●セゴビアのCD購入(2回目)

それやこれや(その1,その2を見てください)で、やっとセゴビアの全盛期のシャコンヌ(1946年録音)を手に入れました(06/11/11)。この演奏時間は12分15秒、1954年の演奏が13分51秒です。最近の演奏家、例えば山下和仁のは14分41秒、ヘンリク・シェリングが14分31秒なので結構早めです。なお、演奏の早さは、グールドが「有機的繋がりがあれば、早さはどうでも良い」と言っています。一方、別の音楽家は、「童謡でも、速ければ遊び歌になり、遅ければ子守歌になる」といっています。つまり、音楽には適切な早さがあるということです。ジョン・ウイリアムズも、(セゴビアを暗に批判するなかで)、同じことを言っています(また、舞曲は踊れないといけないとも言っていますが、私は、器楽曲となった舞曲はもっと自由でいいと思います)。私は、テンポに関して、その曲に応じて、どちらも正しい場合があると思いますが、シャコンヌに関しては、グールド説をとります。聴いていて感性が合えば、早さはどうでもいいのです。しかしながら、そう思って今回いろいろなシャコンヌを聴いてみると、やはり私好みの速度があるようです。さて、セゴビアによるバッハのシャコンヌは、私にとってどうかということですが、「すこし違うが・・・、私ごときに評価できるはずがない」というのが結論です(正直言って、逃げました)。


●私の好きなシャコンヌ

山下和仁をはじめいろいろなギター演奏家は自らシャコンヌを編曲していると思いますが、私にとって、ギター編曲は、セゴビア編が一番です。ただ、自分の軸足をギターから離すと、やはりバイオリン(という制約があっての)シャコンヌなのかな、そのほぼ単旋律のなかから浮かんでくる多声、余計な音が無い流れの中かから、天上から降りてくる(バイオリンはそうですよね)その感覚は、他の楽器からは得られません。この感覚は、単身赴任から帰るときの深夜、車もほとんど無い高速を運転しているときに感じました。このような雰囲気を、ギター(及びピアノ等)で表現するのは、難しいと思います。ピアノのプゾーニ版のようにどんどん音を追加してくのは、全くの邪道です(たしかにある意味ではピアノ的ですが、違う曲になっています)。ギターもその仲間かも・知れないが・・。書きながら感じましたが、当時のセゴビアはそう言った非難を浴びたのではないかと想像されます。また、プゾーニ版は、ピアノコンクールの課題曲用に編曲されたものという記載がHPにありました(ほんとうなら、ちょっと動機が不純と思います。なお、話が飛びますがプゾーニは大のユダヤ嫌いのようです。昔のドイツ人は多かれすくなかれそういうところが、あったようです)。音を少なくしたポリフォニー的なピアノ編曲があれば、聴いてみたいと思います・・・・が、後世から(かならず)非難されるようなことは、誰もやらないような気がします。


●セゴビアのシャコンヌ

おそらく、現代の演奏家は、時代の流れというより、録音技術の驚異的な進歩に影響を受けているのではないかと思います。セゴビアが現代に生きていれば、録音とは違ったシャコンヌになると思います。セゴビアは、指頭奏法のタレルガ派から、爪を用いる現代奏法(ちなみにアグアドは爪奏法、ソルは指頭奏法だったようです。ただ、アグアドはもっとはやめにソルと会っていれば爪奏法をやめたのに・・と言っていたらしい<--出典忘れました)を普及させましたが、音楽的には、タレルガの直系(タレルガの弟子のリヨベートとは親交があった)ではないかと思います。演奏からそう感じます。現代(の音楽の世界の最底辺のまた底辺)に生きる私から見ると違和感を感じるところもありますが、セゴビアの演奏は、最初のギターによるシャコンヌの(編曲と)演奏ということもあり「歴史的名演」と思います(生演奏なら、現代でも、もっともっと凄いと思います)。

なお、この時代、スペインはフランコ軍事政権下にあるが、そのため第二次世界大戦の戦禍を免れた?時期にあます(セゴビアはスペインから離れていたようです)。一方、クラシック音楽の世界では調性音楽から決別するが、結局その荒野から戻りつつといった時期にあります(私の乏しい知識ではそうです)。ギターの世界は、すこし違った歩み方をしているのかも知れません。


●それで

セゴビアのシャコンヌを、極めて安易ですが一応評価?したので、シャコンヌに関して今後はもっと自由に、シェリング以外のバイオリンやラッセルやバルエコといった現代の名演奏家のCDを聴いてみたいと思っています(お金のかからない方法を捜さないと・・)。

わんわんなお、私個人的には、ほんとうはシャコンヌよりフーガが好きです(素人の感覚では、フーガも主題が一つなので一種の変奏曲ととれないこともないですが)。リュート組曲2番のフーガが好みなのですが、残念ながら、というか悔しいというか・・この曲は真ん中にちょっと気になるところ(音域が狭くてわからないところ)があり、すべて好きになれないのです。ほんとうのJ.S.バッハならもっとうまく処理するのではないか・・、それで弟子が作った偽作ではないか・・という気もします。なお、フーガであれば、平均率のフーガはいいですね(でも、ギターでは弾けない・・)。