M・マクドナルドベイン著

『キリストのヨーガ』 第9章より 一部抜粋


友人の大師とマクドナルド氏の会話


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その瞬間、わたしはこれほどまでに信頼を寄せられているのに、自分はそれに値しないという思いにかられた。

さらにまた、自分は水平線上の単なる一点にすぎないのではないか、とも思われてならなかった。

そのとき、師はこう言われた。師はきっとわたしの心を読んだに違いない。


「いいかね、自我は無(ゼロ)なのだよ。

本当の業(わざ)をなすのは、御霊なのだ。

自我はなにもすることはできない。

むしろそれは邪魔な場合が多い。

そのことが分かると、自我は邪魔しなくなるのだ。


そのお言葉を聞くと同時にわたしは安心した。

わたしには責任はなかったのだ。

わたしよりも大いなる力が働いているのだ。

自我を除けば除くほど、その力は大きくなるのだ。

わたしから恐れはなくなった。

ふさわしくないという思いもなくなった。

わたしは、師がずいぶん前にわたしから自我を取り除いて下さった時のわたしに再び戻った。


自我が出しゃばった時、初めて恐れが生ずる。

それをわたしは悟った。


中略


「自信には二つの種類がある。

ある技術に熟達した者は、技術者としての自分に自信を持っている。

けれども、このような自信は、単に表層だけのものにすぎないことは、きみにもいずれ分かって来る。

しかし、また別のタイプの自信がある。


それは心が活動している、すなわち意識している圏内と、残存している、すなわち無意識の圏内とにおける自分自身を知ることにより生ずる。

表層および隠れた心の動き全体が分かると、ある自信が生ずるが、それは自己主張するようなものや、ずる賢いものではないし、自分の業績の記憶から来る自信でもなく、ものごとを真にあるがままに見ることから生ずる自信である。


「自信が個人の救いや、勢力拡大、業績、信仰にもとづいているのであれば、それは恐れを孕んでいる。

しかし、儀式の正体を徹見しておれば、また、人々、ものごと、観念との関係を理解しておれば、その理解はあなたをあらゆる権威より解放する。


ゆえに、ここには教師と生徒、あるいは壇上に座っている師匠(グル)と下に座っている弟子(チェラ)といったものはない。

それが分かると、あらゆる時間感覚と権威とより、あなたは解放される。


「そのような自信は、愛と情とに富む。

あなたがだれかを愛している時、そこには高いも低いもない。

なぜなら、愛そのものが久遠・不滅であるからである。


「このような状態の中には、内なる静けさがあり、そこには愛、親切、寛大、慈悲がある。

その状態こそが、実に美の真髄なのである。


それがなければ、自分自身を衣装やガラクタで飾り立てても、それは高いとか低いとかいう迷妄に導く五官の価値を強調し、それは対立と分離へと導いて行く。


キリストあるいは仏陀の自信は、すばやい柔軟な心にある。

それは一握りの特権を与えられた者だけのものではない。

およそ生命はただひとつしかなく、その生命は、その生命を妨げている者に気づいている人なら、どんな人でもその人の中で完全に働くのである」




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