聖ドミニコ


聖ドミニコ(1170年8月8日-1221年8月6日)は、ドミニコ・デ・グスマンとしても知られ、カスティーリャのカトリック司祭であり、ドミニコ会の創設者です。彼は天文学者と自然科学者の守護聖人であり、彼と彼の修道会は伝統的にロザリオを広め、大衆化した功績があるとされています。彼は、オスマのドミニコ、カレルエガのドミニコ、ドミンゴ・フェリックス・デ・グスマンとも呼ばれています。


生涯


誕生と幼少期


ドミニコはスペインの旧カスティーリャ地方のオスマとアランダ・デ・ドゥエロの中間にあるカレルエガで生まれました。彼はシロスの聖ドミニコに因んで名付けられました。サント・ドミンゴ・デ・シロスのベネディクト会修道院はカレルエガの数マイル北にあります。最も古い物語の出典であるザクセンのヨルダンによる物で、ドミニコの両親の名前は記されていません。物語によると、彼が生まれる前に不妊の母親がシロスの修道院に巡礼し、口に燃える松明を持った犬が子宮から飛び出し、地面に火をつけた様に見える夢を見たそうです。この話は、彼の名前に因んで彼の修道会がドミニコ会、ラテン語でDominicanus、そしてDomini canis(「主の犬」)という言葉遊びとして知られる様になった時に浮上したと思われます。ジョーダンは、ドミニコは両親と母方の叔父で大司教であった人物に育てられたと付け加えています。両親の名前が記されていないのは珍しい事ではありません。ジョーダンはドミニコの伝記ではなく、修道会の初期の歴史を書いたからです。13世紀の後の資料では、両親の名前はフアナとフェリックスとなっています。ドミニコの生誕からほぼ1世紀後、地元の著者はドミニコの父親は「vir venerabilis et dives in populo suo」(「村で尊敬され裕福な人」)であると主張しました。1439年頃に書かれたペロ・タフルの旅行記(イタリアのドミニコの墓への巡礼について)には、ドミニコの父はグスマン家、母はアサ家またはアサ家に属していたと記されている。ドミニコの母、ジョアン・デ・アサは1829年に教皇レオ12世によって列福された。兄のマネスも1834年に教皇グレゴリウス16世によって列福された。


教育と初期のキャリア


14歳の時、ドミニコはサンタ・マリア・デ・ラ・ビドのプレモントレ修道会修道院に送られ、その後、更に勉強する為にパレンシアの学校に転校しました。パレンシアでは、6年間を芸術に、4年間を神学に捧げました。ある時点で、彼はサンタ・マリア・デ・ラ・ビドにも参加しました。1191年、スペインが飢餓で荒廃した時、若いドミニコは自分のお金を寄付し、衣服、家具、貴重な写本さえも売り、飢えた人々に食べさせました。ドミニコは驚いた同級生に「人々が飢えで死んでいるのに、この死んだ皮膚で勉強しろというのか」と言ったと伝えられています。24歳でドミニコは司祭に叙階され、その後オスマ大聖堂の聖職者になりました。1198年、オスマ司教ドン・マルティン・デ・バザンは、教会を改革し、ドミニコを教会の副修道院長に任命した。ディエゴ・デ・アセボは1201年にバザンの後を継いでオスマ司教となった。1203年か1204年、ドミニコはディエゴに同行してカスティーリャ王アルフォンソ8世の外交使節となり、デンマークで皇太子フェルディナンドの花嫁を確保した。使節団はアラゴンと南フランスを経由してデンマークに向かった。結婚交渉はうまくいったが、王女はカスティーリャへ出発する前に亡くなった。帰路、彼らはシトー会の修道士たちと会った。彼らは教皇インノケンティウス3世から派遣され、カトリック教会が異端とみなしたグノーシス主義と二元論の信仰を持つ宗教宗派であるカタリ派に反対する説教をさせられていた。ドミニコとディエゴ・デ・アセボは、シトー修道会が成功しなかったのは、カタリ派の禁欲主義に比べてシトー修道会が浪費と華美さに欠けていた為だと考えた。ドミニコとディエゴはより禁欲的な生活様式を採用する事を決意し、南フランスでカタリ派を改宗させるプログラムを開始した。


参考文献


1206年後半、アセボとその一行はフランスのプルイユの聖母修道院に定住した。トゥールーズのフルク司教は彼らに教会の使用を許可した。この修道院は、以前はカタリ派の修道院に住んでいた女性たちの避難所として、また最初の活動拠点として意図されていた。プルイユの最初の修道女たちは、プルイユの建物がまだ居住可能ではなかった為、ファンジョーに数か月住んでいた。ドミニコは修道女たちに聖アウグスティヌスの戒律を与えた。カトリックとカタリ派の討論会は、ヴェルフェイユ、パミエ、モントリオールで行われた。教皇から教区に戻るよう命じられたディエゴ・デ・アセボは、1207年12月にオスマで亡くなり、ドミニコは1人で使命を遂行した。


マリアの幻視とロザリオ


ドミニコ会の伝統に基づき、1208年にドミニコはプルイユの教会で聖母マリアの幻視を経験し、その際に聖母マリアは彼にロザリオを与えました。これがロザリオの聖母という称号の由来となりました。ボランディストによると、幻視の物語はアラヌス・デ・ルペが発端であり、歴史的であるとはみなされません。ロザリオの普及はドミニコ会の説教による物とされています。何世紀にも渡り、ロザリオはドミニコ会の中心でした。教皇ピウス11世は、ロザリオは「聖ドミニコ会が会員の生活を完成させ、他の人々の救済を得る為に拠り所とする原則と基盤である」と述べました。


ドミニコ会の創設


1215年、ドミニコは6人の信者と共に、トゥールーズの裕福な住人ピーター・セイラから贈られた家に定住しました。ドミニコは、当時の成長都市の精神的ニーズに対応する為に、修道会や世俗の聖職者よりも組織的な柔軟性を持ち、献身と体系的な教育を組み合わせた新しいタイプの組織の必要性を感じていました。彼は自分と仲間に、祈りと懺悔の修道院の規則を従わせました。フルク司教は彼らに、トゥールーズ全域で説教する書面による権限を与えました。また、第4回ラテラン公会議の年である1215年に、ドミニコとフルクはローマに行き、教皇インノケンティウス3世の承認を得ました。1年後にドミニコはローマに戻り、1216年12月に新教皇ホノリウス3世から、説教者修道会を結成する権限を漸く文書で与えられた。1216年から1217年の冬、ウゴリーノ・デ・コンティの家で、ドミニコはモンフェッラートのウィリアムと初めて出会った。ウィリアムは説教者修道会の修道士としてドミニコに加わり、親しい友人となった。


晩年


ドミニコが彼の新しい修道会に迎え入れたセシリア・チェザリーニは、老年になって彼を次の様に描写しています。「痩せていて、中背。顔はハンサムで、やや色白。赤みがかった髪と顎髭、美しい目をしていた…手は長くて細く、声は心地よく響いた。頭髪は完全に剃り上げていたが、白髪が少し混じっていた。」


ドミニコは、成長を続ける修道士たちとの接触を保つ為に広範囲に旅をしていたが、ローマに本部を置いた。1219年、教皇ホノリウス3世はドミニコとその仲間に、古代ローマのサンタサビナ大聖堂に住むよう招き、彼らは1220年初頭までにそこに住んだ。それ以前は、修道士たちはローマのサンシストヴェッキオ修道院に一時的に住んでいただけだったが、この修道院はホノリウス3世が1218年頃にドミニコに与えた物で、ドミニコの指導の下でローマの修道女たちの改革の為の修道院となる事を意図していた。サンタ・サビーナのドミニコ会修道院とそのステュディウム・コンベントゥアーレは、ローマ初のドミニコ会ステュディウムであり、1222年6月5日に教皇ホノリウス3世から説教者修道会に財産が法的に譲渡された事で正式に設立されましたが、修道士たちは既に1220年にそこに居住していました。サンタ・サビーナのステュディウムは、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァのステュディウム・ジェネラーレの前身です。後者は16世紀に聖トマス大学に改組され、その後20世紀には聖ドミニコと聖シクストゥス修道院にある聖トマス・アクィナス教皇大学、アンジェリクムに改組されました。ドミニコは1218年12月21日にボローニャに到着した。オルレアンのレジナルドによってマスカレッラ教会に修道院が設立された。その後すぐに、彼らはサン・ニコロ・デ・ザ・ヴィンヤーズ教会に移らなければならなかった。ドミニコはこの教会に定住し、ここで修道会の最初の2回の総会を開催した。ギローによれば、ドミニコは肉食を控え、定められた断食と沈黙の期間を守り、最悪の宿泊施設と最も粗末な衣服を選び、決して贅沢なベッドを自分に与えなかった。旅の際には、精神的な教えと祈りで旅を楽しませた。ギローはまた、ドミニコは裸足で旅する事が多く、「雨やその他の不快な状況でも、彼の口からは神への賛美しか出てこなかった」と述べている。ギローによれば、ドミニコは生涯の禁欲と労働に疲れ果てて、51歳で亡くなった。彼は、疲れて熱病に罹って、イタリアのボローニャにある聖ニコラ修道院に到着した。ギローは、ドミニコが修道士たちに地面に敷いた袋の上に彼を寝かせた事、そして残された短い時間は、信者たちに慈善心を持ち、謙虚さを守り、貧困から宝物を作るよう説く事に費やされた事を述べている。彼は1221年8月6日の正午に亡くなった。彼の遺体は1233年に簡素な石棺に移された。教皇グレゴリウス9世の権威の下、ドミニコは1234年に列聖された。1267年、ドミニコの遺体はニコラ・ピサーノと彼の工房がボローニャの聖ドミニコ教会の為に作った聖堂に移された。ドミニコは8月8日に英国国教会と聖公会で称えられる。


異端審問


ドミニコは異端審問と一般的には結び付けられているが、それは真偽の程は定かではない。ドミニコの同時代の歴史資料には、彼が異端審問に関与していた事は何も記されていない。ドミニコは1221年に亡くなり、異端審問所はロンバルディアでは1231年、ラングドックでは1234年まで設置されなかった。1179年の第3回ラテラン公会議のカノン27では、異端を抑圧する君主の義務が強調され、「ブラバント人、アラゴン人、バスク人、ナバラ人、その他、キリスト教徒に対して非常に残酷な行為をし、教会も修道院も尊重せず、未亡人も孤児も、年齢も性別も容赦せず、異教徒のやり方で全てを破壊し荒廃させる」と非難された。これに続いて1184年に教皇ルキウス3世の勅令「アド・アボレンダム」が出された。 この法令は、司教がそれぞれの教区内で異端の存在を調査する事を定めた。司教審問の慣行と手順は、個々の司教が利用できる資源と、彼らの相対的な関心の有無に応じて、教区ごとに異なる可能性がある。教会の教えには啓示された真理が含まれていると確信していた司教の最初の手段は説得であった。彼らは、談話、討論、説教を通じて、教会の教えをよりよく説明しようとした。このアプローチはしばしば非常に成功した。1231年、教皇グレゴリウス9世は、ヨーロッパの様々な地域に、主にドミニコ会とフランシスコ会の教皇異端審問官を任命した。彼らは托鉢僧として、旅行する事に慣れていた。無計画な司教審問の方法とは異なり、教皇異端審問は徹底的かつ体系的で、詳細な記録を残していた。 この法廷または裁判所はフランス、イタリア、ドイツの一部で機能していましたが、14世紀初頭までに事実上機能を停止していました。15世紀、スペイン異端審問所は芸術家ペドロ・ベルゲテに、アウト・ダ・フェを主宰するドミニコの描写を依頼しました。この様に、スペインの異端審問官は自己正当化の為に歴史的伝説を広めました。スペインの法廷に反発して、16世紀と17世紀のプロテスタントの論客は喜んで異端審問官ドミニコの伝説を発展させ、永続させました。このイメージは、カトリック教会に対するドイツのプロテスタントの批評家に、宗教改革の地で説教が手強い敵である事が証明されたドミニコ会に対する議論を与えました。エドワード・ピーターズが指摘する様に、「16世紀のプロテスタントの歴史学では、聖ドミニコに対する一種の反カルトが育った。」


聖ドミニコの紐


聖ドミニコの紐(ベルト)はカトリックの聖具で、着用者に聖ドミニコの保護を思い出させます。紐の歴史は、ソリアーノの聖ドミニコの奇跡的なイメージに関連しています。紐の長さは、絵画の周囲に合っています。紐には「素晴らしい希望よ」という祈りの冒頭が書かれています。伝統によれば、聖ドミニコの恵みを受けたい人は、常にこの紐を身に着けるべきです。不妊のカップルは、神から子孫の賜物を得る為に、聖ドミニコの執成しを祈るのにこの紐を使います。


地名


ドミニカ共和国とその首都サントドミンゴは、聖ドミニコに因んで名付けられました。


崇拝


アルカ・ディ・サン・ドメニコは、ボローニャのサン・ドメニコ大聖堂にある聖ドミニコの遺骨を納めた聖堂です。 ウルラウルのパターンは、中世以来、聖ドミニコの祝日を記念して、毎年8月4日にメイヨー州キルモヴィーのウルラウルで開催される祭りです。聖ドミニコの祝日は、マルタの旧市街ビルグと首都バレッタで盛大かつ熱心に祝われます。ドミニコ会はマルタと非常に強い繫がりがあり、ドミニコ会の修道士であった教皇ピウス5世は、聖ヨハネ騎士団を支援してバレッタの街を建設しました。


ロザリオの歴史


ドミニコ会修道士アラン・ド・ラ・ロッシュは、ロザリオの起源よりも長い歴史的過程において独特の役割を果たしました。彼は、イエス・キリストの受肉、受難、復活の神秘に従って、150回繰り返された聖母マリアの祈りを3つのグループに分けました。アランは説教者として、キリスト教徒にロザリオの祈りを広める事を決意しました。この目的の為に、彼は1468年頃にドゥエーにロザリオの同胞団を設立し、1470年に説教者教団によって承認されました。聖ドミニコが既に聖母からロザリオを受け取り、その後それを広めたという伝統は、聖母マリア・ディ・アランの幻視。然し、アランは、説教者教団によって広められたマリアン同胞団の以前の伝統に従う事ができました。ドミニコ会のロザリオの伝統における更なる画期的な出来事は、ケルンのドミニコ修道院でロザリオ兄弟団が設立された事でした。1475年のヤコブ・シュプレンガー、原則として男性も女性も、貧しい人も裕福な人も、既婚者も独身者も含め、全てのキリスト教徒が利用できる同胞団の規約では、相互の精神的連帯の原則が強調され、全ての会員がそれぞれの霊的成果を共有した祈りです。教皇が数々の免罪符を与えたロザリオの祈りは益々人気が高まり、とりわけドミニコ会の修道院で設立された友愛会はキリスト教世界全体に広がりました。16世紀の間、ロザリオは説教者教団によって「独占」されていました。自身もドミニコ会士であった教皇ピウス5世は、この過程で重要な役割を果たしました。1569年の短い執政官の中で、彼はマリアと共に瞑想した福音の統合としての祈りの形式を最終的に決定しただけでなく、ドミニコ会が友愛会を設立するという独特の特権を確認した。1574年の総章でロザリオをその「聖なる遺産」として告白したこの修道会は、修道士たちに説教を通じて祈りを広める事に熱心である事を要求した。その後何世紀にも渡ってこの使命に熱心に献身した多くの人の中には、イタリアの修道士ティモテオ・リッチがいました。彼が1629年から広めた「永久のロザリオ」の形は、忠実な信者の関心を集めました。その様な同胞団の会員は、一年のこの時期を分けて祈り、少なくともその内の1人が常にロザリオを祈る様にすべきです。今日でも、ロザリオはドミニコの伝道における重要なツールです。ドミニカの兄弟、姉妹、信徒は、本、雑誌、ウェブサイト、ブログ、その他のメディアを利用してロザリオを広めています。彼と私たちの聖母マリアの社会の中で受肉した御言葉を熟考する事は、神とのより強烈な一致体験に繫がり、内なる平和と静けさをもたらします。


ロザリオの使徒職


聖なるロザリオの暗唱において、それは公式を繰り返す事ではなく、寧ろマリアと秘密の会話をする事、彼女に話しかける事、自分の希望を表現する事、彼女に悲しみを打ち明ける事、彼女に心を開く事である。神の計画を喜んで受け入れると宣言し、あらゆる状況、特に最も困難で苦痛な状況において彼女に忠実である事を約束し、確実に神の保護を約束し、私たちの為に必要な全ての恵みを彼女が御子から得て下さると確信する事。救い。(ヨハネ・パウロ二世、1997年10月26日)


聖ドミニコは福音の真の使徒でした。肉体とされた神の慈しみ、イエス・キリスト、マリアの胎内で人として造られた言葉を、たゆまぬ説教者でした。従って、彼は説教者である事、つまりマリアへの絶妙な献身から自分自身を切り離す事ができませんでした。マリアへの献身は、彼が優しさをもって培い、教会の歴史の中で偉大な功績を残した霊的な子供たちに貴重な遺産として残しました。キリスト教の人々にとって非常に大切であり、福音主義の価値観に富んだ、信仰と敬虔さの真の学校である聖ロザリオの祈りを広める事のメリット…ロザリオの使徒職を通して福音を宣べ伝える事は偉大な使命であり、現代においてこれまで以上に緊急性が高まっています。聖ロザリオは、神の民が知っていて実践している最も単純で最も福音的な祈りです。「彼らはパンに飢えたり、水に渇いたりせず、主の御言葉を聞きます。」(アモ8、11)


私たちの人生はロザリオの神秘の様に、喜び、痛み、栄光の様に展開します。私たちは人生のあらゆる瞬間に、最初にキリストの弟子となり、信仰の教師となったマリアの祝福された実であるキリスト・イエスに出会う事が可能であると確信しています。私たちは毎日、謎の中で生きています。私たちの人生は、呼びかけ(喜びの神秘)の強さによって交差します。マリアの様に、私たちもまた、私たちの物語を歴史の主の物語と真に結びつける様に召されています。それは(苦しみの神秘)を追う事の疲労によって横切られます。マリアの様に、そしてマリアと共に、私たちは十字架につけられた主の艱難と試練を生きています。それは守られた約束(栄えの神秘)によって横切られています。マリアと共に、そして彼女の執成しを通して、私たちは主、インマヌエル、つまり私たちと共におられる神の約束の実現を楽しんでいます。主は私たちを見捨てず、私たちをご自分と共に呼んで下さいます。永遠に…もし私たちの人生がロザリオの奥義の様な物で、非常に異なっていて相互補完的であるとすれば、私たちは人生のあらゆる瞬間において、それぞれが「父と子と聖霊への栄光」で終わるという事を決して忘れてはなりません。私たちも「主は貴方と共におられます」(ルカ1,26)と繰り返し言われると、「父よ、貴方の御名を讃えましょう!」と答えます。(ヨハネ 12.28)



ドミニコ会のロザリオ


このロザリオのチャプレットはドミニコ会によって作成されました。このロザリオのチャプレットを祈る事は、ロザリオの20連祷の神秘の全てを学ぶ素晴らしい方法です。10分で、救いの物語を全て読み、ロザリオのチャプレットの祈りを終える事ができます。それぞれの神秘が発表され、絵を瞑想しながら「天使祝詞」を1回祈ります。



出典元・op.or(イタリア語・Google翻訳)、Wikipedia(英語版・Google翻訳)、summaenterprises(英語版・Google翻訳)、domenicani(イタリア語・Google翻訳)




サムネイル

おはようございます・昨日は「ドミニコ会のロザリオ」専用ロザリオを、製作しました。写真左側は、海外サイトで販売されてる「ドミニコ会のロザリオ」です。この専用ロザリオ…よく見てみると、直線部分にも小珠が3個有るみたいなので、私が自作したヤツも直線部分に小珠を3個、追加してあります。(←まぁ、この小珠3個の部分は存在しないのかも知れませんが…)この部分は海外サイトでは記載されていませんが、恐らくは十字架で「使徒信経」、3つの小珠で「天使祝詞」、中心のセンターメダイで「主祷文」になるのではないかと思われます。また、この専用ロザリオは、第1連の青い小珠5個で喜びの玄義第2連の銀色の小珠5個で光の玄義、第3連の黒い小珠5個で苦しみの玄義、第4連の金色の小珠5個で栄えの玄義を黙想します。なお、今回は銀色と金色のビーズの在庫が無いので、白と黄色のビーズで代用してます。


ロザリオの祈りは、苦手と言う方も多いかと思いますが、今日、紹介したドミニコ会のロザリオは、ロザリオの祈りの短縮版なので、ロザリオの祈りが苦手と言う方は、このドミニコ会のロザリオの祈りを試してみるのもアリだと思います。


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