キリスト意識  ←このエントリーで はしがき の冒頭部分を抜粋しましたが、その続きを一部抜粋します。


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「キリストのヨーガ」M・マクドナルド・ベイン著  仲里誠桔 訳

はしがき P2より一部抜粋

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~前略~


わたしが今言おうとしていることは、自由すなわち解脱への道、すなわちキリスト・ヨーガに目覚めようとしているあなたにとって、きわめて重大なことである。

たいていの読者の人々の聞き方には身が入っていない。

彼らは、自分の聞きたいことだけしか聞かない。

彼らを洗脳(condition)しているもの、彼らの信仰や見解を突き破ったり、あるいはそれらを揺さぶるものには自分自身を閉ざしてしまう。

彼らは心地よいもの、彼ら自身を洗脳しているものを満足させるものにしか耳を傾けない。


 しかし、われわれが自分を喜ばせるものだけ、また自分の信じていることや観念を満足させ、あるいは確認させるものだけに耳を傾けるならば、正覚(understanding)はありえない。

あらゆることに偏見を抱かずに、また自分の無知、自分の堅信、自分なりの知識、自分特有の個性、自分の見解を守るために防壁を築き上げることをせずに耳を傾けること、そして事柄の真理を見出す意図をもって耳を傾けることは一個の芸術である。

なぜならば、われわれを根本的に解脱させるのは真理のみであって、推論や空論ではなく、真実ならざるものを知覚することだからである。

心を造り成しているものは真理ではない。

真理は心を超えたものである。

ゆえに、真理が啓示されるには、心は捏造をやめなければならない。


 せせこましい、頑迷な心、おのれをがんじがらめにし、盲目にするもろもろの信仰や知識によって洗脳されている心に、物事の真理が啓示されることは決してありえないのである。


 自分勝手に決め込んだことや偏見や経験で散らかっている心でキリスト・ヨーガをものにしようとしたところで、それは不可能である。

キリスト・ヨーガは愛、神の英知、すなわち無礙にして活発々たる神我(ザ・キリスト)であって、単なるその観念ではないのである。

そのような観念は、神我(ザ・キリスト)の創造性に対する障害である。

観念は、あらゆる洗脳するものによって取り囲まれた自我の投影にすぎない。


 ゆえに、耳を傾けるにあたっては、単に言葉を聞くのではなく、その内なる中身に耳を傾けることである。

そうすることによって、あなたは物事の真理を自らの力で発見するであろう。

心が自ら造り成したもろもろのものより解き放たれた時初めて真理は現前する。

あなたが日々の苦闘、恐れ、事業の心労、家族の葛藤、社会での怨憎や欲求不満の中にとらわれているならば、それはあなたにとってあまりにも耐えがたきものであろう。

それゆえに、あなたは救いの手段として、言うところの真理を追い求める。

しかし、そのような形の逃避はいかなる問題をも決して解決することはできない。

それは、いたずらに心を鈍らせるだけであって、混迷は依然として残る。

心が刺激やいわゆる霊感(インスピレーション)により、あるいは祈りや真言(マントラ)によって逃避しようとする限り、解脱に必須な心自身の成り行きを見極めることはできないのである。


 自我を知ることこそが唯一の道である。

あらゆる形の逃避はキリスト・ヨーガの基底にある根本原理よりあなたをそらせるものである。


 ゆえに、耳を傾けるに際して心すべきは、あなたを解脱させるのは観念の蓄積ではなく、単なる推論や理論や空論ではないということである。

それらは真理の創造性に対する妨げでしかない。

自分で作り上げたあらゆるものを纏った自我を看破して初めて、この自我に関する知識(すなわち、自我徹見)こそが真理への戸口であり、キリスト・ヨーガへの関門であることが了得できるのである。



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以上抜粋


ありがとうございました。

いつも愛と感謝とともにキラキラ