知覧特攻平和館にてのメモより

藤井一中尉
第45振武隊 
二式複線9(二式複座戦闘機「屠竜」)
茨城県出身 大正4年(1915年)生 
沖縄周辺洋上 昭和20年5月28日戦死

歩兵科出身で、熊谷飛行学校の中隊長として少年飛行兵に軍人としての精神を教える科目の教官でした。教え子たちが戦死する中、「お前たちだけを死なせはしない。俺も必ず行く」と自らも特攻を志願しました。しかし、航空技術の教官ではなかったので願いは聞き入れてもらえず、特攻への志願、却下が繰り返されました。
そんな中、夫の固い意志を知った妻は、「私たちがいたのではこの世の未練になり、思う存分の活躍ができないでしょうから、一足お先に逝って待ってます」と言う遺書を残し、長女と二女を連れて飛行学校近くの荒川に身を投げました。
藤井少佐は、妻子の死を無駄にしまいと、再度血染めの手紙を書き、特攻隊員になりたいと強く訴えました。軍でもこうした事情を考慮して特攻志願を受理することとなりました。

藤井一中尉 特攻隊員決定後の手紙

「冷え一ニ月の風吹き荒ぶ日
荒川の河原に露と消えし
命、母と共に
殉国の血に燃ゆる父の意志に添って
一足先に父と殉じた哀れにも悲しい
然も笑ってある如く喜んで
母と共に消え去った幼い命がいとほしい
父も近く御前達の後を追って行けることだろう
厭がらずに今度は父の膝に 
懐でだっこしてねんねしようね
それまで泣かずに待っていて下さい
千恵子ちゃんが泣いたらよく御守りしなさい
では暫くさようなら
父ちゃんは戦地で立派な手柄をたてて御土産にして参ります
では
一子ちゃんも 千恵子ちゃんも
それまで待って頂戴」

この想い、決して無にせず報いたい。


補足

複座戦闘機での特攻である。

戦闘機とは、軽量、小回りで敵戦闘機と戦う。

それなのに、250kgの爆弾を抱えて特攻することはかなりの腕が必要とのこと。おまけに複座、これしかなかったと言うことです。

それを彼らは果たした。