、すこし楽しくなります。


●鳥の歌
話を戻すと、カザルスは長くフランスに留まりました。最晩年は二回目の奥さんの故郷プエルトリコに住んだようですが。そのカザルスが故郷を思って編曲したのが、あの有名な「鳥の歌」です。


カザルスの本の前半は、生い立ちといろいろな人との交流が書かれています。1年間に250回演奏会を開いたこともあるようだ。また、哲学者ベルクソンとも仲良しだったようです。そこでは「音楽的直感」の話もありました。気が向いたら「その3」を書こうかと・・・。

会社なので今日はここまでにします。