ジョン・ロック・ホールデンの話をしよう。


ジョン・ロック・ホールデンは背が低い。彼はそれを気にしているので(というよりは気に病んでいるので)、僕はなるべくならその話題に触れたくないのだけど、彼は自ら折に触れ、自虐的にその話題にしたがるものだから、僕はその度困ってしまう。


ジョン・ロック・ホールデンは眼鏡をかけている。近視用の度がどぎついやつだ。子供の頃に本を読みすぎたせいだ、と彼は言っている。それが本当かは僕にはわからないけれど、彼が本をこよなく愛し、知識欲も深い現状を見るに恐らくそうなのだろうと思う。

彼の眼鏡はよくずり落ち、鼻にひっかっかったそれをよく中指で持ち上げていた。


ジョン・ロック・ホールデンは茶髪である。男のくせに髪を伸ばし、後ろでひとつ縛りにしているものだからよく友人にからかわれている。彼曰く、ポニーテールにするのは何も女性の特権ではないだとかなんとか。僕にはよくわからない話だ。


ジョン・ロック・ホールデンは大学生である。彼の専門は量子力学で、アメリカ文学専攻の僕には全く理解の及ぶところではないのだけれど、彼はそれを知ってか知らずかよく僕に研究の話をする。その度僕は気取った顔をしてわかったふりをしなければならないのだ。正直、結構大変である。


ジョン・ロック・ホールデンには彼女がいる。高校生の時から付き合っている愛らしいブロンドの女の子だ。その事実がわかった時、僕らは慌てふためき、天変地異でも起こったかのような騒ぎが起きた。それくらい彼に恋人がいるということは衝撃的なことだったのだ。

驚くべき点は3つある。彼が恋愛に興味があるということ。彼を愛する女性が存在するということ。その女性が美人だということ。

やれやれ。


ジョン・ロック・ホールデンは犬を飼っている。名前はローズ。ローズヴェルトが正式な名前だと彼は言う。ローズヴェルトをローズと略すなんて事があるのか彼に聞いたことがあるが、彼は笑ってごまかした。英語が苦手な僕をからかっているのかもしれない。ちなみに犬種はヨークシャーテリアのオスだ。


ジョン・ロック・ホールデンは人殺しである。

それ以上でも以下でもない。

「何か忘れている気がするんだ」

少年は言った。

「でも、それが何かは思い出せないのだけれど、きっと大したことじゃないことはわかるんだ。そういうことってあるだろう? ペットの犬の散歩だったり、3日後までにやらなきゃいけない宿題だったり、図書館の本の期限だったり、何かこう、そう、『差し迫ってない』ことなんだ。たぶんこのまま忘れてしまっていても今後生きていくのに大きな影響のないようなこと」


「だったら思い出さなくてもいいじゃないかって? ううん、確かにね。……そうだよね」


少年は言葉とは裏腹に困った顔をした。


「もしかしたら、それは思い出さない方がいいことなのかもしれない。僕が、自分で、意図的に、忘れたんだ。例えば宿題をやるのが面倒くさくなって放っておいて『わざと』忘れた振りをしていたような。図書館の本が面白いから期限に気づかない振りをし続けているような。でも、そのうちにきっと本当に忘れちゃったんだ」


少年は少し黙った。


「不思議だよね。大したことじゃないことは分かっているのに。でも、今、この場で思い出さなければ一生思い出せない気がするんだ」





「ねえ、最後に一言だけ言っていいかい」


少年は泣きそうな笑顔で言った。


「恐い」

このところ,わたしはとても幸せだ。
恋人は優しく健康で,家族も元気で,勉強も面白くなってきた。

でも幸せを感じれば感じるほど,
その幸せについて深く分析するのを避けている自分に気づく。

私は,わたしの幸せが分析によって変質してしまうようなものだと感じているからだろうか。

それとも,

わたしが,分析という行為そのものが,
分析対象に関する見方を変えてしまうという性質を持っていると考えているからだろうか。
今までの経験から言って,納得いかないことや不満の分析は面白かった。
それは分析によって,なーんだ,こういうことだったのね,私はここが不満なのね,
と思えるからなのだが,

なんとなく,幸せを分析したときの「なーんだ」は,なんだか悪いことのような気が,
しないでもないのだ。いや,しない,いや,やっぱりする。
いや,はっきりそう感じるわけじゃないのだけど…
となんだか自己弁護に入ってしまうということはやっぱりそういう気がしているということなのだ。


幸せの分析は,まだ難しそうである…



夢を見た。

朝、目が覚めた時、世界が少し変わっていることに僕は気がついた。

ただ同時に、それはどうでもいいことなんで、気にしなければそれだけで済む問題であることも同時に僕は認識していた。


例えば。

両親の新婚旅行の場所がオーストラリアからアメリカになっていただとか。

自分の大学時代の仲の良いグループに本当は忘れているもう一人いたことだとか。

実は僕が認識している僕の茶碗の模様が、全然違ったことだとか。


どうでもいいのだ。

至極どうでもいい。

星新一でもそんな話があったし、本当にどうでもいい。


でも、なぜか、僕は、底知れぬ恐怖を感じた。

目の前が真っ暗になるような感覚、というよりは、背中に汗をかき続けている感覚。

何かとんでもなく取り返しのつかないことを自分は今、現在進行形で行なっているような感覚。


ああ、確かにこれはどうでもいいことだ。

全くどうでもいい。

でも、ちょっと待てよ。

どうでも良くないことなんて僕にはないんじゃないだろうか?


目が覚める。

夢から起きる。


僕は自問自答する。


そう、

僕はもっときっと、

取り返しのつかない何かをしたいんだ。


そして全力で後悔したい。

そして死にたい。


でないときっと、このままじゃ。

僕はきっと後悔することすらできない。

僕は一生忘れられない日が3つある。

ひとつは初めての彼女に振られた日のこと。

ふたつめは母親が死んだ日のこと。

そしてみっつめ。

誰に言っても信じてもらえないとは思うけれど、僕は一応正直に要ってみようと思う。

僕は右手の甲から羽が生えた日のことをいまでも僕は忘れることができない。


その日の朝、ベッドで目覚めると、僕はある異変に気がついた。

右手がどこかムズムズするというか、違和感がある、なんとも気持ちのよくない何かを感じたからだ。


僕は右手を見ると、そこには羽が生えていた。

まるで歴史上の絵画で見るような天使の羽だった。


意識をすると僕はその羽を動かすことができた。

最初はおっかなびっくりだったけれど、30分もそうして試すうちに僕はその羽で空を飛べるコツを覚えた。

僕は窓から飛び出した。

飛べるとわかって飛ばないなんて人はいないだろう?


僕は空に羽ばたき、街を見下ろした。

きもちいい風が吹いていた。

街の人々の姿がとてもよく見えた。


けれど途中で僕は何かおかしなことに気がついた。

誰も僕のことを見て驚かないのだ。


いや、正確にはそうじゃない。

誰も驚かないのではない。

誰も僕のことを見ていないのだ。


不安になった僕は地上に降りてみた。

いつものように街を二本の足で歩く。

しかし、誰も僕を見て驚かない。


僕は道行くサラリーマン風の男性に声をかけた。

とある場所への案内を聞いてみたのだ。

もちろんそれは話しかける口実に過ぎなかった。

その男性はとても丁寧に、親切に道順を教えてくれた。

僕は深々と頭をさげて、お礼をした。


ただ、やっぱりおかしなことがあった。

彼は僕の右手を見ても驚かなったのだ。


それから試してみて分かったのだけれど、誰も僕の右手の甲から生えている羽を見ることはできないようだった。

無理もないことかもしれないと私は思った。

だって手の甲から羽が生えた人間がいるなんて聞いたことも見たことも僕はなかったから。


今でも僕は時々、その羽を使って空に飛たつ。

もしかしたらその羽は、僕の妄想に過ぎないまがいものに過ぎないのかもしれない。

誰も僕が飛んでいる姿を見ないし、僕の右手の翼を見ることもできない。

けれど。

僕の右手の甲には羽が生えている。


嘘でも、それは本当なんだ。

だって。

だから僕は飛ぼうと思う。

自分だけの、そら。見えない翼で見えない空に飛んで、そして、羽ばたくのだ。

きっと、どこかへ。