ロザリオがいかに強力な武器であるかを裏付ける15の名言


私たちは困難な時代に生きています。この国を満たす数多くの危機については、改めて説明する必要もないだろう。残念な事に、多くの人がこの悪の洪水に流され、圧倒的な不安と落胆に負けてしまいます。然し、それがどれほど魅力的であっても、私たちは後退してはなりません。私たちは生きた信仰と揺るぎない信頼をもって祈り、断食しなければなりません。その為にはロザリオを祈る事以上に良い方法はありません。ロザリオは強力な武器であり、歴史を通じて多くの戦いに勝利してきました。この計り知れない力の祈りによって、数え切れない程の奇跡と勝利が成し遂げられてきました。この暗い日々において、私たちは恐れてはなりません。信仰の先祖として、私たちはもう一度ロザリオに目を向け、無原罪の聖母に助けに来て敵を倒す様に呼びかけなければなりません。この力強い祈りを祈るよう勧める、教皇や聖人たちの15の言葉を以下に挙げます。


1「ロザリオはいつの時代も「武器」です。」聖ピオ神父


2「ロザリオを祈る軍隊を与えて下さい。そうすれば私は世界を征服します。」福者教皇ピウス9世


3「祈りの最良の方法はロザリオを祈る事です。」フランジョ・サレスキ


4「ある人々はとても愚かで、聖母の助けなしでも人生を生きていけると考えています。聖母を愛し、ロザリオを祈りましょう。彼女のロザリオは今日の世界の悪に対する武器だからです。神が私たちに与えて下さる全ての恵みは聖母を通して与えられます。」聖ピオ神父


5「聖母の所へ行きなさい。彼女を愛している!常にロザリオを祈って下さい。彼女の無事を祈って下さい。できるだけ頻繁に彼女に祈って下さい。祈りの魂になって下さい。決して飽きる事なく祈る事、それが最も必要な事なのです。祈りは神の心を揺さぶり、必要な恵みを得るのです!」聖ピオ神父


6「聖なるロザリオは強力な武器です。安心してご使用頂ければ、その結果に驚かれる事でしょう。」聖ホセマリア・エスクリバー


7「聖なるロザリオを祈りなさい。祝福された単調さ、私たちの罪の単調さを浄化して下さるマリア様、万歳!」聖ホセマリア・エスクリバー


8「知性と知識を武器にする者にとって、ロザリオは最も効果的です。なぜなら、一見、聖母に祈るこの単調な方法は、子供たちが母親に祈るのと同じ様に、自慢やプライドの種を全て破壊する可能性があるからです。」聖ホセマリア・エスクリバー


9「貴方はいつもロザリオを後回しにし、眠いからといって結局祈らないでしまいます。他に時間がない場合は、誰にも気付かれずに路上で物乞いをして下さい。更に、これは貴方が神の臨在の中にいる事を助けるでしょう。」聖ホセマリア・エスクリバー


10「ロザリオは悪霊を倒し、罪から身を守る為の強力な武器です。もし貴方が心、家、国に平和を望むなら、毎晩集まってロザリオを祈りましょう。どんなに多くの心配事や仕事に追われているとしても、一日たりとも彼女に祈らずに過ごしてはなりません。」教皇ピウス11世


11「ロザリオは、魂が見え、世界がこれまでに知った最大の愛のドラマが起こる盲人の為の本です。それは、他の人が学ぶよりももっと楽しい秘密と知識を全て単純な人に紹介する本です。それは、この世の影に対して目を閉じ、他の世界に対しては完全に開いている長老たちの本です。彼女の力は言葉では言い表せません。」フルトン・シーン大司教


12「ロザリオは最も優れた祈りの形であり、永遠の命を得る最も効果的な手段です。それは私たちの全ての病気の治療法であり、全ての祝福の根源です。これ以上優れた祈り方はありません。」教皇レオ13世


13「罪の中に生き続けてロザリオを祈り続ける事は誰にもできません。彼らは罪を放棄するか、ロザリオを放棄するかのどちらかです。」ヒュー・ドイル司教


14「私たちが生きているこの最後の時代において、聖母は、例えそれが物質的な物であれ、何よりも霊的な物であれ、例えどんなに困難であっても、問題が起こらない程度まで、ロザリオの祈りに新たな有効性を与えて下さいました。私たち1人1人の個人的な生活、私たちの家族…それはロザリオの祈りでは解決できません。例えそれがどれほど困難であっても、聖なるロザリオの祈りによって解決できない問題は何もないと貴方に言います。」 - ファティマのシスター・ルシハ・ドス・サントス


15 最後に、引用の代わりに、ロザリオの効果を理解するのに役立つ例を示します。ダビデがゴリアテを倒した話を覚えているでしょう。若いイスラエル人は巨人を倒す為にどの様な措置を講じましたか?彼はパチンコの石で額の真ん中を殴った。ペリシテ人を悪とそのあらゆる力、即ち異端、不純物、高慢の代表として見るならば、ロザリオの珠は敵を倒す事ができる投石器からの小さな石の象徴であると考える事ができます。

神のやり方は私たちのやり方とは全く異なります。私たちにとって、大きな成果を得る為には、強力な手段を用いる必要がある様です。これは神のやり方ではありません。それどころか。彼は強者を混乱させる為に最も弱い手段を選ぶのが好きです。神は強者を混乱させる為に世の弱者を選びました。(1 コリント1:27)


ロザリオを選べば間違いはありません


ロザリオの敬虔な祈りに最も忠実な貧しい老婦人によく会いませんか。また、歓喜の気持ちを持って彼女に祈る為に、できる限りの事をしなければなりません。イエスの足下に降りなさい。偉大な神の前で自分自身を小さくするのは良い方法です。キリスト、司祭の理想、霊的生活において他に熱心に取り組んでいない場合は、ロザリオを祈って下さい。それを通して貴方は必要な物全てを手に入れ、貴方の魂の敵を克服するでしょう。それを通して、貴方は人生の試練の中で平和と喜びを見つけるでしょう。悪魔を倒します。ロザリオを祈ります。


聖なるロザリオを祈る事によって、悪魔に魂を明け渡した女性は悪魔の支配から解放されるでしょう。


1578年、アントワープの女性が、自分の血で署名された慣習的な契約を交わして悪魔に身を委ねた。暫くして、彼女は大きな後悔を感じ、自分が犯した罪を償いたいと考え、サタンの奴隷状態から解放される方法を知る為に、賢明で慈悲深い告解者を探しました。彼女は賢明で敬虔な司祭を見つけ、聖ペテロ修道院のヘンリック神父の所に行くよう勧めました。ホーリー・ロザリオ同胞団のマネージャーであるドミニクに告白してメンバーになれる様に。彼女は立ち去るが、ヘンリック神父の代わりに修道士に変装した悪魔が現れ、彼女を厳しく叱責し、彼女が神の恵みを得たり、署名した降伏の行為を取り消したりする希望はないと告げる。悲しみながらも、神の憐れみへの信頼に満ちた哀れな女性は、再び父親の下に戻りますが、再び悪魔に出会い、最初と同じ様に彼女を拒絶します。彼女は善意を持ち続け、3度目に修道院に現れ、遂に神のご意志により、実の父フレンリクに会いました。彼は彼女を愛をもって迎え入れ、主の慈しみを信頼するよう励まし、次の事をするよう勧めました。良い告白。それから彼は彼女にロザリオを頻繁に祈り、同胞団に登録する様に命じました。彼女は言われた通りにしました。そしてある朝、ヘンリック神父が聖ヨハネの祝日を祝っていた時の事です。聖母マリアの為のミサが悪魔に悪名高い紙を女性に返すよう強制し、マリアの権威と聖なるロザリオの祈りのお蔭で、その瞬間に女性は悪しき者から解放されました。


ロザリオの力について語るバチカンの主なエクソシスト、ドン・ガブリエレ・アモルス


かつて、悪魔祓いの最中に、私の友人は悪魔がこう言うのを聞いた。「あらゆる『天使祝詞』は私の頭を殴られる様なものだ。もしクリスチャンがロザリオの威力を知ったら、私は終わりでしょう。この祈りが非常に強力である秘密は、それが祈りであると同時に瞑想であるという事です。それは父、聖母、聖三位一体に宛てられたものであり、キリストに焦点を当てた瞑想です。」


上記の考え方に、次の様に付け加えます。


それぞれの単語をはっきりと発音して下さい。言葉をねじ曲げないで下さい。貴方が対話者の場合、対話者が文章を終える前、つまり、答える人が終わる前に話してはいけません。その時、彼らは私たちの母マリアと話している事になり、他の人が話している時に話すのは礼儀正しくない事に留意して下さい。ロザリオを一緒に唱える時は、祈る人とそれに応える人の2人だけが祈ります。それぞれが聖母に語りかけ、心の中で聖母の答えに注意深く耳を傾けながら、目の前のイメージに焦点を当て、祈っている神秘を熟考し、その解釈と自分の人生への応用を考えます。この強力な悪魔祓いの祈りであるロザリオを広めて下さい。このロザリオには「主祷文」が含まれています。ロザリオの神秘の10分の1ずつが祈りの間に5回祈られる素晴らしい祈りであり、私たちと一緒に祈って下さる母の力強い祈りに支えられています。永遠の御父は、私の友人の1人の幻視の中で、私たちがロザリオを祈っている間に何が起こるかを私たちのグループに説明して、こう言われました。


「貴方が祈っている間…神の母、聖マリア、今私たち罪人の為に祈って下さい。聖母はすぐに貴方の所に来て、貴方と一緒に祈ります。そして、彼女は1人で来る訳ではありません。彼女は天使たちを連れてきます。彼女は天使の女王なので、天使の雑草全体が彼女についてきます。そして、彼女とイエスは心が1つになっていて離れる事ができないので、イエスも連れて行きます。そしてイエスは聖三位一体から離れる事はできず、父と聖霊を連れて来られます。そして、聖三位一体がある所には、全ての創造物がそこにあり、貴方はこの世では想像する事さえできない程の美しさと光に囲まれています貴方の母は両手を広げて慈悲の聖母として来られます。彼女の手から光線が放射され、貴方の体を突き抜け、貴方を癒し、恵みで満たします。それは、兵士が槍でイエスの心を突き刺した瞬間、十字架上のイエスの御心から、その瞬間にその様な恵みを受け取る準備ができている純粋な器、つまり貴方の母に注がれた物であり、私たちの遺産です。従って、ロザリオを唱えるか、「聖マリア」と答えるだけで、貴方はこれらの恵みの分け前を受け取る事ができます」それから彼はまたこう言いました。「それでは、心からロザリオを祈る人がこれほど祝福され、守られ、他の人の為に祈るのにこれほど力強いというのは不思議な事でしょうか?」


ロザリオはサタンに対して何をしますか?


私たちがロザリオを身につけると、サタンに頭痛を与えます。私たちが祈っているのを見ると、彼は気を失います。私たちは彼が二度と意識を取り戻す事ができない様に、絶えずロザリオを祈ります。このメッセージを伝えようとすると、サタンが貴方を落胆させようとする事をご存知ですか?これを貴方の祈っている友人全員に伝えて下さい。そうすれば、聖霊が何をして下さるかが分るでしょう。失う物は何もありませんが、得る物は沢山あります。


ロザリオは私を不信仰から解放してくれました


多くの人は神を疑います。なぜなら、他人の不信仰が彼らを不安にさせるからです。然し、深い信仰への道があります。マリアはイエスをこの世に連れてきました。貴方が彼女に求めれば、彼女は貴方にもイエスを連れてきます。「ロザリオを祈って以来、私は全く違う人間になりました。以前、私は全てにおいて、そして細部において神を疑っていました。だからこそ、ずっと苦しんできたんです。さて、ロザリオは私を不信仰から解放し、私を苦しめていた疑いを払拭してくれました。毎晩寝る前にロザリオの祈りを捧げます。同時に、彼女の秘密が私にとってますます明らかになりました。今、私は神を信頼しています。また、同僚に対してより忍耐強くなり、理解できる様になりました。ロザリオは私にとって大きな助けになります。


気を散らす物や悪魔の様な攻撃との戦い


よく祈られたロザリオほど、魂に多くの功徳をもたらし、イエスとマリアを讃える祈りはありません。然し、それでも、同じ祈りを絶えず繰り返す事によってほぼ自然に生じる特別な注意散漫のせいで、あるべき方法で祈るのは難しく、それを粘り強く続けるには多大な努力が必要です。マリアの小さな礼拝や七つの詩篇、或いはその他の祈りが捧げられる時、その表現の多様性と言葉の多様性が想像力を呼び起こし、霊を再生させ、その結果、魂がそれらの祈りをうまく祈るのに役立ちます。然し、ロザリオでは、常に同じ形で主祷文と天使祝詞を絶え間なく繰り返す必要がある為、飽きずに、或いは眠りに落ちない様に、或いは聖ロザリオの祈りを放棄せずに、何かを探すのは非常に困難です。他のもっと楽しくて退屈ではない祈り。従って、私たちがロザリオを粘り強く祈りたいのであれば、他の祈り、更にはダビデの詩篇自体に求められる物よりも比類のないほど深い信心を持たなければなりません。殆ど休む事のない私たちの気まぐれな想像力、または休む事なく私たちの注意を逸して祈りを妨げようとする悪魔の悪意が、困難を増大させる一因となっています。悪霊は、私たちがその罠に遭おうとロザリオを祈る決意を​​固めているのを見て、私たちに対して何をしようとしないのでしょうか?それは私たちが祈り始める前から、私たちの生来の弱さと怠惰を増大させます。退屈、気晴らし、疲労が増大します。つまり、祈りの間、彼は四方八方から私たちを包囲するので、私たちが一生懸命ロザリオを祈り、気が散った後に、私たちを嘲笑してこう言う事ができるのです。「貴方のロザリオには何の価値もありません。仕事をして義務を果たした方が良いでしょう。 30分瞑想に費やしたり、良い本を読んだりすればもっと大きな利益が得られるのに、気を散らして口頭で祈りを呟いて時間を無駄にしている事に気づきませんか?明日、眠気が少なくなったら、もっと注意深く祈るでしょう。残りのロザリオは明日に残しておきます!」この様にして、悪魔はその狡猾さを利用して、ロザリオ全体またはその一部を無視するか、ロザリオを別の祈りに置き換えるか、少なくとも延期するヨセフに説得する事に成功します。ロザリオの親愛なる同志の皆さん、彼を信じないで下さい。ロザリオの間中、貴方の想像力が気を散らす物や奇妙な考えでいっぱいで、それらを目にするとすぐに、できる限りそれらを追い払おうとしたとしても、気にしないで下さい。貴方のロザリオは、功績があればあるほど、より優れています。それは困難である程、遥かに価値があります。それは遥かに困難である為、魂にとって自然に楽しい物ではなく、秩序なく歩き回り、貴方の想像力に反して、魂が言っている内容や内容を楽しむ事を許さない迷惑なアリやハエによって更に邪魔されます。安らかに休む為に。ロザリオを唱えている間ずっと気を散らすのと戦わなければならない時でも、手に武器を持って勇敢に戦って下さい。つまり、例え甘美さや具体的な慰めがなくても、聖母に祈り続けて下さい。それは恐ろしい戦いとなるでしょうが、忠実な魂にとっては救いとなる戦いでもあります。逆に、もし貴方が腕を捨てる、つまりロザリオを離れるなら、貴方は敗北するでしょう。そして、貴方の意志に勝利した悪魔は貴方を放っておくでしょうが、裁きの日には、貴方は貴方の落胆と不誠実を後悔するでしょう。小さな事に忠実な人は、大きな事にも忠実です(ルカ16:10)。非常に短い祈りの間に小さな気を散らす事を忠実に抑える人は、大きな事にも忠実です。これほど確実な事はありません。これは聖霊の言葉です。ですから、毎日ロザリオを祈る事に決めたイエスと聖母の善良な僕であり忠実な僕である皆さん、勇気を出して下さい。祈りの最中に貴方を苦しめる無数のハエ…それを邪魔者と呼びましょう…が、決して貴方を誤解させて、貴方がロザリオの祈りの中にいるイエズスとマリアとの交わりから離れる事がない様に。少し先で、気が散る事を減らす為の幾つかの手段を提案します。


元悪魔崇拝者は教会に戻り、「ロザリオは強力です!」と断言します。


「悪魔は誰かがロザリオを祈るのを好まないのです!」と悪魔の教団で長く暗い4年間を過ごした男は言いました。デビッド・アリアスはメキシコのシウダードで生まれましたが、16歳でカリフォルニアに移り、そこで学校の友達に有名なオカルトゲーム「ウィジャ」を紹介され、墓地で悪魔を召喚する様に誘われました。デビッドはカトリック教徒の家庭で育ったものの、家族とはうまくいかなかったと語る。彼は自分自身を「問題のある」人間であると述べています。彼の信仰の基盤が脆弱だった事を考えると、カリフォルニアの新しい友人たちが、あらゆる種類の性的乱交や無制限のアルコールと薬物の摂取を含む秘密のパーティーに参加するよう彼を説得するのに、時間は掛りませんでした。彼らが「悪魔の教会」と呼ぶ閉鎖的なグループのメンバーになるよう彼を招待するのにも、それほど時間は掛りませんでした。そのグループには、黒い服を着て目と唇を黒く塗った人から、デイビッドによれば医師、弁護士、エンジニアの様に見える人まで、あらゆる年齢、国籍、社会階級の人々がいた。16歳のデビッドは最年少の1人でした。このグループは慎重に警察を避け、自分たちの行為を暴露したメンバーに対して殺害を脅迫した。彼は4年間という長い間教団に参加しました。然し、彼が言う様に「内なる空虚さ」により、ダビデはその様なライフスタイルを捨て、神とカトリック信仰に立ち返る事になりました。元の生活に戻った後、デビッドは結婚し、子供を儲け、教区生活に積極的に参加し始めました。彼は自分の暗い過去を他の人々、特にカリフォルニアのヒスパニック系コミュニティに共有しました。デビッドは今日、子供たちは有害な物に簡単にアクセスしてしまう為、親は意識的に子供たちを監視するよう主張しています。更に、ミサに出席し、定期的に告解し、ロザリオを祈る事を勧めています。彼は特に次の事を強調しました。「ロザリオは強力です。悪は誰かがロザリオを祈るのを好みません。」


証言・父のロザリオの祈りが私を同性愛から救ってくれました


子供の頃、私は父を尊敬していましたが、父の事を理解できませんでした。私は本能的に、自分の生存が彼に掛っていると悟りました。私の父は働き者でした。彼は勤勉でした。彼は、庭、ツリーハウス、家のアップグレードなど、何もない所から何かを生み出す事ができました。彼は私の物質的な幸福を気にかけていました。時々ケーキやドーナツを持って帰ってくれて、楽しい1日でした。その時、父が喜んでいるのが分かり、私も嬉しかったです。時々、私が悪い事をすると、父が怒る事がありました。その瞬間、私は彼が私を罰するのではないかと恐れていました。然し、私は父を愛していましたし、父が私を愛している事も分っていました。然し、子供の心の中では、彼は人間ではありませんでした。彼は神だった。そして遠方の神様。父は野心家で、勇敢で、声が大きい人でした。私は彼の様ではありませんでした。私の父は強くて丈夫でした。私はそうではありませんでした。私の父は本物の男でした。私は自分が男の子たちよりも小さいと思っていました。私はいつも彼の隣で縮こまっていた。私の父は何でも直す事ができました。彼は常に適切なツールを選択し、適切に使用していました。彼はトラクターを運転したり、筋肉の力で巨大な木の梁を持ち上げたりする事ができました。彼は虐められた事は1度もありませんでした。彼は誰にも鼻を引っ張らせなかった。彼の近くにいると、私は安全だと感じましたが、同時に不安も感じました。私の場合、自転車から落ちずにはいられませんでした。5メートル以上ボールを投げる事ができませんでした。ハンマーやドライバーを持っていると、どうしても親指をぶつけてしまったり、ネジを落としてしまったりしてしまいました。代わりに、私は何時間も机に座って、ウサギや虹で満たされた空想の世界のサムネイルを描きました。学校の男子生徒たちは私を容赦なくからかいましたが、私は屈辱的に彼らの隣に立って、弁護する言葉も言えませんでした。恥ずかしかったです。ある日、怖くなってパンツに詰め物をしてしまいました。父は私の恥を目撃する為に校庭の近くにはいませんでしたが、父は私を見ていて全てを知っていたと思いました。奇妙な事に、私は神にも人間にも失敗したのだと思いました。学校では、イエスは少し女々しい、いつも笑みを浮かべているヒッピーとして描かれていました。彼は漠然とした愛の教義を説いたが、最終的には偏見と抑圧という政治権力に屈した。なぜ彼が殺されたのか、私には全く分かりませんでした。なぜなら、誰も彼の事を気にかけるべきではなかったからです。当時、私の脳裏に刻まれたキリストの最も記憶に残るイメージは、映画『ゴッドスペル』の花子としてのイエスでした。学校の暗い体育館でその映画を観たのは、人生を変える様な経験でした。私の父が人間というよりも神であるなら、このイエスは神よりも人間でした。私の父が実物よりも大きく、やや横柄な人物だったとしたら、このイエスは世俗的で甘美な人でした。そして成長するにつれて、私はその両方の神を軽蔑しました。私は同性愛者として、男性的で力強く、それでいて理解力があり、思いやりのある完璧な男性を見つける事ができると考えていました。私の周りの誰もが全く同じものを探していたので、私はゲイの神を見つける事ができませんでした。期待すればする程、私は絶望的になりました。両親、特に父親は私が変わってしまった事に我慢できませんでしたが、私は気にしませんでした。例え彼がそれに気づいていなかったとしても、公に男性を必要とする事が、私が彼に仕返しする方法でした。私はそれが必要だと強調しましたが、それは決して存在しなかったとも主張しました。ある日、彼は私の外見と私の友人の外見について、正直ではあるが非常に傷つくコメントをしました。彼らが受け入れられるかどうかを試す為に、私はある週末、ゲイの友達を故意に家に連れて帰りました。父は、彼らが自分の家に歓迎されていない事を明らかにしました。私はそれを単なる拒絶だと思ったので、立ち去りました。年が経つにつれて、私は年をとり、病気も増えました。私の選択肢は減り、今私は一歩下がって、新世代の孤独な若者たちが潜在的な救い主、新しい神を探し求めているのを眺めていました。その頃には私は同性愛者の意識を次のレベルに進めているはずだ。何年にも渡って性的探求と自由を追求した後、「落ち着く」時が来た。曾てカトリックの神父が私に言った様に、それが最善の選択でした。彼によれば、私はこうして同性愛と神の両方を手に入れる事ができたという。ただ、結局何も残らなかった。私は自分自身を嫌悪し、エイズで苦しみながら亡くなった長い間別れた友人たちを羨ましがる様になりました。なぜなら、少なくとも彼らの苦しみはもう終わったと思ったからです。ある夜、私は冷たくて硬い病院のベッドの上で忘れ去られ、死にかけていました。母が近くでイエス様に祈っている間、私は死を祈りました。彼女が私の為に空と議論しようとしたので、私は彼女を呪った。私は彼女に神を望んでいませんでした。私のこれまでの人生はどこにあったのでしょうか?それにも拘らず、彼自身は痩せていて惨めでした。然し、遂に自己主張をして自信を持てる様になろうとした情けない試みの中で、私は怖くなってしまいました。私はパニックになりました。そして私はイエスに祈りました。すぐに私は彼のしっかりとした心地よい存在を感じました。彼はいつもそこにいましたか?ある意味、それは私が少年の頃に父が傍にいた時に感じたのと同じ感覚でした。私は安心したのです。その後、ある種の落ち着きのなさが戻ってきました。このイエス・キリストは、私を抱きしめ、無料の食事を与え、私を路上に送り返す為にここに来た1970年代の同じ長髪のソーシャルワーカーだったのでしょうか?戻りたくなかった。他に頼る所もないので、家に帰りました。放蕩息子は生き続け、両親は私の為に扉を開けてくれました。然し、私は余りにも混乱しており、疲れ果てていて、気分が悪かったので祝う事はできませんでした。暫くは話す事も眠る事もできませんでした。私はショックを受けました。私は助けを求めました。私は真実を祈りました。私は命を祈りました。私は父と神を待ち望んでいました。最初、父はこの状況をどうすればいいのか分りませんでした。彼は遠ざかり、私は自分の部屋にいました。私は実際に祈っているとは知らずに神に祈りました。余りにも肉体的な痛みに苦しんでいた為、幼い頃から間違って覚えていたたった1つの祈りに集中する事ができませんでした。代わりに、私はただ助けを求めました。私は懇願しました。そしてそれから数日間、私は隠者の様に暮らしました。然し、私はまだ不安を感じていました。私はゆっくりと修道院の独房を出て、答えを探しに行きました。両親の本棚に辿り着きました。私は何も考えずに、聖書とカトリック教会のカテキズムという2冊の本を自分の部屋に持ち帰りました。私も読んでいません。次の数日間、私は特定のセクションを選択的に再学習しました。主に、キリストが公の罪人を赦す部分と、同性愛を扱うカテキズムの箇所です。そこには慈悲があり、そして真実に安らぐ強さがありました。キリストは私が小学生の頃から想像していた無力な弱虫ではなかった。彼はいじめっ子たちに立ち向かい、負傷者を慰めました。然し、彼はそれらを埃の中に放置しませんでした。神は私たちに、従うべき御言葉と、私たちのあらゆる思考の指針となる法則を与えて下さいました。彼は出口を提案した。私は今、自分が信頼を寄せている2冊の本を抱えて部屋を出て、本棚に戻しました。そこに行く途中、私は父が祈っているのを見ました。彼がこれほど集中して祈っているのを見た事がありません。私が同性愛の為に自主的に投獄されている間、私の両親は気晴らしと過剰の世界に自らも囚われの身となりました。彼らは、高価なワインの贅沢や、世界中を巡る終わりのない夜のグルメツアーは、本質的に空の食事である事に気づきました。今、彼らは父の決意によって与えられた贅沢を放棄しました。父も負けず劣らずの決意を持っていた様ですが、彼の野心は変わりました。彼の人生の全ては物質的な目標に向けられていました。今、彼のエネルギーは純粋な非物質的な現実に集中していました。私は階段の途中で、リボンについた小さな小珠が幾つか父の指を通過するのを、半分隠れて立って見ていました。子供の頃、私はロザリオの祈り方を知りませんでした。ここ数年、私が覚えていた唯一の事は、マドンナという名の若い歌手が首から下げ続けていたロザリオでした。私の心の中では、十字架が常にマドンナの豊かな胸の谷間に戦略的に配置されていた為、彼女は神聖な物から変容し、殆ど世俗的な物体となった。然し、父の荒れて硬くなった手の中で、ロザリオはその真の意味と重要性を取り戻しました。私の幼少期のイエス・キリストの概念と同様に、父は私がそれまで信じていた以上の物になりました。父は私を嫌っていると思っていた間ずっと、実際には私の為に懇願し、泣いていました。そして、しばしば孤独に、静かに行われるその行為には、思いやりがあった。私がゲイディスコで踊っている間、父は物乞いをしていました。私が名もなき男たちとセックスしている間、父は祈っていました。私が命を捨てながら、父は祈りました。彼は毎日ロザリオを祈っていましたが、私はそれを知りませんでした。死の床にある時の様に、あの長い孤独な日々の中で、私はその様な意味のない呟きが信じられないほど愚かだと思っただろう。彼には、私の為に尽くした努力が全て失敗に終わったと思われたに違いありません。家に帰ってなかったんだ。然し、彼は粘り続けました、そしてそれには強さと決意が必要でした。私が少年だった頃、私にとって不快に思えた同じ特性が、キリスト・イエスを通して私の救いの手段に変わりました。世の中に対する不満は、時に後悔に繫がります。苦々しく不機嫌なままでいたくないのであれば、進歩し生き残る為には、自分自身と周囲の全てに対する理解を根本的に見直す必要があり、これには謙虚さが必要です。私の現在の荒廃した肉体状態で、私の屈辱は完了した。私を救ってくれる男らしい男を無駄に探し求めた結果、私は少年時代に戻った。私の体の損傷は酷く、恐怖に怯えた少年は倒れ続けましたが、今では誰も自分を清める事も、許す事も、痛みを消し去る事もできない事を知っていました。例え父親でさえも。なぜなら、どういう訳か、ただの男以上の別の男が既に私を救ってくれたからです。そしてその解放において、父はその役割を果たしました。


道で待っていた放蕩息子の父親は、放蕩息子以上に苦しみました。–フルトン・シーン大司教


私は毎日彼の厳格な生き方を観察する事ができました。彼は本職が軍人で、母の死後、彼の人生は絶え間ない祈りとなりました。時々、夜中に目が覚めると、教区教会で父が跪いているのをいつも見ていたのと同じ様に、跪いている父を見つける事がありました。–教皇ヨハネ・パウロ二世


出典元・medjugorje-info(クロアチア語・Google翻訳)




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今日は「ロザリオの祈り」の持つ力について記載しましたが、それは私が何時も紹介してる、チャプレットの祈りについても同じ事が言えます。皆さん、もっと「御憐れみのチャプレット」と「ロザリオの祈り」を祈って下さい。




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