市ヶ谷にて。 | ちいさな、おはなし。

市ヶ谷にて。

しまった、と思ったときはもう手遅れだった。

きつねそばの表面を、七味唐辛子の真っ赤なかたまりが富士山状に覆う。

苛立っていた。
体調を崩し、仕事も思うようにはかどらない。

混乱した頭の中で、遅い昼飯がわりにその店に入った。

その結果がこれだ・・・

店のおばちゃんにコトの次第を説明し、台無しになったきつぬそばを取り替えてくれと申し立てると、
おばちゃん、不快指数120%の顔でニ杯目のきつぬそばをこしらえて、
僕の前にドンと置きながらこう言った。

「七味のフタは回さなくていいんだから。気をつけてもらわないと。」

ん?いやまてよ何それ!

あまりこういうことはしたくないタチなのだが、やはり腹が立ったのでおばちゃんに言った。

「フタ回してなんかいないんですよ。逆さにしたらいきなりドバッて。」

それ以上の言葉をかけるのは嫌だったのですぐに黙った。

おばちゃんは、不服そうな表情ながらも「それはごめんなさい」と言った。

駅のホーム、立地は最高の立ち食いソバやだというのに、客は誰もいない。
おばちゃんと1対1の気まずい時間が過ぎてゆく。

仕方がないから、食べる。

あらかじめゆでてあるやつをお湯に通しただけの、まったくコシのないソバだ。
つゆは本部のようなところで作ってあるのだろう、それを不思議なマシンのボタンをおしてジャーっと注ぐという、風情も何もない代物だ。


それなのに、美味い。

身体が美味いと言ってるのだから、美味いのだろう。

自分も疲れてるが、このおばちゃんも疲れてるんだろうな。

そういえば、とばかりに、突然頭が思考を始める。

今やっている仕事は、果たしてうまくいくのだろうか。
気まずい相手と、また笑顔で話すことができるだろうか。
苦しんでいる友達の力になるにはどうすればいいのかな。
このわけのわからない孤独感は、どこからくるのかな。

様々な考えが頭をかけめぐって収拾がつかなくなっている。
おそらく発熱だと思った。頭がボーっとしている。

身体のほうはソバを食べ進む。

最後の一滴まで飲み干して、空になったどんぶりをおばちゃんに返す。


さっきは強く言い過ぎました、と言おうかと思ったが、言えなかった。


「ごちそうさまでした」

「ありがとうございました。また来てね」

「はい」


この一件の次の日から扁桃炎で寝込んだ自分は、ときどき眼を覚ましては、天井を見ながらこのおばちゃんのことを思い出した。

そして、ソバを食べながら考えたのと同じことを考えた。

自分の心の深いところまで、進んで進んで、さらに進んで。
そこでたどりつくのは、いつも同じ結論だ。

なんとかなる。

なんとかなるのだ。