日本人には清貧の思想が根付いているからか、
摂生することを美徳としている人が多い。
要するに、ケチなのである。
ケチとは、物事の核心を勿体ぶることだと思う。
私は結構筋金入りのケチで得したい人間だった。
この時代の私は、マウンティングと自分を守ることに必死だった。
ケチで得したいから、知識も体験も考えも絶対に大事な部分は自分だけでとっておくべきだと思っていた。
こうなったきっかけは、妹の誕生である。
私は長女なのだが6歳のときに妹が出来た。
自分中心に全てが回っていた時代が終わった
という喪失感を強く覚えているし、妹にはこれ以上もう何をも盗られたくない、と心の底から願ったのを覚えている。嫉妬と絶望と悲しみと怒りと、どうしようもない無力感。
という喪失感を強く覚えているし、妹にはこれ以上もう何をも盗られたくない、と心の底から願ったのを覚えている。嫉妬と絶望と悲しみと怒りと、どうしようもない無力感。妹を間違って殺す夢とか見ちゃうくらい、妹が居る状態に慣れるまで時間がかかった。受け入れられなかった。はっきり言って私にとっては、ただのサルだった。(笑)
そんな史上最強にサイコな姉を持つ妹は、昔からお気に入りのシールとかを私にくれるような人で、初めてのお小遣いで友だちに奢っちゃうような器のデカい人だった。
私はそんな妹が単純に不思議だったし、子どもながらに心配もしていた。
大きくなってからも私は相変わらずのマウンティングと損得勘定をし続けて、本当に心が疲れた時に、妹のように全てを与えてみようと半ばヤケクソでやってみた。
物質的に与えるのではなく、
気持ち・考え、良いアイデア・知識・体験・学びを全て話す、
ということに徹してみた。
物質は気持ちがなくても案外普通にあげられるし、お金出すのは見栄を張るというマウンティングのジャンルに入るので、やっても効果がないと思ったからだ。
お金以上に知識・体験、学びは、特に怖かった、
だって自分だけ得したいから。
これを話したら、目の前の人が得をして、自分は損をすると本気で思っていたから。
しかしながら、やってみると現実は逆だった。
自分のありのままの気持ち・考え、良いアイデア・知識・体験・学びをシェアしないことは、失わない代わりにそれ以上のことは起きない。
シェアすると、
失わない上に得るものもあり、さらにお互いに信頼関係が生まれたり、自分にとって有益な情報が得られたりした。
そこでありのままの自分をシェアすることは、新しい扉を開く鍵のようなものだと気付いた。
バシバシ扉が開くようになって、いつのまにか損得勘定も消えてた。
損しても良いし、私がどんだけ相手に与えても不公平だ
という感情が全くなくなった。
やはり与えれば入るもので、また気持ちよく出したものは気持ちよく受け取れて、気分が良いのでそのような現実もやってくる。
これを最初に教えてくれたのはあれだけ生まれた時は嫌いだと思った妹だ。
