もうね、びっくりだよ

なにがってこれ! これだよ!


競馬だよ!


競馬だよ……


僕はね、学生のうちから競馬好きだったけど、ネットでは買わない主義だったんだ。必ず現地の競馬場に行った時だけ買うようにしてた。

ネットで買えるってなんか怖かったからね。


でもさ、社会人になってそんな頻繁に競馬場にいけないなー、って思ってしまった僕は先月ネット会員になったわけですよ。

これがもうね、超・画・期・的!

オッズも手軽に見れるし、ネットでしか買えない馬券もあるし、電車賃もかからないし、いいことづくめなんですよ。


なにこれ最高じゃんうほほーい、っと調子に乗った僕はネットで競馬を始めたわけですよ。


その結果?



4000円負けました


大した額じゃないって?


え? 何言ってんの? もう一度言うからよく聞いて


4 0 0 0 円 負 け ま し た



……あのね。金額は大した問題じゃないの。ギャンブルで失うのはお金だけじゃないからね。

そう、時間! 時間を失うのですよ!

この三連休何してたかってずっとPCで競馬してたわけですよ!

世間の若者が勉強だったりデートだったりしてる間に僕はただひとり血走った眼をしながらPCで100円、また100円とお馬さんに金を注ぎ込んでたわけですよ。びっくりでしょ!?


僕 も び っ く り で す


賭けてるときはね、すっごいどきどきするの。例えるなら、そう、ジェットコースター?

あ、5番の馬来てる……2番も来てるな……あ、あれどっちも買ってるなこれ、来たら大穴だぞ……あれ、これ、もしかしたら300万円あたっちゃうんじゃない? 300万!? え、 え、 どうしよう……!


はい、はずれー


これで一気に落とされるわけですよ。この高揚から失望への落差、これにやられてしまうですよ。

しかもよくないのははずれた後ですよ

「ちっくしょう……なんで僕は4番を買ってなかったんだ……考えれば買えたじゃないか……そうしたら100万はとれていたのに! ちくしょう……ちくしょう……」

ってなって、

「ああ、もう3000円も負けてしまった。どうしよう……このへんでやめとこうかな……でも負けを取り返さないと……そうだ、あと1000円かけて4倍の馬連にかければ取り戻せる……そうだ3000円も4000円もたいした差じゃない……もう一勝負しないと」


はい、はずれー


もうね、死にたい。

自分のあほさ加減に。

びっくり死するよ、これは。


僕の悪い癖は負けてると固く固くいこうとすることですよ。ギャンブルの鉄則として負けてるからって買い方を変えちゃいけないってのがあるですが、わかっていても負けている精神状態ではこれがなかなかできない。

いい勉強になったよ、うん!


ということで僕はネットでの競馬をやめることにします。

やっぱよくないね。これは。ゲーム気分で買えちゃうし。


と思って退会のページに行ったら、「日曜日の競馬終了後は解約できません」ときたもんだ。

きっとあれですね。僕みたいな「負けたから競馬やめてやる、ぷんぷん!」みたいなやつが大量発生するからですね。


よし! ならば僕は来週解約できると時になったら即時に必ずやめる!

誓う!

(こう言っとかないとだらだら続けそうで怖いから一応言っとく)


はあ~~

もともと期待値75%のギャンブルですよ。別に儲かるなんて期待してたわけじゃないです。

でも、なんすかね、この喪失感は……


あ、思い出した! 競馬で失うもの!

信頼ですよ! 信頼!

というわけでやっぱネット競馬はよくないな、うん。


ああ、神様。あわよくば来週からは競馬に使っていた時間を別の有意義な何かに使えますように。

僕はね、家族のために生きてきたんだ。妻と娘ひとり。28の時に結婚して30の時に娘が生まれた。それからはそりゃもう必死に働いたよ。馬車馬のようにね。朝から晩まで働いて家に帰ったら寝るだけだった。でもそうしなけりゃ妻と娘が食っていけないからね。ただがむしゃらに働いた。「僕が働く意味ってなんだろう」って考えたこともあった。でも結論ははっきりしてた。きっとそれは「家族のため」だったんだ。その時はそう思えた。

娘が生まれて5年後のことだ。妻と娘は事故で死んだ。自動車事故だったよ。妻が娘を幼稚園に迎えに行った帰りだったんだ。雨でスリップしたトラックとぶつかってドン。後で知ったんだが、妻は頭が割れて血まみれだった。娘は右手と右足が変な方向に折れてまるで出来の悪い人形みたいだったそうだよ。



事故の時僕は会社にいた。そりゃそうだ。まだ夕方だったからね。そして運の悪いことにその日は会社で宴会があったんだ。僕は妻と娘が死んだことなんてこれっぽっちも気付かずに上司に酒をついでまわり、飲まされて、ふわふわした気持でいたんだ。

信じられるかい? 妻と娘が死んだんだよ? なのに僕はいつものように仕事をして酒を飲んでいるだけだった。よくドラマとかで虫の知らせってあるだろう? 近しい人に何かあるとハッと何か感じるってやつ。あれね、嘘だよ。少なくとも僕には何もなかった。何一つ感じるものなんてなかった。あんなの、ウソっぱちなんだ。


そして、宴会の途中で携帯電話がなったんだ。知らない番号だった。電話の向こうは男だった。最初僕はそいつが何を言っているかよくわからなかった。それが悔しくて、僕は必死にろれつの回らない舌で話をし、酒で濁った頭で何とか理解しようとした。そうしてようやく理解できた。つまり要約すると電話の向こうの男は警察か病院か何かの人で僕の妻と娘が死んだってことだ。


それから病院に行った。何日かして葬式をした。当然だ。人が死んだら葬式をしなけりゃいけない。


そして何日かして僕は会社に戻った。仕事をするためにね。仕事を辞めようとも少し思ったんだ。でも無理だった。何かを辞めるなんて能動的なことを、無気力な僕はもう出来なくなっていたんだ。


そうして僕は今生きている。そう。大事なことは今僕が生きているということなんだ。

僕は家族のために生きていた。家族のためなら死んでもいいと思っていた。だけど今、妻と娘は死んだのに僕は今こうして仕事をし変わらずに生きている。おかしいじゃないか。家族のために生きてきたのなら家族を失ったのなら僕は今頃「死んで」なければならない。

となれば可能性はひとつだ。僕は実は家族のために生きてなかったんだ。口ではそう言って、心ではそう思えていても、本当は違った。本当に違った。家族のために僕は真の意味で生きてはいなかった。

僕は妻と娘を愛していた。けどそれは妻と娘のために生きている訳ではなかったんだ。生きる目的のない僕の体のいい言い訳に過ぎなかった。

僕はそれに気がついたのは二人が死んで半年くらいたった時のことだった。その時胸がスッとしたよ。なんだ! そうだったのか! 僕は万有引力を発見したニュートンのような気持になった。笑わずにはいられなかった。こんなことに気づかなかったなんて! こんなことに気づけるなんて! 僕は必死に笑いを堪えた。電車の中だったからね。変な人だと思われてしまう。僕は口元に手をやって周りにそれを隠そうとした。そうして落ち着いて顔を上げたら、電車の窓に僕の顔が写ってた。涙でくしゃくしゃになった汚い男がそこにはひとりで佇んでた。


ねえ、君、僕は今こうして生きている。僕のようになってはいけない。僕だったもののようになってはいけない。だからあえて聞こう。


君は何のために生きているんだい?


「あなたは何に怯えているの」

「怯えている? 僕が?」

「だってそうじゃない。まるで、今にも怪物にとって食われちゃうみたいな顔をしているわ」



「考えるんだ。そして話すんだ。なんでもいい。昨日の夕飯のことでも、明日の天気のことでも、君が好きな映画のことでも、なんでもいい。とにかく、つなぐことだ。君という存在を。君が君であるということを思い出すんだ」

「私は私だわ。そんなの決まり切っていることじゃない」

「違う。そうじゃない」

彼は目を血走らせて、吐き捨てるように言った。

「君が君であるということはとても奇跡的なことなんだ。明日はもう君は君じゃないかもしれない。連続性を保ててないかもしれない」

「ごめんなさい」

少女は謝った。

「あなたの言っていること、半分もわからないわ」



「人殺しというのはね! とても理知的に行われるものなのだよ。そうは思わないかね?」

豊かな髭を蓄えた男性が言った。

「人を殺すという大きな障害を乗り越えて、それでも享受したいメリットが存在したとき、初めて人は人を殺す。計算の上で行われる行為なんだ」

「僕はそうは思いません」

細身の青年が口をはさんだ。

「殺人は人間の感情に大きく起因しています。それが怒りだったり、快楽だったり、その感情は様々ですが、何らかの思いが爆発して発露したものと見るべきでしょう」

「ふん、君は何もわかっていない。いいかね? その感情こそが無意識の計算下に置かれているというのだよ。そもそも、感情というものはね……」

「ねえ、ふたりとも」

黙っていた少女が声を上げた。

「私は計算でも感情でもないと思うわ」

「じゃあなんだと言うんです?」

青年が言った。

「それは、わからない」

「は、なんですか、それ。ふざけてるんですか」

「いいえ、ふざけてなんかいないわ。何かはわからないけれど、それが計算でも感情でもないことはわかるの」

「どうしてです?」

「経験上ね」

少女はにっこりと笑って言った。

その笑顔は花のようで、とても愛らしいものだった。

電車で一組のカップルが隣あって座っている。

男性の左耳と女性の右耳にそれぞれ一つのイヤホンが女性の手元の音楽プレイヤーから伸びていた。


「ね、この歌知ってる?」

「知らない」

「えー、絶対聞いたことあるよ」

「……」

「……」

「……」

「ね」

「なに?」

「私たち、幸せだね」

「……うん」

「……でも、時々思うの。この幸せっていつか泡みたいに消えちゃうんじゃないかって」

「……」

「ね、変な質問していい?」

「……なに?」

「君は本当に、今、私の隣にいるよね?」

「……」

「実は君は私の妄想で、本当はこの電車には私一人しか乗ってなくて、イヤホンも両方私の耳に入ってる、なんてことはないよね?」

「……変わった質問だね」

「でしょ? あはは、ごめんね。変なこと聞いちゃって」

「大丈夫だよ」

「へ?」

「僕は君と一緒だから」

「……そっか! それ聞けて安心したよ。ああ、ほっとしたらなんか眠くなっちゃったな……ね、ちょっと君に寄りかかってもいい?」

「うん」

「えへへ、ありがと」


電車は黙って進んでいく。

音楽プレイヤーは座席の上に取り残されたように置かれていた。

誰も聞いていないイヤホンの先から音楽が漏れている。


カップルはいない。

きっと最初からいなかった。


電車は黙って進んでいく。

「怖いんだ」

何が、と私は聞いた。

「わからない。でも怖いんだ」


「このままでいることが怖い。――いや、違う。そうじゃない。このままでいるのに、もう過去に戻れないことが怖い。僕は変わらない。ずっと一緒だ。なのにもう僕は以前の僕じゃない。僕の周りの人間も、環境も移り変わっていく。おかしいじゃないか。理に適っていない。僕は変わりたいんだ。あるいは変わらないで同じでいたいんだ。どちらでもいい。どちらでもいいのに、なぜどちらも叶わない?」


「なあ僕はおかしなことを言っているか?」

私は首を振った。

「僕は甘えていると思うか?」

私は頷いた。

「僕は夢を見ていると思うか?」

私は答えなかった。


「実は僕は昨日死んだんじゃないか、と思うことがある。電車のホームでちょっとした気の迷いで僕は白線の向こうに吸い寄せられて、肉片になってそこらじゅうに飛び散って、電車の運転手と周りにいた人にちょっとしたトラウマを残して、ダイヤが乱れてたくさんの人が迷惑がったんだ。マグロ拾いの人が吐き気をなんとか抑えながら、僕だったもののパーツを一切れ一切れ拾い上げて袋に詰めていって、思うんだ。『なんで俺がこんなことしなくちゃいけないんだ』『よりによって俺がいるときに』『死ぬなら迷惑がかからないように死ねよ』」


「そうして僕は集められて、どこかで燃やされて、煙になって、それから、……それから、どうなるんだろうね。わからない。わからないけれど、僕が死んでも僕という明日は続いていくんじゃないかと思うんだよ。僕が死んだ昨日は確かに存在したとして、それが僕が生きている今日を否定する理由にはならない。昨日死んだ僕と今日生きている僕は共存しうるんだ。じゃなきゃだって可哀想じゃないか」


「僕が死んでも僕は続いていく。僕が生きても僕は続いていく。僕が変わらなくても僕は続いていく。僕が変わっても僕が続いていく。なら、僕はいつ終わるんだ? なあ、教えてくれよ」


しんとした空気が流れた。

彼は私を見つめた。

私は彼を見なかった。

私は最初彼に何も言わないつもりだった。

でも、あまりにも、彼が○○だったので、気が変わったのかもしれない。


「今だよ」

私は口を開いた。

「今、終わるんだ、君は。たった今。この瞬間に」


そうして彼は終わった。


さあ。また明日が来る。