西アフリカのマリ共和国を旅するゴリラの日記。 -2ページ目

西アフリカのマリ共和国を旅するゴリラの日記。

~この日記は、アフリカマリ共和国をウルルン滞在してきた壮絶??な記録である。

3月3日

今日はトンブクトゥという町に行く。



トンブクトゥ(TIMBUKUTU)

ニジェール川交易のサハラ砂漠の南の終点。

砂漠をラクダで越えてきた塩はここでふねに乗せられ、上流からやってきた金と交換された。

その地理的重要性からトンブクトゥは繁栄し同じく交易の中継地であったジェンネとは『双子の姉妹』とたたえられもした。19世紀には幻の黄金の都市としてヨーロッパ探検隊を魅了。

残念ながら現在は活気が全くなく砂に埋もれつつある街だがトゥアレグの人々がラクダを連れて行ききする姿も見られサハラ砂漠の端を感じさせてくれる。




 

今日はニジェール川のボートに乗って漁村に見学に行くことに・・・・

ガイドのユスゥフと2人分6000CFAとちょっと高い。

ニジェール川は世界最大級のデルタ(三角州)があり三角州の中にいくつもの魚村が形成されている。

雨季にはしばしばデルタがなくなり人が流されるという。

ニジェール川は結構汚い。がしかしインドのガンガーに比ぶればまだまだましだと思う。

ましな部分はガンガーはたくさん牛や人の毛が流れていた。しばし牛の死体も流れてくるという。そして人の霊灰がたくさん流れるがニジェールには流れていないというところか・・・

いつしかガンガーでバタフライを泳ぎ3ヶ月間咳が止まらなかったことがあったので今回ニジェールで泳ぐべきか悩んでしまう。

取り合えず今日はやめておくことに・・・・

さてこの小さな漁村で僕はのんびりした人々の生活を眺めながら癒されようとふんでいたが・・・

ここはかなり観光客によってすれた人ばかりだった。

大人の人にあえば「 サンフラン!!(金くれ!!)」

子供に会えば「ボンボン ミセー(あめくれ!!)」の連続。

ただでさえ魚臭い村だったのでかなり機嫌が悪くなった。



さてこやつらの漁業だが、ちいさな網で魚をかき集めているが僕から見るとかなり非効率な気がする。

ほんとに成長のない人たちだとある種感心した。







 




 



2月29日

今日は朝から小学校へ行った。

ドゴンカントリーの各村にはマリの建物の中ではかなりきれいな学校がありここエンデの村にもある。

学校だけはきれいなので『誰が建てたのか??』と聞くと『ジャポン』か『フランス』と答える。

全く援助に頼ってばかりいやがって・・・

おれの税金返せ!!

マリの人たちは自分で自ら学ぼうという気がないようだ・・・



それはさておき僕は前日大量のボンボン(キャンディ)を買っておいた。

マリの子供たちはボンボンが大好きなのである。

教室に(アポなしで)入っていくと先生に挨拶して僕はボンボンをクラスの子供たちに配った。

みんな大きな声で「メルシー(ありがとう)」と叫んでくれた。→僕は偽善者です。

子供たちの元気な姿を見て小学校の自分を思い出した。

次に子供たちがお礼に僕に歌を歌ってくれるという。

最初は個人で二人が歌ってくれた。

その後、クラスメート全員が大きな声で歌を歌ってくれた。

僕は感動して泣きそうになった。

僕はお礼になぜかサザンの真夏の果実を歌った。

意味わからん・・・ しかしまー 彼らにとって日本語の意味わかっていないからこれでいいのだ。

しかし世界どこに行っても子どもはかわいいものだ・・・

日本の学校は門とを閉めて警戒しているが何か信じられない光景だ。

『僕のような良い大人になってください・・・』

そう思いながら僕は小学校を後にした。






昼は軽くエンデの村をトレッキングして帰る支度をする。

昨日から今日にかけてガイド ユスゥフの家に泊まった。

ユスゥフの兄弟は全部で16人である。

片親が違う兄弟なら20名以上いるという。(ここマリでは多夫多妻性なのだ。だから多い人で6人のワイフを持つこともあるという。)

日本では3人兄弟でも多い方だというとめちゃめちゃ驚いていた。

16人も兄弟がいたら日本ではめちゃめちゃ有名人になれるだろうというとかなりうけていた。

この兄弟たちはとても仲が良くまたおもろくて良い奴ばかりなのだ。

この兄弟たちのおかげで僕はとても楽しい今日と昨日をすごせたことを感謝して僕はコーラをおごってやった。

帰り際、家族全員で僕を見送ってくれた。

僕にとって今回の旅でもっともさみしい別れとなった。

『3年後また来るよ。』

そう約束し僕は牛車の荷台に乗り込んだ。

また涙が流れそうになった。

エンデの村はそれ程、観光客によってズレタ人が少なく良い村だった。

僕はエンデの村に感謝した。



















 




 

2月28日

今日はドゴンカントリーのトレッキングである。

カニコボレという村からエンデという村に歩いて移動。

昼のdinnerは、おなじみのスパゲティである。

今日はちょっと奮発してチキンも食べることに。

チキンは生きているニワトリをその場で調理する。

僕は毛を毟るのを手伝った。

さて料理ができてチキンの味だが・・・・

『うまい!!』

と言いたいところだがお世辞にもうまくない。

肉が引き締まりすぎて固い。しかも臭かった。

またスパゲティも茹ですぎていて給食のスパゲティ以上にダクダクだった。

今回の料理を採点するなら

味 ☆

麺の硬さ ☆

量 ☆☆☆☆☆(量は茹ですぎによるものとする。)



というところか・・・




夕方、マーケットを歩き、その後少年とサッカーをした。

小学生くらいの子供たちだろうか・・・・ もちろん裸足でサッカーである。

小学生とは思えないほどサッカーがうまい。

しかし全くパスを回す気がないらしく個人技ばかりでつまらない・・・

僕はオーバーヘッドを決めようとして空振り。

みんなからオオウケされた。



ドゴンカントリー

ドゴンカントリーは昔は崖の上に住居を構えていた。

そこにはピグニーとよばれる部族とドゴン族が住んでいたらしい。

ピグニーは1mくらいのサルのような人らしい。

ピグニーは、崖の中腹に住居を構えていたらしく普通の人間には到底登ることができない。

16年前ピグニーとドゴンに争いがありピグニーは争いに敗れブルキナファソに逃げたらしい。







 




 



2月27日

今日はモプティからドゴンカントリーへ行った。

朝9時 タクシー乗り場に行く。

プライベートタクシーと聞いていたのにプッシュタクシー(乗合タクシー)じゃねーかよ!!

9時タクシー発車と聞いていたが発車しない。

マリではタクシーに客定員がそろうまで発車しないのだ。

14時まで待つことようやく発車する。

小さなワゴンに26人つめられてもちろん体を動かすことはできない。

ちなみにバスで僕のとなりに座るマリ人の女はとてもきれいで下半身だけは微妙に動けたかも・・・・というより動けた。

聞くところによると彼女は娼婦らしい・・・ ショック・・・ とても清純そうな顔をしていたからだ・・・ (股間を膨らませているおれもおれだが・・・)



ドゴンカントリーに到着。今日はドゴンのカニコボレという村に民泊する予定だ。

途中バンカスに寄る。

今日はフェスティバルがありドゴン族のダンスが見れるのだ。

テンポの早いリズムで太鼓をたたきそれに合わせて仮面をかぶったドゴン族が踊る。

ドラエモンの映画であったシーンを思い出した。

僕も踊ろうとするが止められる。

ドゴン族以外踊ってはいけないらしい。



カニコボレにつくとあたりは真っ暗で夜になっていた。

ガイドともめて少し機嫌が悪かった。

あたりは真っ暗なのにドゴンでは電気、ガスがない。(しかし冷蔵庫のための電気は通っている。)

ランプや懐中電灯で夜を過ごさなければならない。

僕は疲れ果てて椅子にドカンと腰をかけた。

ため息を吐いて上を見上げる。

「めっちゃきれいやんけー」

今まで見たことのないくらいあたり一面に星で一杯である。

僕はウォークマンをを聴きながら4時間くらい星を眺めていた。






はー 日本食と彼女が恋しい・・・











 




 

2月23日 今日は一日ジェンネでゆっくりすることにする。 朝早く、住み込ませていただいている家族が掃除を始めあまりの砂埃で目が覚める。 鼻が乾燥している。鼻くそが砂利になっていた。 昼は民家で飯を食う。(暑くてあまり食欲がわかない) 今日の飯はご飯に魚を豆と煮込んだものである。 かなりうまかった。醤油で煮込んだような味だ。 もちろん右手で食べる。 ちなみに左手はうんこを拭く手で不浄の手とされている。 僕はいまいち分別できず召し食うときもうんこするときも両手を使うのでアフリカではかなり不潔な男になるのだろう。 昼からはバイクを借りて日本人のNさんとツーリングに行った。 4時間10000セファとちょっと高いがかなりお薦めだ。 ジェンネを出て40分くらい走っただろうか・・・ 水郷地帯があり女性と子供が何かの実をとっていた。 僕たちが近づくと『サワサワサワサワサワ』と手拍子して迎えてくれた。 それに合わせて僕は適当に踊ると子供たちはかなり笑ってくれた。 子供たちは何かと写真を撮ってもらいたがる。 自分の顔を見たことがないのだ。 しかし大人のおばちゃんがやってきて写真を撮るなら金を出せと言ってきやがる。 観光地からこんなに離れているのにここでも観光客ズレしている・・・ 僕はちょっと疲れた。

2月23日 今日は一日ジェンネでゆっくりすることにする。 朝早く、住み込ませていただいている家族が掃除を始めあまりの砂埃で目が覚める。 鼻が乾燥している。鼻くそが砂利になっていた。 昼は民家で飯を食う。(暑くてあまり食欲がわかない) 今日の飯はご飯に魚を豆と煮込んだものである。 かなりうまかった。醤油で煮込んだような味だ。 もちろん右手で食べる。 ちなみに左手はうんこを拭く手で不浄の手とされている。 僕はいまいち分別できず召し食うときもうんこするときも両手を使うのでアフリカではかなり不潔な男になるのだろう。 昼からはバイクを借りて日本人のNさんとツーリングに行った。 4時間10000セファとちょっと高いがかなりお薦めだ。 ジェンネを出て40分くらい走っただろうか・・・ 水郷地帯があり女性と子供が何かの実をとっていた。 僕たちが近づくと『サワサワサワサワサワ』と手拍子して迎えてくれた。 それに合わせて僕は適当に踊ると子供たちはかなり笑ってくれた。 子供たちは何かと写真を撮ってもらいたがる。 自分の顔を見たことがないのだ。 しかし大人のおばちゃんがやってきて写真を撮るなら金を出せと言ってきやがる。 観光地からこんなに離れているのにここでも観光客ズレしている・・・ 僕はちょっと疲れた。

マリではインターネットの通信速度が電話回線の100倍くらい遅くまた日本語対応しているネットカフェがほとんどない。
一件メールするのに30分はざらにかかるのだ・・・


今日ついに海外に出た。
僕にとって2度目の海外である。
目指すはマリ共和国。
ここはフランス語とマリの言葉しか通じない。
また地球の歩き方のように詳しいガイドブックも存在しない。(洋書のロンリープラネットはある)
また日本人観光客もきわめて少ないという。
英語もそれほどしゃべれない僕にとって今回はとても大きなチャレンジになるだろう。正直、恐怖感もかなりある。
マリはブラックアフリカと呼ばれるアフリカの中でもアフリカっぽい国だと思っている。
かなり民族色の濃い国で多くの民族と会えることを楽しみにしている。

僕の今回の旅のテーマは
なるだけ一人で動くということ。昨年はインド、カンボジア、タイと行ったが日本人バックパッカーが多くいてかなり助けられた。その分、自分の中で感動することや苦労した経験が少なかったように思ったからである。

もう一つは 多くの 人や民族に会うこと。
去年インドに行って気づいたのだが主要都市だけを行っても本当のインド人の国民性や考えを見ることができなかった。
主要都市は観光客が多く、インド人もすれている人が多いと思ったからである。
できるかぎり現地に近い人たちとコミュニケーションを取ることでマリ人について知ることができれば吸収できることも多くあるだろう。

マリ共和国
首都 バマコ
言葉 公用語 フランス語 の他 バンバラ語、フルフルデ語、ソンガイ語など・・・
マリという国
西アフリカの観光ハイライトのひとつ。独自の神話世界を持つドゴン、ジェンネの大モスク、伝説の『黄金の都』トングクトゥなど見所は盛りだくさん。
これらはユネスコ世界文化遺産にも登録されている。
地方の名もなき村でさえ、泥で塗り固められた家々やモスクがたたずむ様は絵になる。
女性たちの民族衣装も凝ったものが多く美しい。
ただしツーリストが多く訪れるところは人々がどんどん観光客ズレしつつある側面も目に付く。




 

2月20日

朝 あまりの寒さに目が覚める。

そういや空港で寝てたんや・・・・

パリは激寒で外では雪が降っている。

せっかく早く起きたので午前はパリ観光に行くことに・・・

ノートルダム宮殿とエッフェル塔に行った。

ガイドブックも何もなかったが以外にどこでも行けるもんだと思った。

さて観光地だが・・・ 全く感動しなかった。

教科書どおりというか昔学校で教わったことそのままと言う感じだ・・・

やっぱり僕には発展途上国しかない!!そう思った。

ちなみにパリは物価がめちゃ高くてびっくりした。

例えばモーニングセットを普通の喫茶店で食ったら1500円もした。

モーニングセットはパンにバター オレンジジュース、コーヒーだけである。

僕は2度とパリを観光するものか!!と心の中で叫んだ。


 


上はシャルルドゴー(パリ)の空港



2月19日
モスクワについたときパリでの一泊をどうするか焦り出す。
今回マリのことばかり考えていてパリを経由する際一泊しなければならないことを忘れていた。
僕はモスクワ空港内でパリに行く日本人を探した。
昨年タイで日本人に声をかけたがその時に比べヨーロッパに行く人は冷たい人が多い。
ヨーロッパに行く人はツアーなどで行く人がほとんどだからあまり僕のようなバックパッカーの気持ちが分からないのであろう。
タイやインドではほとんどバックパッカーだから困っていることがあれば助け合う。
だからちょっとさみしかった。
というよりヨーロッパに行く日本人の文句を言う前に自分の無計画さに改めてあきれてしまった。
そしてこの無計画さでマリに行く自分がとても不安になった。
23時20分 パリにつく。
僕は空港に着くやいなや早速EXChang(換金所)ボックスに向かった。
『閉まっている・・・』
24時間やっていると聞いていたが夜には閉まるらしい・・・
日本では彼女の忠告を押し切り円をユーロに換えていなかった。
喉が渇いている上、長旅で疲れまくっていた。
どうしよう・・・
泊まるところはおろかお金が使えないため外にも出れない・・・
砂漠の中で金を持っているが水がない姿をアニメなどで目にするがそんな気分だった。
とりあえず今日は空港で寝袋引いて寝るか・・・
僕はまたこれからのマリでの生活が不安になった。
そして喉が渇きまくった。
とりあえず悩んだときは寝るようにするのが僕の習慣である。
なんとかなるさ・・・
そう言い聞かせて僕は寝ることにした。