湯気と香りと優しさと | ちいさな、おはなし。

湯気と香りと優しさと

彼女がなかなか来ない。

まだ携帯のなかったあの頃、僕にできることはただ待つことだけだった。
カウンターでひとり、文庫本を読みながら。

僕も、初老のマスターも無口で、静かな時間が流れていた。
だいたい、「ねえ、マスター」なんて話しかけるタイプではない。
マスターにしてもそれは同じであったのだ。

彼女は来ない。

気づけばおかわりのコーヒーが置かれている。

いいから飲みなよ、そう彼はボソッと言った。


あの日は結局3時間は待っただろうか。
彼女に急なトラブルがあり、かといって連絡もつかなかったのだ。

会えたときは嬉しかったし、マスターもひそやかに微笑んでたものだ。


結婚したとき、マスターは祝電をくれた。
懐かしくなって、結婚後すぐに、久しぶりに二人であの店に行ってみたところ、
そこはセブンイレブンになっていた。

それから20年近く経った今。
あの日、僕にコーヒーを3杯おごってくれたマスターは、今どこで何をしてるのだろうか。

だいたい想像はつく。
たとえばこうだ。

選りすぐりのコーヒー豆をどこからか仕入れてきて、
古びた自宅のキッチンで作業開始。
ヒジのあたりに男らしく血管を浮き立たせながら、
かつてよりは弱々しいが、それでもたくましく、いさましく、
ゴリゴリゴリゴリ・・・・・と豆を挽く。

沸かしたお湯でいったん蒸らし、数十秒。
いよいよ彼は、見事な呼吸で約3回に分けてコーヒーを注ぐわけだ。

そうして彼は、たぶんこう言う。

「お待たせね」と。

そして差し出すんだ。
たぶん、きっと。

彼の奥さんと、彼自身に。