聖ベルナデッタ・スビルー


ベルナデッタ・スビルー(1844年1月7日-1879年4月16日)は、フランスの聖女。南仏のルルドで聖母の出現を体験し、後にヌヴェールの愛徳女子修道会の修道女となる。写真に撮られたカトリック教会の最初の聖人である。ベルナデッタによって発見された泉の水によって不治の病の治癒例が多く見られ、教会が公認した物だけでも68例に上り、ルルドはカトリック教会の最大の巡礼地の1つとなった。


生涯・ルルド時代


ベルナデットの生い立ち


ベルナデット 出生前、母方のカステロー家は複雑な事情を抱えていた。1841年7月1日、ボリーの水車小屋の粉を挽いていたジュスタン・カステローが、馬車の事故で亡くなった。未亡人となったクレール・カステロー夫人には、女の子4人と男の子2人が残されて途方に暮れた。当時、ピレネー地方では長子であれば男女関係なく財産、土地を相続する慣習があった。水車小屋は止まってしまい、一家を再興する為には、長子の女の子を同業者と結婚させなくてはならなかった。カステロー夫人は、近くの水車小屋で働いていた34歳のフランソワ・スビルーに話を持ちかけた。フランソワはこの話に乗り気で、喜んで、ボリーの水車小屋にやって来て仕事を手伝った。然し、一向に結婚話を進めてくれないフランソワに問い正してみると、フランソワが気に入っているのは、長女ではなく次女のルイーズである事が分った。次女を先に結婚させる事にしたカステロー夫人は、水車小屋の人々に、次女の方が家事ができるという口実で、この結婚を納得させた。結婚式は、1843年1月9日で、翌年の1月7日に、長女のベルナデットが生まれた。性別を問わない長子相続の伝統から、ベルナデットは後にルルドを離れても、家族の行く末を気にかけていた。


スビルー家の苦難


ベルナデットが生まれて1年も経たない内にスビルー家に不幸が訪れた。1844年11月、暖炉の傍に座っていたルイーズの服に、壁に掛けてあったランプが落ちてきて服に燃え移り、胸に酷い火傷を負ってしまったのである。乳を飲ませる事が出来なくなったルイーズは、ベルナデットを里子に出さざるを得なかった。生まれたばかりの男子を亡くしたマリー・ラギューが乳母の役割を引き受け、乳離れするまで預かってくれた。その後、二つ目の不幸がベルナデットの家を襲った。水車小屋で金槌の修理をしていたフランソワが、石の破片で右目を傷つけてしまったのである。その為に仕事がうまくいかなくなってしまったが、人の良いスビルー家の人々は、施しを求める者がいればそれを拒否しなかった。施しを求めに来た人々の中には、後に列聖される托鉢僧のミッシェル・ガリコイツもいた。1855年、ベルナデットは、ルルド地方を襲ったコレラに罹り、一命を取り留めたものの、元々病弱であった為に、これ以降、喘息の発作に苦しむ事になった。母方の祖母が亡くなり、祖母の遺産の900フランで新しい水車小屋を借用した。然し、字が読めないフランソワは、契約書の内容を理解できなかった為に、僅か一年しかその仕事につく事ができなかった。スビルー家の経済状態は悪化の一途を辿り、更に小麦の不作が重なった為に、遂にフランソワは失業した。スビルー家は「カショー」と呼ばれた、牢獄跡の建物に住む事を余儀なくされた。1858年3月1日のデュトゥール検事による記録によれば、このカショーは、「汚くて暗くて人間の住める所ではない」廃屋であった。このカショーの2階に住んでいた従弟のアンドレ・サショーによると、貧しくはあったが、「毎晩スビルー家は大きな声で、フランス語で夕の祈りを唱えていた」という。ベルナデットは標準フランス語を理解できなかったが、何ものか感じる物があった。いよいよ困窮に陥ったスビルー家は、バルトレス村の養母の元にベルナデットを里子に出し、彼女は羊飼いをして生計を立てる事になった。日曜日には公教要理の勉強をさせてくれる約束であったが、その約束は十分に守られず、ベルナデットは、初聖体 を受ける頃になっても読み書きができず、幾つかの祈祷文は覚えたものの、三位一体の教義すら知らなかった。


聖母の出現


第1回目の出現


1858年2月11日、ベルナデットは、妹のマリー・トワネットと隣家のジャンヌ・アバディーと共に、昼飯の支度の為の薪を拾いにマッサビエルの洞窟に向かった。子供たちはポン・ヴュー(古橋)からポー川を渡り、シュベルカレールの森へ向かう道を辿り、サヴィの水車小屋を動かしている水路の橋を跨いだ。そして、当時はシャレ島と呼ばれていた中州にあるサヴィの牧草地に入り、サヴィとメルラスの運河が合流する水路がポー川に注ぐ牧草地の西端に向かった。ポー川から引かれた水路はここが一番川幅が狭くなっており、歩いて渡れるからである。2人は先に水路を渡ったが、ベルナデットは喘息の発作を恐れる母の言葉を思い出して川を渡る事を躊躇していた。何とか足を濡らさないで川を渡れる場所を探したがどこにもないので、意を決して靴下を脱ごうとした。そして、「片方の靴下を脱いだとき、風の音の様な物が聞こえ」たので振り返ったが、何も見えなかった。振り返りもう片方の靴下を脱ごうとすると、また大きな風の音がした。前を見ると木の枝が揺れ動き、野生のバラの木は地面から上に伸び洞窟の窪みまで3メートルほども伸びていた。暗い窪みには柔らかい光が射し込み、白い服を着た女性が両手を開いて手招きをしていた。畏れ慄き、夢でも見ているのではないかと何度も目を擦って見たが、女性は微笑みを讃えてベルナデットを見つめていた。ポケットのロザリオに手を触れて十字の印を切ろうとしたが手が挙がらなかった。然し女性の方が十字の印を切ると、今度は手が挙げられる様になり、ベルナデットは、ロザリオの祈りを唱えた。洞窟を注視して祈っているベルナデットを見た2人の少女たちに、ベルナデットが何か見えなかったかと尋ねると、好奇心にかられた2人はベルナデットから、誰にも口外しないという条件で経緯を聞き出した。ところが二人がこの約束を破ってしまったので、瞬く間に噂が町中に広まった。2月13日の土曜日、「一陣の風」が吹き振り返ると「婦人の形をした白い者」が見えた、とベルナデットはベルトラン・ポミアン神父(ルルド教区の助任司祭)に告白した。ベルナデットの正直さを知っている神父は、少女が作り話をしている様には思えず、その話を主任司祭のペラマール神父に伝えた。ポミアン神父が特に打たれたのは風の音の個所で、神父は使徒行伝2章における聖霊降誕の際の「激しい風」 の事を想起していた。


第2回目の出現


人影の正体についてあれこれ取り沙汰される様になり、2月14日、ベルナデットたちは、その善悪を見極める為に教会から聖水を貰い、出現した女性に振りかけると、聖水をふりかければふりかける程、あの方は微笑みを増した。以前から洞窟の話に興味を持っていたミエ夫人は、ベルナデットの話にある「白い服、青い帯、ロザリオ」という服装を聞いて、それが前年に亡くなったエリザ・ラタピの霊ではないかと考えた。実子のないミエ夫人は、姪のエリザを養子としていたが、前年に亡くなっていた。ミエ夫人がエリザの霊ではと考えたのは、洞窟に現れた女性の服装が、当時ルルド地方の篤信の女性たちをひきつけていた《幼きマリア会》 の制服と一致しており、エリザはその服装のまま埋葬されたからである。


第3回目の出現


エリザの霊であるか否かを確かめる為に、ミエ夫人はベルナデットを連れ筆記用具を伴い、現れた女性に「どうぞお名前を書いて下さい」と願い出たが、その必要はないとされ、「お願いですが、ここに15日間続けて来て下さいませんか」と答えが返って来た。また、その若い女性は、「私は貴女をこの世で幸せにする事は約束できませんが、あの世で幸せにする事を約束します」と述べた。ミエ夫人はベルナデットが「あれ」と呼ぶ若い女性がエリザの霊ではないという事がすぐわかり、「もしかすると、聖母マリアかもしれない」と思う様になった。


出現の15日間


噂が町中に広まり、洞窟に行く人の数が増えるにつれて、治安上の脅威を覚えたルルドの警察署長ジャコメは、ベルナデットを警察署に連行し、情緒不安定な思春期の少女の白日夢という事で事態を収拾しようとし、ベルナデットが字の読み書きができない事を利用して適当な調書をつくろうとした。然し、ジャコメが読み上げて同意を求める尋問調書に対し、ベルナデットは逐一反論を加え、実際に見た事の改竄に同意しなかった。業を煮やしたジャコメは、ベルナデットの父親を呼びつけて脅し、ベルナデットは洞窟に行く事を禁じられてしまった。この尋問には、税務署長のジャン=バティスト・エストラードとその妹のエマニュエリットが立ち会っていた。エストラードは、ベルナデットの話になお懐疑的だったが、妹に促され警察署長の許可を得て、第7回の出現に立ち会った。


2月23日、エストラードは、ベルナデットの後についてマサビエルの洞窟に赴いた。跪いたベルナデットに「一瞬光りが差し込むと、うやうやしくおじきをし、生まれ変わった様だった。彼女の瞳は光り輝き、その唇にはえもいわれぬ微笑みが生まれ、ベルナデットはもはやベルナデットではなかった」。自分の見た物をどう理解してよいのか分らないまま、エストラードは、「私はボルドーの劇場に行った時、有名な女優のラシェルを見た。本当にすばらしい女性だった。然し、その彼女でさえもベルナデットとは比べ物にならない」と述べた。エストラードが態度を変えたという噂が広がり、出現を信じる人が益々増えていった。2月24日の第8回の時、「罪人の回心の為に神様に祈りなさい」という言葉を聞いたベルナデットは、「償いを!」という言葉を人々に取り次いだ。


告げられた「無原罪の御宿り」の名


2月25日の第9回目の出現の時になると、洞窟の前にはもう350人くらいの人々が集まり、騒然たる雰囲気の中にベルナデットが現れた。ベルナデットは、洞窟の前で祈った後、頷いて何かを探すそぶりをして、川の方へ降りていった。そして振り返るとまた頷き、洞窟の前に戻って地面を掘り始めた。そして赤みを帯びた泥水を3回すくって自分を顔に近づけ、四回目にやっとその水を口に入れて飲んだ。篤信の美しい少女を期待してやって来た野次馬たちは、ベルナデットの泥まみれになった顔を見て、「女優のラシェルだって?へんちくりんな田舎娘がいるだけじゃないか」と嘲り、洞窟を去って行った。然し、ベルナデットの言葉を信じる人たちが後に残ると、わき出た泥水は絶える事なく流れ続け、エレオノーラ・ペラールという婦人がこの穴に棒を差し込むとせせらぎの様な音が聞こえ、水量はいよいよ増し、汲めば汲むほど綺麗になっていった。


検事による召喚


同日の夕刻、検事のヴィタル・デュトゥールは、民衆の騒乱を恐れる知事から命令を受け、ベルナデットを連行し尋問したが、法律違法を犯していないベルナデットの逮捕に激昂した民衆が釈放を求めて検事庁舎に押しかけ押し問答となった。適当な調書を作ろうとしていた検事の「手は震えていた。インク壺にペンを入れ損ね、しきりに紙の上に書きなぐっていた」 が、やがてベルナデットは釈放された。


デュトゥール検事は、ラカデ町長と共に事態を収拾してくれる様ペラマール神父に求めたが、神父は、「ベルナデットはご承知の通り、罪人でもなければ、狂人でもない。もし知事が武力をもって、スビルー一家を襲う様な事をするなら、その家の門前に立ち塞がって最後まで戦う者がある事を忘れない様に」と返答し、その申し出を退けた。ペラマール神父の親族は医師ばかりでなく、弟のアレクサンドルはペルーの造幣局長であり、姪のデルフィーヌの義兄はエクアドルのガブリエル・ガルシア・モレノ大統領だった。ピレネー地方の聖俗に影響力がある名門出身の神父の庇護によって、官憲側も迂闊にベルナデットを拘引する事ができなくなった。


ルルドの泉


最初の奇跡


3月1日、ルルドから7キロばかり離れたルバジャックの村にカトリーヌ・ラタピという女性が住んでいた。妊娠9カ月の身重であったが、自分にも理解できない心の促しに従って、2人の子供の手を引いてルルドにやって来た。カトリーヌは、以前木から落ちて腕を脱臼し、長い間医者に罹ったが治らず、右手の指が曲がったまま動かず感覚もなかった。然し、泉の水に右手を浸すと、身体全体に快い感覚が広がり、手が柔らかくなった様に思えた。それと同時に曲がっていた指は突然、元の様に動く様になった。彼女が感謝の祈りを唱えると陣痛が始まり、自分の村に戻ってもお産を手伝う人もいなかったが、痛みもなしに男の子が生まれた。男の子は、奇縁に因んでジャン=バティストと名付けられ、後に司祭になった。


蘇生する赤子


貧しい職工のジャン・ブオールには、1人息子であるジュスタンがいた。ジュスタンは、骨軟化症で生後2カ月経っても揺り籠の中で座る事もできなかった。3月2日午後、発熱性の消耗性疾患で食欲が減退し、もはや何も受け付けなくなった。赤子の衰弱甚だしく、かかりつけ医のペリュ博士にももはや打つ手がなく、刻々と死が近づいていた。不自由な身体で一生を過ごすよりこの方が本人の為に幸せだ、とジャンは悲嘆にくれる母親のクロワジーヌを慰めた。然し、諦めきれないクロワジーヌは「この子はまだ事切れていない」と呟くと、赤子を前掛けに包み、マサビエルの洞窟を目指した。そして「そんな事をしたら、子供を殺してしまうぞ」という周囲の人々の制止も聞かずに、子供を裸体のまま冷たい水につけた。15分間もつけたかと思うと、また大急ぎで家に戻って寝かしつけた。この様子の始終を、聖母の出現の際にベルナデットに立ち会ったドズー博士が見ていた。赤子は一言も発せず誰の目にも絶命したものと思われた。昏睡状態は翌朝まで続いたが、朝になると赤子は突如目を覚まして盛んに乳を求めた。そして、3月4日には起き上がり室内を走り回る様になる迄に回復した。ドズー博士は同僚のヴェルジェス博士に意見を求めたが、どちらも突然の快癒の原因が掴めず、ペリュ医師も同様だった。11年後にアンリ・ラセールがブオール家を訪れると、病弱どころか、元気すぎて遊びに夢中で勉強しなくて困ると母親のクロワジーヌが零す、ジュスタン少年がそこにいた。


失明の快癒


ルルドに住む石工のルイ・ブリエットは職場での事故で右目に外傷を受け失明し、仕事がうまくゆかなくなって困っていた。然し、3月3日、祈りの言葉を唱えながら洞窟の泉水で目を洗うと突然右目が見える様になった。以前失明を確認していたドズー医師は、喜び勇んでやって来たブリエットを落ち着かせた。そして、その言葉をにわかに信じられない医師は、「左目に眼帯をして、ブリエットから20歩離れて、手であらゆる動作をしてみたが、彼はその全てを完璧に見分けた。その後、今度はブリュエットに近づいて、私の手帳にあれこれ線を書いてみたが、これも難なく識別した」と、ドズー自身が語っている。ルルドの町長アンセルム・ラカデは、ルルドが温泉町になればと考えて泉の水を分析させたが、化学的には単なる普通の水に過ぎなかった。


「無原罪の御宿り」


翌3月2日の第13回目の出現では、洞窟の前に来る人は、1,650人にも膨れ上ってきた。ベルナデットは、聖堂を建てる事と行列をして欲しいという、女性からのメッセージを教区の司祭であるペラマール神父に伝えた。然し、神父はどこの誰だかも分らない者の命令を聞く訳には行かないとして取合わず、ベルナデットが「あれ」と呼ぶ者の名前を尋ねてくる様に命じた。3月25日、教会暦で受胎告知の祝日に当たるこの日、ベルナデットは人影に名前を聞くと、人影はQue Soy Era Immaculada Councepciouと答えた。これは、ルルド地方のビゴール方言で「私は無原罪の御宿りです」の意である。無原罪の御宿りの教義は、1854年に正式に信仰箇条としてローマ教皇ピオ9世によって宣言されていたが、当時の教会用語はラテン語であり、正規の学校教育を受けた事がなく標準フランス語すら解さなかったベルナデットが教義の内容を知る訳もなかった。ベルナデットは意味がわからぬまま、「あれ」が発した「ケ・ソイ・エラ・インマクラダ・カウンセプシウ」という言葉を忘れない様に帰途何度も反芻し、その言葉を先のペラマール神父に伝えた。それまでベルナデットの言葉に半信半疑だった司祭は驚愕し、聖母マリアの出現に間違いないと確信した。マサビエルの洞窟への最初の行列は、教会による聖母の出現が公認される以前に、ベルナデットが聖母から取り次いだ、洞窟まで「行列をしなさい」という指示に従う《幼きマリア会》の少女たちの自発的意志によって始まった。5月7日、「マリア月」の祈祷の為にルルドの教会に集まっていた少女たちは、教会から出ると、手に手に蝋燭を持ち、聖歌を歌いながら洞窟を目指し、跪いて祈り、また市街地の入り口まで互いに離れる事なく同じ行列を繰り返した。7月16日、聖母の出現が終わった頃にはルルドは既に多くの巡礼者で賑わう様になった。洞窟に余りにも多くの人々が集まり始めた事に不穏な物を感じた官憲は、洞窟の前に鉄柵を設けて、洞窟に接近する事も泉の水を汲む事も禁じてしまった。然し、ルイ・ヴィヨーなどの当時の著名な作家やジャーナリストがルルドを訪れる様になると、ベルナデットと洞窟の話はフランス全土で知られる様になった。7月28日、ナポレオン3世の皇太子の傅育官であるブリュア海軍大将未亡人は、病気がちな皇太子の為に泉の水を求めて密かにルルドを訪れ、同地の話を部下から聞いた皇帝は、洞窟の前の鉄柵を撤去する様に命じた。ピレネー地方のローカルな事件に対して第二帝政の要路が過敏な反応を示したのには訳があった。当初ルイ・ナポレオンは、カトリック票目当てに、イタリアの共和主義者によってバチカンを追われたピウス9世 (ローマ教皇)のローマ帰還を支持し、教皇は1850年にフランス軍の保護のもとにローマに帰った。然し、教皇は帰還するや以前にも増して反動的な政治を再開したので、「フランス共和国はイタリアの自由を圧殺する為にローマに出兵した訳ではない」と諌め、自由主義的な世俗政府の早期樹立を要求した。これに対して、カトリックの正統王朝派による秩序党は、ルイ・ナポレオンを裏切り者として激しく批判する様になった。ルルドに聖母が出現して「無原罪の御宿り」と告げた事は、マリアの無原罪の教義を宣言した教皇ピウス9世の権威を高め、第二帝政に批判的な正統王朝派とウルトラ(教皇至上主義者)を勢いづかせてしまう恐れがあったからである。ピレネー地方など「西部、南部に基盤をおく正統王朝派、カトリック勢力など王党右翼勢力もまた、共和派と共に帝政反対派の一翼を構成していた」のである。

1864年にリヨンの美術アカデミー会員の彫刻家、ジョセフ・ファビッシュによってマリア像が造られ、聖母が出現した洞窟の窪みに設置された。当時パリで人気を博していた挿絵入り新聞『イリュストラシオン』紙などにベルナデットやルルドの出来事が採り上げられる様になると、人々は競ってベルナデットに面会を求める様になり、3月5日には、ベルナデットと結婚したいという者まで現れた。それは、ナントの医科大学のインターンをしているラウル・ド・トリックビルという青年で、ローランス司教に手紙を書いて求婚の許可を求めたが、司教はその「願いが全く不謹慎な物で、聖母マリアのお望みに反する」と拒絶した。また、スビルー家に押しかけた人々は、ロザリオを触って貰う事や服の一部を貰う事を求めたが、ベルナデットはその求めに応じず、「まるで太った牛の様に人目に晒されている」事に困惑を示した。


ヌヴェール時代


パリ外国宣教会のテオドール=オギュスタン・フォルカード神父は、幕末期に沖縄に滞在して日本布教を準備していたが、帰国を命じられてヌヴェール教区の司教に叙階されると、フランス全土で有名になり毎日訪問者の好奇の目に悩まされていたベルナデットを修道院に匿うべく尽力した。


パリからやって来る名士たちのインタビューは、単に煩瑣という理由以外でもベルナデットの困惑の種であった。なぜなら、「彼女は山あいの方言しか使った事がなかったので、フランス語は彼女にとって外国語」であったからである。「私は貧しく必要な持参金を持っていません」というベルナデットに対して、持参金なしでも入会した例をフォルカード神父が語ると、「持参金なしでも入会できたお嬢さんたちは、手先が器用だったり、頭が良かったりするのでしょう。私は何もできませんし、何の取柄もないんです」と答えた。すると、「今朝この目で見たが、人参の皮むきができるじゃないか」と説得し、1866年7月7日、ブルゴーニュ地方にあるヌヴェール愛徳修道会への入会を斡旋。17世紀に創設された愛徳修道会は「不幸な人々以外の事に、決して関心をもってはいけません。その人々を心から助ける事以外の心遣いや心配を、決してもってはなりません」というドゥラヴェンヌ師の言葉を会則としており、貧しい家庭の女の子に初等教育を施す事と、誰からも望まれない老人を迎える事にとりわけ意を用いていた。愛徳修道会は、ルルドに養護施設と学校を持っており、ベルナデットはそこで学んでいたので、同会のシスターたちはもっとも身近な存在だった。ベルナデットが持参した財産は、一本の日傘と手提げ鞄だけだった。ヌヴェールでベルナデットは、「スール・マリー・ベルナール」という名前で修道女となる誓願を立て、自身は持病の気管支喘息に加えて肺結核や脊椎カリエスといった難病に苦しみながらも、様々な雑用や看護婦としての仕事に従事し、1879年4月16日に35歳で死去した。


その後のルルド


1925年に列福、1933年12月8日、ローマ教皇ピウス11世によって列聖された。テ・デウムが歌われるサン・ピエトロ大聖堂で行われた列聖式には、駐バチカン・フランス大使のフランソワ・シャルル=ルーによる配慮で桟敷席に招かれた、ポーで花作りを営む老人がいた。それは、赤子の時ルルドの泉で骨軟化症が快癒したジュスタン・ブオール少年の77歳の姿であった。その後もベルナデットによって発見された泉の水によって不治と思われた病が治癒する奇跡が続々と起こり、鉄道など交通路の整備とあいまって、ルルドはカトリック最大の巡礼地になり今日に至っている。


現在のルルド


ピウス9世以来、歴代教皇はルルドへの厚い信仰を寄せた。2004年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が8月15日の聖母被昇天の祝日にルルドを訪問した。元フランス大統領ジャック・シラクと聖女と同名の夫人ベルナデット・シラクが応接した当日、ルルドには少なくとも30万人の巡礼者がいたと推定されている。


ルルドの聖母と日本


日本中に広がるルルド


最初にルルドの模型が造られたのは、ベルギーのオオスタッカーであり、クールブルヌ侯爵夫人によって造られたルルドでも病気の治癒例が見られたという。日本では、幕末維新期のカトリック布教に主導的役割を果たしたパリ外国宣教会の司祭たちによってルルドの信仰が熱心に紹介された。その先鞭をつけたのは、宣教会のジョゼフ・ロケーニュ師である。1879年(明治12年)には、悪性腫瘍で余命いくばくもないと医師に宣告された弘前市に住む新谷雄三少年が、マレン師からルルドの奇跡の話を聞いて洗礼を受け、熱心に聖母マリアに祈り病気から快癒した。その後この少年は、長崎の神学校で勉強を続け、司祭に叙階された。1895年(明治28年)には、長崎五島の玉之浦町にルルドの洞窟の模型の建設が始まり、これを嚆矢として、マキシミリアノ・コルベ神父ゆかりの長崎の本河内を初め日本全国のカトリック教会にルルドの洞窟が盛んに造られる様になった。名古屋市東区にあるカトリック主税町教会のルルドは、ドマンジェル神父の尽力で建設が着手され、ドイツ人技師によって造られた。1911年(明治44年)、陸軍戸山学校の音楽隊も出動し、ボンヌ大司教によって盛大な祝別式が挙行された。



聖ベルナデット・スビルーのチャプレット


チャプレットは8つの神秘で構成されており、一連の小珠が10個の8連になります。


十字架の印


最初の3つの小珠で、次の祈りを唱えます。


「ああ、至聖なるマリアよ、この世で貴女を最も愛し、天国で貴女を最も激しく愛して下さった方の愛を探して下さい。」


センターメダイで、次の祈りを唱えます。


「ああ、至聖なるマリアよ、この世で貴女を最も愛し、天国で貴女を最も激しく愛して下さった方の愛を探して下さい。」


小珠で、次の祈りを唱えます。


「おおマリアよ、聖ベルナデッタの功績と苦しみのお蔭で、私たちの嘆願に耳を傾けて下さい。」


最後の祈り


「ああ、聖ベルナデッタよ、ルルドのマッサビエルの洞窟で聖母と18回も会い、話す機会に恵まれた聖母は、この世で最も神の母を愛し、彼女の為に貴女は全ての苦しみを味わったのです」私たちがこのチャプレットに求めている恵みを私たちに与えて下さい。そして、私たちが天国で永遠に彼女を賛美し、貴女と一緒に彼女を愛する事ができる様に、至聖なるマリアへの愛に生き、そして死ぬ事ができます様に。アーメン。


第一連


謙虚な聖ベルナデッタよ、私たちは貴女を思います。幼少期、ルルドで、親戚の隣で極度の貧困の中で羊の世話をし、余りにも多くの試練、屈辱、病気の真っ只中で教理問答の勉強もできなかった頃の事です。私たちは貴女に、貴女が経験した苦しみに対する謙虚さの模範を求めます。貴女が至聖マリアから謙虚さ、世俗的な物から離れる事、そしてキリスト教徒の貧困に対する愛の恵みを得る事ができる様にして下さい。アーメン。


第二連


私たちは、1858年2月11日にルルドのマッサビエル洞窟に行き、風の息を聞きながらマッサビエル洞窟の方へ向きを変え、18回の御出現の内の最初の御出現をされた、おお最も祝福された聖ベルナデッタよ、貴女を観想します。貴女は聖母マリアについて知っていました。貴女がその時、感じた計り知れない喜びの為に、至聖マリアへの真の、熱心で誠実な献身の恵みを私たちにお与え下さい。アーメン。


第三連


私たちは、聖ベルナデッタが洞窟に戻り、至聖マリアから15日間戻るという使命を受け、彼女と共に聖なるロザリオを祈り、彼女から祈りを受け取り、次に3つの秘密を受け取り、彼女から悔い改めのメッセージを受け取る事を熟考します。そして祈り、そしてその年の2月25日に神の母自身が示した奇跡の源を見つけました。そして私たちは、その天国の瞬間に貴女の心に侵入した喜びを、貴女が至聖マリアから私たちに悔い改め、祈り、そして彼女への服従の恵みを与えて下さる様お願いします。アーメン。


第四連


おお偉大なる殉教者、聖ベルナデッタよ、私たちは、屈辱、侮辱、嘲笑、嘲笑、軽蔑、禁止、忘恩、裏切り、警察と教会の尋問、投獄と死の脅迫に、大変な忍耐と柔和さで苦しんでいる貴女の事を思います。聖職者からの検閲と信用の失墜、親戚、知人、隣人から感じた孤独と見捨てられた為、貴女は何度も心からの涙を流しました。貴女がその時受けた苦痛の為に、私たちに忍耐の恵みを与えて下さいます様お願いします。アーメン。


第五連


私たちは、貴女が聖母から、洞窟に礼拝堂を建てる様、司祭たちに告げるという使命を今も受けているのに、再び彼らから軽蔑され、拒絶されているのではないかと考えています。ああ、聖ベルナデッタよ、貴女がこの様に見えるのは、誰からも見捨てられ、洞窟に礼拝堂を建ててほしいという聖母の願いに応える事ができなかったのです。貴女が当時苦しんだ苦しみの分、至聖なるマリアのメッセージと御出現のせいで私たちが受けなければならないあらゆる軽蔑と屈辱に耐える恵みを私たちに与えて下さい。アーメン。


第六連


聖ベルナデッタよ、私たちは、3月25日にルルドの御出現の中で至聖マリアから「私は無原罪の御宿りである」という御名の啓示を受け取った貴女を観想します。そして手を火傷しなかった蝋燭の奇跡を彼女から受け取りました。おお、神の母の従順な僕よ、私たちは貴女に、聖母の献身とメッセージを世界に広める者となる恵みを彼女から得て下さる様お願いします。アーメン。


第七連


信仰の模範である聖ベルナデッタよ、私たちは貴女が7月16日に最後の御出現をされ、数年後にルルドを永遠に去り、ヌヴェールの修道院に行き、そこで非常に多くの試練、試練、屈辱に耐え、働きながら働いていた事を思います。看護師、料理人、清掃員、メイドとして働いていて、誰からも役立たず扱いを受けています。私たちは、貴女が非常に激しく苦しんだこれらの痛みに対して、聖母から忍耐、柔和、忍耐、そして苦しみに直面したときの諦めの恵みを得る様にお願いします。アーメン。


第八連


私たちは、忍耐と愛の模範である聖ベルナデッタよ、熱と昏睡状態で数年間ベッドで過ごし、この世の罪と魂の救いの為に苦しみ、償いをされた貴女を思います。聖母の愛と罪人の救いの為に苦しみと努力に満ちた人生を送られた皆さんが、1879年4月16日に亡くなるのを見届けます。午後の三時間、結核で体が完全に蝕まれていた状態で、貴女は自分の最も純粋な魂を、貴女を探しに来て天国の栄光に連れて行ってくれた聖母に引き渡しました。私たちは、貴女が女王と無原罪の母に再び会い、神と顔と顔を合わせた時に感じた喜びを、聖母マリアと聖ヨセフと王冠から私たちに聖化と忍耐の恵みを与えて下さる様お願いします。アーメン。

出典元・Wikipedia、apostolesdelosultimostiempos(スペイン語・Google翻訳)





おはようございます。昨日は「聖ベルナデッタのチャプレット」専用ロザリオを製作しました。8連だから、長かった…


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