ハンドメイドのもの


    

聖ヨハネ・ボスコ


ジョン・メルキオール・ボスコ(1815年8月16日–1888年1月31日)は、通称ドン・ボスコとして知られ、19世紀のイタリアのカトリック司祭、教育者、作家でした。工業化と都市化の悪影響を住民が受けていたトリノで活動していた間、彼はストリートチルドレン、少年犯罪者、その他の恵まれない若者の改善と教育に人生を捧げました。彼は罰ではなく愛に基づいた教育法を開発し、この方法はサレジオ予防法として知られる様になりました。フランシスコ・デ・サレジオの精神と哲学の信奉者であったボスコは、聖母マリアの熱心な信者で、キリスト教徒の助け手マリアの称号を持っていました。彼は後に、トリノを拠点とするドン・ボスコのサレジオ会を設立した際に、自分の著作をサレジオ会に捧げました。マリア・ドメニカ・マッツァレッロと共に、貧しい少女たちの世話と教育に専念する修道女の宗教団体である、現在ドン・ボスコのサレジオ会として知られるキリスト教徒の助け手マリアの娘会を設立しました。彼はドミニコ・サビオを指導し、その伝記を執筆して少年が列聖されるのを助けました。彼は、トリノ市の若い移民カトリック労働者への共同財政支援として発足した相互扶助協会の先駆者の1人です。1850年、彼は見習いとその仲間が不本意に仕事を失ったり病気になったりした場合に援助する為の規則を作成しました。1869年4月18日、トリノの聖マリア大聖堂建設から1年後、ボスコは聖マリア協会を設立し、これをサレジオ会の精神性と使命と、殆どの一般人が容易に果たせる義務と結び付けました。ADMAは、聖体と聖マリアへの崇敬を促進する為に設立されました。1875年、ボスコはサレジオ会報の発行を開始しました。この会報は継続的に発行されており、現在は50の版と30の言語で発行されています。  1876年、彼は貧しい人々への同じ教育使命を持つ信徒運動、サレジオ協力者協会を設立しました。ボスコは、自分の仕事を継続する為の組織とセンターのネットワークを設立しました。ボスコの聖人活動は彼の死後に開始され、1929年の列福に続いて、1934年に教皇ピウス11世によって列聖されました。


生涯


ジョン・ボスコは、1815年8月16日の夕方、イタリアのベッキの丘陵地帯の村で生まれました。ベッキはカステルヌオーヴォ・ダスティと呼ばれていた地域にあり、後に聖人に敬意を表してカステルヌオーヴォ・ドン・ボスコと改名されました。彼はフランチェスコ・ボスコ(1784–1817) とマルゲリータ・オッキエーナ (1788–1856)の末息子でした。彼にはアントニオとジュゼッペ(1813–1862) という2人の兄がいました。ベッキのボスコ家はモグリア家の農場労働者でした。彼は、1817年のナポレオン戦争と干ばつによる荒廃の後、ピエモンテの田舎で大きな欠乏と飢餓の時代に生まれました。ボスコが2歳を少し過ぎた頃、父親が亡くなり、3人の息子の養育は母親に任されました。母親はボスコの形成と人格形成に大きな役割を果たし、息子の理想を早くから支持していました。1825年、ボスコが9歳の時、彼の考え方と仕事に影響を及ぼす一連の夢の最初の夢を見ました。彼の回想録によると、この最初の夢は「彼の残りの人生に深い印象を残した」そうです。 ボスコは、非常に貧しい少年たちが遊び、冒涜しているのを見た様です。そして、「気高い服装をし、男らしく堂々とした態度で現れた」男が彼に言いました。「貴方は、殴るのではなく、優しさと親切さでこれらの友人たちを勝ち取らなければなりません。ですから、今すぐに、罪は醜く、美徳は美しいという事を彼らに示し始めなさい。」


ボスコは10歳の時からクラスメートの態度を観察し始め、喧嘩の度に審判を務めた。年上の少年たちはボスコを恐れていた。なぜならボスコは彼らの長所と短所を知っていたからだ。近くの丘で地元の祭りで旅芸人が公演をすると、ボスコはジャグラーの技やアクロバットの秘密を観察し、研究した。そして、公演の前後に祈りを捧げながら、ジャグラー、マジシャン、アクロバットとしての技を披露した。ショーの準備に必要なお金は、母親から貰った狩猟した鳥を売って稼いだ物だった。貧困の為、真剣に学校に通う事はできなかった。幼少期は羊飼いとして過ごし、最初の指導をドン・カロッソから受けた。カロッソは「近くの教会の教区伝道所で聞いた説教に対するジョンの記憶力と理解力に感銘を受けた」という。幼少期の経験が、司祭になるきっかけになったと考えられている。当時、司祭は農民よりも特権階級の職業として一般的でした。伝記作家の中には、兄のアントニオがボスコの勉学への意欲を阻む最大の障害だったと描写する人もいます。アントニオはジョンを「私たちと同じ農民だ」と抗議したのです。1827年2月の寒い朝、ジョンは家を出て農場の召使として仕事を探しに行きました。12歳の時、アントニオとの絶え間ない喧嘩のせいで家での生活に耐えられないと感じました。幼い頃に1人で生活に立ち向かわなければならなかった事が、後に捨てられた少年たちを助けたいという同情心を育んだのかもしれません。仕事を求めて物乞いをしたがうまくいかず、ルイ・モリアのワイン農場に辿り着きました。ジョンは独学でいくらか勉強する事はできましたが、更に2年間は学校に通う事ができませんでした。1830年、若い司祭のジョセフ・カファッソと出会い、生まれながらの才能を見出してジョンの最初の学校教育を支援しました。 ボスコの母マルゲリータは、彼の教育費を賄うのに十分なお金を稼ぐ事ができました。1835年、ボスコはイマコラータ・コンチェツィオーネ教会の隣にあるキエーリの神学校に入学しました。1841年、6年間の勉強の後、トリノのフランツォーニ大司教によって三位一体主日の前夜に司祭に任命されました。彼は26歳でした。


司祭職と最初の使徒職


叙階後、ボスコはトリノに行き、そこでカファッソは教区司祭に高等教育を提供するアッシジの聖フランチェスコ会を率いた。当時トリノの人口は11万7千人で、この都市は工業化と都市化の影響を反映していた。多くの貧しい家族が市内のスラム街に住み、より良い生活を求めて田舎からやってきた。在学中、ボスコはカファッソに同行して刑務所を訪問し、若い犯罪者の再犯について懸念する様になった。彼は孤児や捨てられた少年たちと一緒に働き始め、彼らに教理を教え、仕事を見つけるのを手伝った。カファッソは学業を終えると、ボスコがトリノに留まれる様、トリノにジュリア・ディ・バローロ侯爵夫人が設立した女子寄宿学校、リフージョ(避難所)の施し係に任命した。彼の他の奉仕活動には、囚人を訪問したり、教理を教えたり、多くの田舎の教区で手伝ったりする事が含まれていました。人口増加と都市への移住により、ボスコは教区奉仕の伝統的な方法が非効率的である事に気づきました。彼は別の形の使徒職を試みる事が必要であると判断し、少年たちが働いている場所や店や市場に集まる場所に会い始めました。彼は短い回想録で回想している様に、彼らは舗装工、石工、石工、左官であり、遠くから来ていました。オラトリオは単なる慈善団体ではなく、その活動は日曜日に限定されていませんでした。ドン・ボスコにとって、それは彼の恒久的な職業になりました。彼は失業者に仕事を探しました。少年たちの中には寝る場所がなく、橋の下や荒涼とした公営の寮で寝ている人もいました。彼は2度、自分の家に下宿を提供しようとしました。1度目は、彼らは毛布を盗みました。2回目は、干し草置き場を空にしました。彼は諦めず、1847年5月、母親と暮らしていたバルドッコのスラム街で借りていた3つの部屋のうちの1つに、バレンシア出身の少年を住まわせました。彼と母親は孤児を受け入れ始めました。ドン・ボスコが保護した少年の数は、1852年には36人、1854年には115人、1860年には470人、1861年には600人となり、その後暫くして最大で800人に達しました。ボスコと彼のオラトリオは数年間、町中を転々とし、次々と幾つかの場所から追い出されました。聖マルティン教会に拠点を置いて僅か2か月後、近所全体が少年たちが遊んでいる時の騒音に不快感を表明しました。市当局に正式な苦情が申し立てられました。 神父が少年たちと行う集会は危険であり、彼らの娯楽が政府に対する革命に転じる可能性があるという噂も広まり、そのグループは立ち退きを命じられた。


徒弟との労働


サレジオ会のアーカイブには、1851年11月の徒弟契約書、1852年2月8日の40セントの切手が貼られた紙の契約書、及びそれより後の日付の契約書が保管されています。これらはトリノで見つかった最初の徒弟契約書の一部です。全て、雇用主、徒弟、ドン・ボスコの署名があります。これらの契約書で、ドン・ボスコは多くのデリケートな問題に触れました。雇用主の中には、徒弟を召使や食器洗いの少年にするのが習慣になっている人もいました。ドン・ボスコは、少年を認められている職業にのみ雇用することに同意するよう義務付けました。雇用主は少年を殴打する事があり、ドン ボスコは少年を叱責する場合は口頭のみで行う事に同意するよう求めました。彼は彼らの健康を気遣い、祝日と年次休暇には休ませるよう要求しました。あらゆる努力と契約にも拘らず、当時の徒弟の状況は依然として厳しい物でした。影響力のある友人の1人は、ピエモンテの法務大臣ウルバーノ・ラッタッツィでした。彼は政治的には反教権派でしたが、ボスコの活動に価値を見出していました。ラッタッツィがサルデーニャ議会で宗教団体を抑圧する法案を推し進めていた時、彼はボスコに法律を回避する方法を助言しました。彼は創始者の死後も礼拝を継続させる宗教団体を見つけました。ボスコもその問題について考えており、徐々に助手を緩やかな聖フランシスコ・サレジオ会に組織していました。また、選ばれた年長の少年たちを司祭職に就けるよう訓練していました。ボスコのビジョンを実行する為に宗教団体を設立するというアイデアを支持したもう1人の人物は、当時の教皇、ピウス9世でした。ボスコは、フランス革命期の非キリスト教化の過程の一環として革命フランスが輸出した理想を嫌い、ルソーとヴォルテールを「不信心の凶悪な指導者2人」と呼んだ。彼は教皇の最高権威を認める超山岳政治の見方を好んだ。1854年、サルデーニャ・ピエモンテ州が修道会を抑圧し教会財産を没収する法律を可決しようとしていた時、ボスコは政治家やサヴォイア宮廷のメンバーに言及した「宮廷での大葬式」に関する一連の夢を報告した。1854年11月、ボスコはヴィットーリオ・エマヌエーレ2世国王に手紙を送り、教会財産の没収と修道会の抑圧に反対するよう忠告したが、国王は応答しなかった。イタリアの歴史家ロベルト・ペトイアが「明白な脅迫の意図」があると評した彼の行動は、当時の首相カミッロ・ベンゾ・カヴール伯爵の介入によって漸く終結した。国王の家族は短期間に数人の死に見舞われた。1855年1月から5月にかけて、国王の母マリア・テレジア・デ・オーストリア、妻アデライーデ・デ・オーストリア、生まれたばかりの息子ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ジェノヴァ伯爵、そして唯一の弟フェルディナンド・デ・ジェノヴァ公爵が全員死亡した。ボスコとその活動に対する反対は様々な方面から起こった。伝統主義の聖職者は、ボスコが自分たちの教区から若者や老人を奪い取っていると非難した。一部の聖職者を含む国民主義の政治家は、彼の数百人の若者を革命の募集の場とみなした。 トリノの警察署長カヴール侯爵は、野外講話は明らかに政治的で国家への脅威であるとみなし、ボスコが教皇の権力を支持している事に強い疑念を抱いていた。ボスコは数回尋問されたが、告訴はされなかった。ボスコを邪魔してはならないという国王の命令によって、尋問の終了が阻止された可能性がある。ボスコの命を狙う試みも数回行われ、刺殺されそうになったり、殴打されたり、銃撃されたりした。初期の伝記作家たちは、これをカトリック聖職者に反対するワルドー派の勢力が高まっていた為だとしている。


ドン・ボスコのサレジオ会設立


ドン・ボスコに助けられた少年たちの中には、彼と同じ事をしようと決めた者もいました。つまり、見捨てられた少年たちの為に働く事です。これがサレジオ会の起源です。最初の会員にはミカエル・ルア、ジョン・カリエロ(後に枢機卿)、ジョン・バプティスト・フランチェスカがいました。1857年、ボスコは助手たちの為に一連の規則を作成しました。この規則は、1873年に教皇ピウス9世によって聖フランシスコ・サレジオ会の規則として正式に承認されました。1859年、ボスコは経験豊富な司祭ヴィットリオ・アラソナッティ、15人の神学生、1人の高校生を選び、聖フランシスコ・サレジオ会を結成しました。これがサレジオ会の中核となり、彼の仕事を引き継ぐ宗教団体となりました。グループの次の会合では、ジョセフ・ロッシを信徒として受け入れる事に投票しました。彼はサレジオ会の初代修道士でした。サレジオ会は司祭、神学生、補佐司祭(信徒兄弟)に分かれていました。その後、ボスコは丘の町モルネーゼでマリア・マザレロと少女たちと共に働きました。1871年、彼はサレジオ会が少年たちの為に行っていた事を少女たちの為に行う修道女たちのグループを設立しました。彼らはキリスト教徒の助け手マリアの娘たちと呼ばれました。1874年、彼は更に別のグループ、サレジオ協力者を設立しました。彼らは殆どが信徒で、娘たちやサレジオ会の様に若者の為に働きますが、修道会には参加しません。最初のサレジオ会会員は1875年にアルゼンチンに向けて出発しました。ボスコは叙階後、監督のジョセフ・カファッソがその考えに反対していなかったら宣教師になっていたでしょう。 それでもボスコは、イタリア語版の『信仰の布教年報』を熱心に読み、この雑誌を自身の『カトリコ・プロヴェドゥート』や『5月の月』の小冊子の挿絵に使用しました。ボスコがサレジオ会を設立した時、宣教の思いは依然として彼を悩ませていましたが、資金が全くありませんでした。3年間、彼は様々な国についての情報を収集しました。アルゼンチンからの要請で彼はパタゴニアのインディアンに目を向け、その人々を研究した結果、その国とその住民こそが夢で見た者だと確信しました。1874年後半、ボスコはサヴォーナのアルゼンチン領事から、ブエノスアイレスのイタリア教区とサンニコラスデロスアロヨスの男子校を受け入れるよう求める手紙を受け取りました。ボスコはそれを神の摂理とみなし、宣教の準備を開始しました。彼は宣教師を野蛮で未開な部族に晒さない様な伝道方法を採用し、宣教活動を開始する安全な場所に基地を設置する事を提案した。ブエノスアイレスのアネイロス大司教がサレジオ会の会員を喜んで受け入れると表明した事から交渉が始まった。1875年1月29日に行われた式典で、ボスコは司祭団にこの素晴らしいニュースを伝える事ができた。2月5日、彼はサレジオ会会員全員に回状でその事実を発表し、ボランティアに書面で申し込むよう求めた。彼は最初の宣教師の出発を10月に開始することを提案した。多くのボランティアがいた。


サレジオ予防システムとその他の著作


ボスコは、自分の説教所を運営し、そこに住まわせた少年たちに精神的、実践的な指導を与えていた数年間、教育と一般指導に対して異なるアプローチを採用していました。これは、彼が抑圧的な教育システムと呼んだ学校の規律などの伝統的な教育方法よりも優れていると信じていたからです。1877年3月12日、ボスコはニースのサンピエール守護教会の新館にサンピエトロ青少年センターをオープンした際、日中に教育システムに関する開会の辞を述べ、その中で初めて「予防システム」という言葉に言及しました。


トリノに戻ったボスコは、その演説を「青少年教育における予防システム」というタイトルの洗練されたエッセイとして書き留め、1877年に出版し、サレジオ会規則の最初の草案に取り入れました。このエッセイでは、「良きキリスト教徒と誠実な市民」を育成する事を目標に、理性、宗教、慈愛の価値を説いていました。これは、ボスコが自身の教育システムを体系的に説明した方法の1つでした。彼は教育的アプローチを説明する際に、教育小説と物語教育法を好んで使用しました。アイデアの中には革新的な物はありませんでしたが、ボスコは当時のヨーロッパで一般的だった懲罰的で時代遅れの教育システムに対する当時の批判から自身のシステムのインスピレーションを得ており、その批判と闘い、それを実践した最初の人物の1人でした。


ボスコの著作は、彼自身の修道会と、1877年8月に彼が創刊したサレジオ会報の購読者以外には殆ど知られていませんでしたが、彼は頻繁かつ大量に著作を残しました。ドン・ボスコは学者というよりは行動の人と言われていましたが、宗教、歴史、カテキズム、カトリック教会に関する多くの著作を執筆、改作、出版しました。彼の出版物の全リストは、専用ウェブサイトsalesian.onlineでご覧いただけます。彼は1881年に『ローマ帝国崩壊からのイタリア史大要』を執筆しました。これはジョン・ダニエル・モレルによって翻訳され、現在まで続けられており、古代から現代文明までの知識基盤における文化的重要性が学者によって注目されました。彼はまた、優れた伝記作家でもありました。彼の最もよく知られた2つの伝記は、彼の指導者であるジョゼフ・カファッソと、彼の生徒の1人であるドミニコ・サビオに関するもので、後に彼の列聖に重要な役割を果たしました。


死と列聖


聖ボスコは1888年1月31日に亡くなりました。彼の葬儀には何千人もの人が参列しました。トリノ大司教区が調査を行い、ボスコが聖人とされるに相応しいかどうかを判断する為に証人が召喚されました。サレジオ会、娘会、協力者会は支持的な証言をしました。教皇ピウス11世はボスコを知っており、この運動を推進しました。ピウス11世は1929年6月2日にボスコを列福し、1934 年のイースターの日曜日に列聖し、彼に「青少年の父と教師」の称号を与えました。教皇ピウス12世は1949年に彼をカトリック出版者の守護聖人と宣言しました。彼の著作と出版物のレパートリーは38巻に纏められた220以上のタイトルで構成されています。これらは、彼自身の比類のない紙から印刷する工房で印刷され、少年たちは将来の仕事を見据えて印刷と出版の技術を学びました。ボスコは、イリュージョニストの守護聖人として広く知られていました。2002年1月30日、シルビオ・マンテッリは、教皇ヨハネ・パウロ2世に、ボスコを正式に舞台マジシャンの守護聖人と宣言するよう請願しました。福音魔術を実践するカトリックの舞台マジシャンは、ボスコの祝日に恵まれない子供たちに無料のマジックショーを提供する事でボスコを崇拝しています。ボスコの仕事は、初期の弟子であり、協力者であり、仲間であったマイケル・ルアによって引き継がれました。ルアは、1888年に教皇レオ13世によってサレジオ会の総長に任命されました。彼は、1月31日の記念式典で英国国教会で偲ばれています。


大衆文化において


ボスコはブラジリアの守護聖人であり、中央ブラジルで繁栄するであろう驚くべき新しい文明について夢の中で予見したと言われています。オーストラリア、インド、フィリピン、パキスタン、レバノン、米国など、様々な国で多くの教育機関がボスコに因んで名付けられています。ニューサウスウェールズ州エンガディンの幾つかの機関もボスコに因んで名付けられており、その中には聖ヨハネボスコ教区、聖ヨハネボスコ小学校、聖ヨハネボスコ大学などがあります。


ボスコは、ゴッフレド・アレッサンドリーニ監督の1935年の伝記映画「ドン・ボスコ」の題材となり、俳優のジャン・パオロ・ロスミーノが演じました。ボスコは、2本のイタリア映画「ドン・ボスコ」(1988年)と「聖ヨハネ・ボスコ:愛への使命」(2004年)の題材にもなりました。アルゼンチンのキルメスの自治区は、ボスコに因んで名付けられています。 カナダのモントリオール、ヴィル・エマール地域にあるイタリアの教会、サン・ジョヴァンニ・ボスコは彼に因んで名付けられています。




聖ヨハネ・ボスコを讃えるチャプレット


父と子と聖霊の御名により。アーメン。


「主祷文」「天使祝詞」


「学識のある者は天空の穹の様に輝き、多くの人に徳を教えた者は永遠に星の様に輝く。」(ダニエル書12:3)


「栄唱」


「優しい眼差しは心に喜びを与える。」(箴言15:30)


「栄唱」


「貴方がたの父が憐れみ深い様に、貴方がたも憐れみ深くなりなさい。」(ルカ6:36)


「栄唱」


「イエスは十二人を呼び集めて、汚れた霊を追い出す力と権威をお与えになり、御国の宣教と病気の治癒の為に彼らを遣わされました。」(ルカ9:1-2)


「栄唱」


「私の名の故にこの幼子を迎える者は、私を迎えるのである。私を迎える者は、私を遣わした方を迎えるのである。」(ルカ10:40)


「栄唱」


「何よりも愛を求めなさい。然し、霊的な賜物、特に預言の賜物も待ち望みなさい。」(コリント人への第一の手紙14:1)


「栄唱」


「聖霊は私たちの弱い所を助けてくれます。」(ローマ人への手紙8:26)


「栄唱」


聖ヨハネ・ボスコ、私たちの為にお祈り下さい。


聖フランシスコ・デ・サレジオ、私たちの為にお祈り下さい。


キリスト教徒の助け主である聖母よ、私たちの為にお祈り下さい。



出典元・piercedhearts(英語版・Google翻訳)Wikipedia(英語版・Google翻訳)

https://www.piercedhearts.org/treasures/devotions/chaplets/chaplet_john_bosco.html




おはようございます。昨日は、地域の美化清掃に行ってました。んで、帰宅してから製作したのが「聖ヨハネ・ボスコを讃えるチャプレット」専用ロザリオ。小さな専用ロザリオなので、製作もラクでした。序でに、「聖ドミニコ・サヴィオのチャプレット」専用ロザリオに着けていた「無原罪の聖母」のセンターメダイを、「聖ドン・ボスコ」のセンターメダイと交換しました。


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