おぼろ月夜 | ちいさな、おはなし。

おぼろ月夜


木曜日の残業明けに、 銀座・数寄屋橋にある「朧月」(おぼろづき)をたずねてみると、先客はいなかった。

オープンしてからわずか2,3日のこの店は、狭いスペースに椅子席が6個ほど。 スタッフはいない。
店主がひとりで切り盛りしている。

僕が扉をあけて中に入ったとき、店主はネギに何やら切れ目を入れる作業に勤しんでいた。
空腹だった僕は、「肉中華そば」の食券を買って店主に渡した。
店主は注文を復唱してから深々と頭を下げ、水を注いだグラスを僕の前に置く。

こんな自分になど頭を下げないでくれ、と思った。
こんな自分になど。

とにかく今は疲れている。
うつろな目で店主の仕事ぶりを眺めながら、完成品が出てくるのを待った。

ここのところロクなことがないが、 僕は食べ物に関しては極めて運のいい人間だ。
この種の「評判の店」に足を運んでも、それほど混んでいた試しがない。
すでにインターネット上では評判のこの店に来てみても、これほど静かな空間に身を置けるのがありがたかった。

あまりにも丁寧な店主の仕事、その完成品が目の前に出された。

彼の静かな所作とは裏腹に、 大きな器に、普通の店の2倍はあろうかという大量の麺。そしてチャーシュー!

・・・けれど僕は驚かない。 そういう情報はつかんでいたからだ。
たじろぐことなく食らいつくと、予想のはるか上をいく優しい味。 煮干の香る、あまりにも優しい味だ。
日本人の身体にすーっと入り込む、そんな味。

あっという間にたいらげてスープまで全部飲み干すと、案の定、予想していた光景が目に飛び込んできた。

一人、また一人と個人客がやってきて、 狭い店内は、僕が席を立つ頃にはとうとう満員になってしまったのだ。

つくづく僕は、食べ物に関しては運のいい人間だ。いつもこんな調子である。

◇◇
精一杯の笑顔を向けながら「ごちそうさま」と告げると、

店主はまたしても深々と頭を下げ、
今度は口をモゴモゴさせながら 「ありがとうございました」と言った。

店の外に出て銀座の夜空を見上げてみると、そこには朧月が浮かんでいた。
振り返って店の看板を一瞥し、妙に可笑しくなった僕は、有楽町駅までの道を急ぐことにした。

どこか内向的に見えたあの店主の、「また今度来てくださいね」といったような心の声が聞こえる。

また行くに決まっている。

だって、おいしかったから。