聖ジャンヌ・ダルク


裁判と処刑


裁判


ジャンヌは1431年1月9日、ルーアンで異端の罪で裁判にかけられた。男装で神を冒涜した、悪魔的な幻視に従って行動した、神のみが裁くと主張して自分の言葉や行いを教会に提出することを拒否した、などの容疑がかけられた。ジャンヌを捕らえた者たちは、彼女の判決を教会の法廷に提出する事で裁判の世俗的な側面を軽視したが、裁判は政治的な動機に基いていた。ジャンヌは、幻視によってイギリス軍を倒してシャルル1世を戴冠するよう指示されたと証言し、その成功は神に代わって行動していた証拠であると主張された。異議が唱えられなければ、彼女の証言はイギリスによるフランス統治の主張を無効にし、イギリス王による二重君主制を支持していたパリ大学の立場を弱める事になる。​​判決は既定路線だった。ジャンヌの有罪は、シャルル1世が異端者の行為によって聖別された事を示す事により、彼の正当性の主張を危うくするのに利用される可能性がありました。コションが裁判の通常判事を務めました。イギリスは、コションとフランスの異端審問官の代理人であるジャン・ル・メートルへの支払いを含め、裁判に資金を提供しました。裁判に参加した131人の聖職者の内8人を除く全員がフランス人で、3分の2がパリ大学に関係していましたが、その殆どはブルゴーニュ派とイギリス派を支持していました。コションは正しい異端審問の手続きに従おうとしたが、裁判には多くの不規則性があった。裁判中、ジャンヌは教会の手に委ねられ、女性に監視されるべきだったが、その代わりにイギリス人によって投獄され、ベッドフォード公爵の指揮下にある男性兵士に監視された。教会法に反して、コションは裁判を進める前にジャンヌの悪名を立証していなかった。ジャンヌは尋問が始まってからかなり経ってから、自分に対する告訴を読み上げられた。手続きは異端審問の基準を下回っており、ジャンヌは弁護士なしで長時間の尋問を受けた。裁判の聖職者の1人は、証言が強要され、ジャンヌを陥れる意図があると感じて辞任した。もう1人は、裁判を裁くコションの権利に異議を唱え、投獄された。裁判記録が改ざんされたという証拠がある。裁判中、ジャンヌは大きな自制心を示した。彼女は尋問官たちに、同時に質問するのではなく順番に質問し、適切な場合には記録を参照し、彼女が要求した時に尋問を終了するよう促した。裁判の証人は、質問に答える時の彼女の慎重さに感銘を受けた。例えば、あるやり取りで、彼女は自分が神の恩寵の中にいる事を知っているかと尋ねられた。この質問は、教会の教義では誰も神の恩寵の中にいるかどうか確信する事はできないとされていた為、学問的な罠として意図されていた。彼女が肯定的に答えれば、異端の罪で告発され、否定的に答えれば、自分の罪を告白した事になる。ジャンヌは、もし自分が神の恩寵の中にいないのなら神が自分をそこに置いて下さる事を望み、もし自分が神の恩寵の中にいるのなら、その状態が続く事を望むと述べる事によって、この罠を回避した。彼女の裁判に出席した公証人の1人は、後に、尋問官たちが彼女の答えに唖然としたと証言した。彼女に服従するよう説得する為、ジャンヌは拷問器具を見せられた。彼女が脅迫に屈しなかった為、コションは12人程の陪審員(聖職者)と面会し、拷問を受けるべきかどうか投票した。大多数は反対した。5月初旬、コションはパリ大学に異端の告発を要約した12の条項について審議するよう要請した。大学は告発を承認した。5月23日、ジャンヌは法廷から正式に訓戒を受けた。翌日、彼女はサントゥアン修道院の墓地に連れ出され、公の非難を受けた。コションがジャンヌの判決文を読み始めると、彼女は服従する事に同意した。彼女は武器を所持せず、男性の服を着ないという同意を含む棄権文書を提示された。それは彼女に読み上げられ、彼女はそれに署名した。


処刑


公然の異端は死刑に値する罪であり、悔い改めない異端者や再発した異端者は世俗の裁判所の裁きに委ねられ、死刑に処せられる可能性がある。異端宣告書に署名したジャンヌは、もはや悔い改めない異端者ではないが、異端に再発したとして有罪判決を受けた場合は処刑される可能性がある。異端宣告の一環として、ジャンヌは男性の服を着る事を放棄する事が求められた。彼女は服を女性のドレスに着替え、頭を剃る事を許した。彼女は教会の刑務所に移送される代わりに、独房に戻され、鎖に繋がれた。更生裁判の証人は、ジャンヌは虐待や強姦の試み(イギリス貴族による物を含む)を受け、看守が彼女の独房に男性の服を置いて、それを着るよう強制したと述べた。コションは、ジャンヌが男性の服を着る事を再開した事を知らされた。彼は彼女に服従を続けるよう忠告する為に聖職者を派遣したが、イギリス軍は聖職者が彼女を訪問する事を妨害した。


5月28日、コションは他の聖職者数名と共にジャンヌの独房を訪れた。裁判記録によると、ジャンヌは、男性の看守に拘束されている間は男性の格好をした方が相応しいと思ったので男性の服を着る様になったと述べ、裁判官はミサに行く事と鎖から解放するという約束を破ったと述べた。彼女は、もし裁判官が約束を果たしてまともな刑務所に入れてくれるなら従うだろうと述べた。コションが彼女の幻視について尋ねると、ジャンヌは、声が恐怖から棄教した事を責めており、二度と否定しないと述べた。ジャンヌは棄教する為に幻視を否定する必要があった為、これは異端に逆戻りしたとして有罪とし、死刑を宣告するのに十分であった。翌日、ジャンヌの運命を決める為に42人の陪審員が召喚された。残りの者たちは、彼女にもう一度異端宣告を読み上げ、説明するよう勧めた。結局、彼らは全員一致で、ジャンヌは再発した異端者であり、罰の為に世俗の権力であるイギリスに引き渡されるべきだと投票した。ジャンヌは19歳くらいの時、1431年5月30日に処刑された。朝、裁判所の手続きでは異端者には秘跡を受けさせないとされていたにも拘らず、彼女は秘跡を受ける事を許された。その後、彼女はルーアンのヴュー・マルシェ(旧市場)に連れて行かれ、そこで公に有罪判決が読み上げられた。この時点で、彼女は世俗の判決を受ける為に適切な当局であるルーアンの執行官に引き渡されるべきだったが、代わりにイギリス軍に直接引き渡され、火炙りの刑の為に高い漆喰の柱に縛り付けられた。彼女は死ぬ時に十字架を見せてほしいと頼み、イギリス兵が棒で作った十字架を渡され、それにキスをして胸の横に置いた。サン・サヴール教会から行列用の十字架が運ばれてきた。彼女は両手を縛られる前にそれを抱きしめ、処刑の間もそれを目の前に掲げていた。死後、彼女の遺体はセーヌ川に投げ込まれた。


その後の出来事と更生裁判


ジャンヌの処刑によって軍事情勢は変わらなかった。彼女の勝利はアルマニャックの士気を高め、イングランド軍は勢いを取り戻す事ができなかった。1431年、パリのノートルダム大聖堂で10歳のイギリス王ヘンリー6世の戴冠式が行われたにも拘らず、シャルルはフランス王のままだった。1435年、ブルゴーニュ人はイギリスとの同盟を放棄し、アラス条約に署名した。ジャンヌの死から22年後、1453年のカスティヨンの戦いでフランスの勝利で戦争は終わり、イギリス軍はカレーを除くフランス全土から追放された。ジャンヌの処刑はシャルルに政治的な負担をもたらし、フランス王としての彼の叙任が異端者の行為によって達成された事を示唆した。1450年2月15日、ルーアンを奪還してから数か月後、シャルル1世は神学者で元パリ大学学長のギヨーム・ブイエに検死審問を開くよう命じた。ブイエは簡単な調査でジャンヌの裁判の証人7人に聞き取り調査を行い、ジャンヌを異端者とする判決は恣意的であると結論付けた。ジャンヌは政治犯として扱われた戦争捕虜であり、根拠もなく死刑に処された。ブイエの報告書は判決を覆す事はできなかったが、その後の再審への道を開いた。1452年、ジャンヌの裁判に関する2回目の検死審問が、教皇特使でシャルルの親戚であるギヨーム・デストゥーヴィル枢機卿と、最近任命されたフランスの異端審問官ジャン・ブレアルによって開かれ、約20人の証人に聞き取り調査を行った。検死審問は、ジャンヌの裁判がいかに偏っていたかを記した27条の条項に基づいて行われた。検死審問の直後、デストゥートヴィルは6月9日にオルレアンに行き、5月8日に包囲解除を記念してジャンヌを偲んで行われた式典に参加した人々に免罪を与えた。その後2年間、デストゥートヴィルとブレアールはこの事件に取り組んだ。ブレアールは1454年に、ジャンヌの母イザベルとジャンヌの2人の兄弟ジャンとピエールからの請願書を教皇ニコラウス5世に提出した。ブレアールは調査結果の要約をフランスとイタリアの神学者や弁護士、ウィーン大学の教授に提出したが、その殆どはジャンヌに有利な意見を示した。1455年初頭にニコラウス5世が死去した後、新教皇カリクストゥス3世は復権裁判を許可し、その過程を監督する委員を3名任命した。ランス大司教ジャン・ジュヴェナル・デ・ユルサン、パリ司教ギヨーム・シャルティエ、クタンス司教リチャード・オリヴィエ・ド・ロンゲイユである。彼らはブレアルを異端審問官に選んだ。復権裁判は1455年11月7日、ノートルダム大聖堂でジャンヌの母親が娘の復権を正式に要請した事で始まり、1456年7月7日、ルーアン大聖堂で約115人の証人から証言を聴取して終了した。裁判所は当初の裁判は不当かつ欺瞞的であると判断し、ジャンヌの棄教、処刑、及びその結果は無効となった。ブレアールは裁判の要約で、コションと彼を支持した陪審員が悪意と異端の罪を犯した可能性があると示唆した。裁判所の判決を強調する為、告発状は正式に破棄された。裁判所はジャンヌの処刑場所に十字架を建てるよう命じた。


ビジョン


ジャンヌの幻視は彼女の有罪判決に重要な役割を果たし、彼女が幻視を再び意識する様になった事を認めた事が処刑に繋がった。当時の神学者たちは、幻視には超自然的な原因があると信じていた。裁判の評決官たちは、教会の形式であるdiscretio spirituum(霊の識別)を用いて、ジャンヌの幻視の具体的な原因を特定する事に焦点を当てた。彼女は異端の罪で告発されていた為、評決官たちは彼女の幻視が偽りである事を証明しようとした。更生裁判でジャンヌの判決は無効となったが、彼女の幻視が本物であるとは宣言されなかった。1894年、教皇レオ13世はジャンヌの使命は神の啓示による物だと宣言した。現代の学者たちは、彼女の幻視の神経学的及び精神医学的原因の可能性について議論してきた。彼女の幻視は、てんかんまたは側頭葉結核腫から生じる幻覚であると説明されている。他にも、幼少期の育ちによって引き起こされた麦角中毒、統合失調症、妄想性障害、または創造的精神病質が原因であるとする説もある。1903年の列聖裁判で、信仰の促進者の1人は、彼女の幻覚はヒステリーの現れかもしれないと主張した。他の学者は、裁判で尋問官の要求に応じて、幻覚の特定の詳細の幾つかをジャンヌが作り出したと主張している。これらの説明の多くは異議を唱えられており、ジャンヌが異端の罪を犯した事を示す為に作成された裁判記録は、医学的診断を裏付ける為に必要な症状の客観的な説明を提供していない可能性が高い。ジャンヌは、自分の幻覚の神性を固く信じていた為、自信が強まり、自分を信頼する事ができ、捕らえられ裁判にかけられている間も希望を抱く事ができた。


服装


裁判中、ジャンヌの女装は彼女に対する告発記事の5つで話題になった。 鑑定士の見解では、それは彼女の異端の象徴でした。彼女が再び男性の服を着ているのが発覚し、それが異端に逆戻りした兆候とみなされた時、彼女への最終的な非難が始まりました。シノンへの旅の時から棄教に至るまで、ジャンヌは大抵男物の服を着て、髪を男性風に刈り上げていた。ヴォークルールからシノンのドーファンに会う為に出発した時、ジャンヌは黒いダブレット、黒いチュニック、短い黒い帽子を被っていたと言われている。捕らえられる迄には、彼女はもっと凝った服装をしていた。裁判では、ズボン、マント、鎖帷子、ダブレット、ダブレットに20本の紐で結ばれたホース、タイトなブーツ、拍車、胸当て、ブーツスキン、剣、短剣、槍を身に着けていたと告発された。また、毛皮を着て、鎧の上に金色の外套を着て、高価な布で作られた豪華な乗馬服を着ていたとも言われている。裁判の過程で、ジャンヌが女装した具体的な理由を述べた記録はない。彼女は、男装は自分の選択であり、男性からの要請ではなく神と天使の命令による物だと述べた。彼女は、使命を果たしたら女装に戻ると述べた。ジャンヌの女装は処刑を正当化する為に使われたが、教会の立場は明確ではなかった。一般的には罪と見なされていたが、その重大さについては合意がなかった。トマス・アクィナスは、女性は敵から身を隠す為、または他に服がない場合に男装してもよいと述べており、ジャンヌは敵地でシノンに向かう為に男装し、服を奪われた後は牢獄で男装した。オルレアンの包囲が解かれた直後、ジャン・ジェルソンは、ジャンヌの男装と髪型は彼女の使命に相応しい物であり、彼女は戦士であり男装の​​方が実用的であると述べた。女装はレイプを抑止する事で処女を保つのに役立ったかもしれない。無効化裁判の証人は、ジャンヌが男性の服を着る事を放棄した後、男性の服を着る様になった理由の1つとしてこれを挙げたと述べた。然し、学者たちは、彼女が投獄されていた時、殆どの時間手錠をかけられていた為、男性の服を着る事はレイプに対する僅かな抑止力にしかならなかっただろうと述べている。ジャンヌは活動的な人生の殆どにおいて、性別を隠す為に女装をした訳ではない。寧ろ、それは、性別の役割を超越して人々にインスピレーションを与える美徳の模範であるラ・ピュセルとしての彼女のユニークなアイデンティティを強調する為に機能したのかもしれない。


遺産


ジャンヌは中世で最も研究されている人物の1人です。その理由の1つは、2度の裁判で膨大な資料が得られた事です。ジャンヌのイメージは時と共に変化し、フランスの救世主、ローマ カトリック教会の従順な娘、初期のフェミニスト、自由と独立の象徴などとなりました。


軍の指導者でありフランスの象徴


ジャンヌは、イギリス軍をフランスから追い出すのに貢献した軍事指導者として、死の前から名声を築き始めていた。シャルル7世の戴冠式の直後、クリスティーヌ・ド・ピザンは、ジャンヌを神の摂理によって派遣されたシャルル7世の支援者として讃え、オルレアンでの勝利後のフランスの楽観主義を反映した詩『ジャンヌ・ダルクの死』を書いた。オルレアンでは、早くも1429年5月8日の包囲解除を祝う祝賀会が開かれ始めた。ジャンヌの処刑後、オルレアンでの勝利における彼女の役割は、彼女の名誉回復に対する民衆の支持を促した。ジャンヌは毎年の祝賀会の中心人物となり、1435年までに劇『オルレアン包囲の謎』で、オルレアンを解放した神の意志の伝達者として描かれた。ジャンヌを讃えるオルレアン祭は現代でも続いています。ジャンヌの名誉回復裁判から10年も経たない内に、教皇ピウス2世は彼女をフランス王国を救った侍女として描写した短い伝記を書きました。ルイ12世は1500年頃にジャンヌの長編伝記を著しました。


ジャンヌの初期の遺産は、フランスを統治する王権の神聖な権利と密接に結びついていました。フランス革命の間、彼女の評判は王権と宗教との関わりから疑問視され、オルレアンで行われたジャンヌを讃える祭は1793年に中止されました。1803年、ナポレオン・ボナパルトは祭の再開とオルレアンでのジャンヌの新しい像の製作を認可し、「高名なジャンヌは、国家の独立が脅かされた時にフランスの天才が成し遂げられない奇跡はない事を証明した」と述べました。それ以来、彼女はフランス国家の守護者としての著名なシンボルとなった。普仏戦争でフランスが敗北した後、ジャンヌは彼女の生まれたロレーヌ地方を取り戻す為の新たな運動の結集点となった。第三共和政はオルレアンでの彼女の勝利を祝う為、5月8日に彼女に敬意を表して愛国的な市民の祝日を開いた。第一次世界大戦中、彼女のイメージは勝利を鼓舞する為に使われた。第二次世界大戦では、フランスのあらゆる側が彼女の遺産に訴えた。彼女はヴィシー政権下のフランスにおけるフィリップ・ペタンのシンボルであり、自由フランスを率いたシャルル・ド・ゴールのモデルであり、共産主義抵抗の模範であった。より最近では、彼女と王政及び民族解放との関わりから、彼女は王政運動アクション・フランセーズや国民戦線党を含むフランス極右のシンボルとなっている。ジャンヌのイメージはフランス政治のあらゆる分野で使われており、フランスのアイデンティティと統一に関する政治的対話において重要な参考資料となっています。


聖人であり英雄的な女性


ジャンヌはローマカトリック教会の聖人です。包囲が解かれた後、彼女はオルレアンで宗教的人物とみなされ、1800年代まで毎年、彼女に代わって賛美歌がそこで唱えられました。1849年、オルレアン司教フェリックス・デュパンルーは国際的な注目を集める演説を行い、1869年にローマに列福手続きを開始するよう請願しました。彼女は1909年に教皇ピウス10世によって列福され、1920年5月16日に教皇ベネディクトゥス15世によって列聖されました。彼女の祝日は処刑された記念日である5月30日です。1922年3月2日、ピウス11世は使徒書簡の中で、ジャンヌをフランスの守護聖人の1人と宣言した。ジャンヌはキリスト教の殉教者ではなく、聖母マリアとして列聖された。なぜなら、ジャンヌは教会法に基づいて設置された法廷で処刑されたが、処刑されたのはキリストへの信仰の為ではなく、個人的な啓示の為だったからだ。それでも、彼女は死後、慎み深さと純潔さ、祖国、そして信念の強さの為に苦しんだ殉教者として広く崇敬されてきた。ジャンヌは英国国教会でも先見の明のある人物として記憶されており、5月30日に記念式典が開かれる。彼女はカオダイ教の神殿で崇敬されている。ジャンヌは生前から、エステル、ユディト、デボラといった聖書の女性英雄と比較されていました。彼女の処女の主張は、彼女の美徳と誠実さを意味し、百年戦争のアルマニャック側とブルゴーニュ・イングランド側の両方の地位のある女性たち、即ちシャルル7世の義母であるアラゴンのヨランド、ベッドフォード公爵夫人のアンヌによって支持されました。ジャンヌは、家父長制文化の中で個人として耳を傾けて貰う為に男らしさと女らしさの伝統に挑戦し、自分のビジョンの声に耳を傾けて自分の進路を定めた自立した女性の模範と評されてきました。彼女は勇敢な女性としての地位を維持しながら、軍のリーダーという伝統的男性の役割を果たしました。両方の性別に関連する資質を融合したジャンヌは、何世紀にも渡って数多くの芸術作品や文化作品に影響を与えてきました。 19世紀には、伝記、戯曲、楽譜など、彼女に関する何百もの芸術作品がフランスで作成され、彼女の物語はヨーロッパと北米で芸術の主題として人気を博しました。1960年代までには、彼女は何千冊もの本の題材になりました。彼女の遺産は世界的な物となり、世界中の小説、戯曲、詩、オペラ、映画、絵画、児童書、広告、コンピューターゲーム、漫画、大衆文化に影響を与えています。



聖ジャンヌ・ダルクへのロザリオ


2007年5月25日午後9時59分に公開されました。イヴ著


伝統的なロザリオで唱えられます…


1.「主祷文」と「使徒信経」を暗唱します。


2.最初の3つのビーズで「めでたし、聖ジャンヌ ダルク」と唱えます。


めでたし、聖ジャンヌ ダルク。イエスとマリアが貴女と共におられます。貴女は世界中の全ての女の子の中で祝福されており、貴女の評議会は祝福されています。祖国の守護者であり守護者である聖ジャンヌ・ダルク、貴女の絶え間ない祈りによって、私たちの国が再びキリスト教徒となり、統一を取り戻します様に。アーメン。


3. 「栄唱」を唱えます


4. 5 つの謎について瞑想します。


-第1連:大天使聖ミカエルはジャンヌにフランス王国を救わなければならないと告げます。神秘の果実:神の意志を行う事。


-第2連:シノンでは、ジャンヌが王太子に自分が王の息子であり、ランスで戴冠する事を明かします。神秘の果実: フランスが秘跡に戻る道を見つけられます様に。フランスの復活を祈りましょう。


-第3連:ジャンヌは包囲されたオルレアンの街を救出し、ランスでシャルル 7 世に戴冠させます。神秘の果実: 自分の信仰を肯定する勇気と大胆さを持つ事。


-第4連:ジャンヌはコンピエーニュで捕虜となり、イギリス人に引き渡され、全員に見捨てられます。神秘の果実: 困難な時でも絶えず祈りなさい。


-第5連:ジャンヌはルーアンで生きたまま火刑に処せられる。神秘の果実:神に仕え、神に栄光を帰す事。


大珠で「主祷文」を唱えます。


小珠で、次の祈りを唱えます。


聖ジャンヌ・ダルク、私たちの為に、フランスの為に、ヨーロッパの為に、そして世界の為に祈って下さい。


「栄唱」を唱えます。


このロザリオの締め括りとして、次の祈りを唱えます。


信仰と祖国を守る為にジャンヌ・ダルクを奇跡的に育て上げた神よ、ご自身の執成しを通して、私たちに、貴方の民を確実にする賢明で正義の人たちを選び、統治し、導く方法を教えて下さい。 聖なる法律、教会の静けさ、秩序、自由を尊重する事によって。聖ジャンヌ・ダルク、私たちの為に祈って下さい。




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