聖ピオ神父


個人的な見解・宗教


ピオは毎週の告解を強く支持し、それを「魂の沐浴」と表現した。ピオは、毎週の告解、毎日の聖餐、霊的読書、瞑想、そして頻繁な良心の吟味を含む、精神的成長の為の5つのルールを確立した。彼は、苦しみは神の愛の特別な印であると、精神的な信奉者たちに教えた。なぜなら、苦しみは、貴方を「砂漠とカルバリの丘での苦悩における神の神聖な息子に似せる」からである。ピオは虚栄心の強い女性に対して厳しい態度をとり、次の様に述べた。「服装で虚栄心を満たす女性は、決してイエス・キリストの命を身に纏う事はできない。更に、この偶像が心に入ると、彼らは魂の装飾品さえ失います。」ピオはまた、慎み深さに関して厳しい規則を守り、膝から最低20cmのスカートを履かない女性の告解を拒否しました。彼はサン・ジョヴァンニ・ロトンドの聖マリア・オブ・オール・グレース教会の入り口に、「教会は神の家です。男性が腕を露出したり、ショートパンツをはいて入る事は禁じられています」という注意書きを掲示しました。女性はズボンをはき、頭にベールを被らず、短い服、襟ぐりの低い服、袖なしの服、または慎みのない服を着て入場する事は禁じられています。」


ピオは第2バチカン公会議後の幾つかの変更、特に典礼の変更に満足していませんでしたが、教会への服従を強調しました。ある時、ピオは、公会議後に修道会を離れた元修道女で妹のスオール・ピアと会いました。スオール・ピアは伝統主義者で、リベラルな上司による変更に憤慨し、70歳で修道院を去りました。ピオは涙を流し、この決定について妹に怒鳴りつけ、妹に「彼らは間違っていて、貴女は正しいが、それでも貴女は従わなければならない」と言いました。 戻って来なければならない」と彼女は言ったが、彼女はそれを拒み、彼は抑えきれないほど泣き、彼女の為に祈り続けた。『人間の生命』の出版後、ピオは回勅に対する批判に取り乱した。彼はこれについて教皇パウロ6世に手紙を書き、避妊に関する教会の教えに従う事を明言し、困っているパウロ6世を安心させた。ピオは教皇に、パウロ6世が「年月を経ても変わる事のない永遠の真実」を擁護した為、教皇の為に日々の祈りと苦しみを捧げると伝えた。


ピオは年を重ねるにつれて、テレビに対する不信感を強めていった。第二次世界大戦後、ピオの甥のエトルネ・マゾーネが映画館を開く事についてピオに助言を求めた際、ピオは彼に、上映する映画には注意するよう警告した。ピオは「悪の伝播に加担したくない」と述べた。1960年代迄に、 ピオは、カプチン会修道士たちがテレビを見る事を許された事に不満だった。ピオにとって、テレビは家庭生活の破壊の原因であり、尋ねられても他人にテレビを買わない様に強く警告した。ある時、映画について尋ねられた時、ピオは「映画には悪魔が潜んでいる」と答えた。別の時、ピオは告解の悔悛者に、前日に車が故障したのは映画館に向かっていたからだと語った。ピオは人生の終わりに向けて、世界の状況について非常に悲観的になった。将来、世界に何が待ち受けているのかと尋ねられた時、ピオは「世界が燃えているのが見えないのか」と答えた。最後の3年間、彼は自分が価値のない人間であり、救済されるかどうか確信が持てず、人生から益々遠ざかる様になった。ピオは上司に「死ぬ為の服従を与えて下さい」と頻繁に頼んだ。


政治


ピオ神父は政治に特に関心があった訳ではなかったが、イタリアの選挙で投票し、様々な問題について意見を述べた。当初はベニート・ムッソリーニが統治中に良い仕事をしたと感じていたが、時が経つにつれてムッソリーニに対する感情は急速に否定的になった。ムッソリーニの使者の1人が訪ねてきた時、ピオ神父はその男に向かって「イタリアを破壊した後で、今、私の所に来たのか。ムッソリーニに、今やイタリアを救う物は何もないと言えばいい。何もない!」と叫んだ。ピオ神父はまた、フランクリン・D・ルーズベルト米国大統領を高く評価しており、彼を「偉大な人物」と評した。更に、ピオ神父は生涯を通じて共産主義の拡大に大きな懸念を示し、共産主義と戦う為に頻繁に祈った。1948年、アルチーデ・デ・ガスペリに宛てた手紙の中で、ピオ神父はキリスト教民主党への支持を表明した。ピオの関与は党の選挙勝利に貢献したとされ、イタリア共産党員はピオを嫌った。共産党のスポークスマンの1人は、ピオが投票所にいた事で「票が奪われた」と不満を漏らした。キリスト教民主党が選挙で政治的勝利を収めた後、ピオはアルド・モロ、アントニオ・セーニ、マリアーノ・ルモール、ジョヴァンニ・レオーネなどのイタリアの政治指導者から絶えず相談を受けた。ピオは生涯を通じて祈りを捧げるよう求める手紙を受け取っており、1923年3月のアルフォンソ13世からの手紙もその1つだった。ピオはまた、ジョージ5世など様々な著名な政治家の為にも祈った。1963年、ジョン・F・ケネディが暗殺された後、ピオは泣き崩れた。別の司祭からケネディの救済を祈るかと尋ねられた時、ピオは「その必要はありません。彼は既に天国にいるのです」と答えた。イタリアのファシズムの歴史を専門とするイタリアの歴史家セルジオ・ルッツァットは、2011年にピオ神父の伝記を執筆し、その中でピオ神父の周囲に「聖職者とファシストの混合」が生まれたと示唆している。ルッツァットによると、1920年8月の聖母被昇天祭で、ピオは共産主義者と戦う為に地元のファシストとの繋がりを築こうとしていた地元の退役軍人のグループの為に旗を祝福したという。また、ピオはその後フォッジャ出身のファシスト政治家ジュゼッペ・カラドンナと会い、彼と彼の民兵の告解師になったとも述べている。彼は、カラドンナがピオ神父を修道院から連れ出し、他の場所に移そうとする試みを防ぐ為に、神父の周りに「近衛兵」を配置したと示唆している。


死後の崇拝・列聖


1982年、ローマ教皇庁はマンフレドニア大司教にピオ神父を列聖すべきかどうかの調査を開始する権限を与えた。調査は7年間続いた。1990年、ピオ神父は列聖のプロセスの第1歩として神の下僕と宣言された。然し、調査の結果、彼の聖痕は超自然的な物ではないという主張について、教会は事実を公に認めなかった。更に、ピオ神父の聖痕は、列聖の成功を妨げる障害を回避する為に、列聖プロセスの必須の調査から除外された。1990年以降、列聖省はピオ神父の生涯について議論し、1997年にヨハネ・パウロ2世は彼を尊者と宣言した。続いて、彼の生涯が他の人々に与えた影響についての議論が行われた。ピオ神父の執り成しに関連して、イタリア人女性コンシリア・デ・マルティーノが治癒したという報告などの事例が研究された。1999年、ヨハネ・パウロ2世は聖職者会議の助言に基づき、ピオ神父を祝福し、9月23日を彼の典礼の祝日とした。彼の列福式は1999年5月2日にローマのサン・ピエトロ広場でヨハネ・パウロ2世によって執り行われ、30万人以上の信者が式典に出席した。ヨハネ・パウロ2世は説教の中で、ピオ神父の聖痕と神秘的な才能について言及した。


「聖痕が刻まれた彼の体は、過越の神秘を特徴づける死と復活の密接な繋がりを示していた。ピエトレルチーナのピオ福者は、特別な熱意をもって受難を分かち合った。彼に与えられた特別な賜物と、それに伴う内なる神秘的な苦しみによって、彼は常に主の苦しみに加わる事ができ、カルワリオは聖人の丘であるという彼の認識を決して揺るがす事はなかった。」


列福後、彼の執成しによる治癒の事例がもう1つ調査された。マッテオ・ピオ・コレッラという名のイタリア人の少年が昏睡状態から回復した。ピオ神父の徳と死後も善行を続けた能力を更に検討した後、ヨハネ・パウロ2世は2002年2月28日に列聖の​​布告を公布した。列聖のミサは2002年6月16日にローマのサン・ピエトロ広場でヨハネ・パウロ2世によって執り行われ、推定30万人が式典に出席した。


巡礼地


ピオ神父が人生の大半を過ごしたサン・ジョヴァンニ・ロトンドの町は、彼を偲んで捧げられた主要な巡礼地です。ピオ神父がミサを執り行ったカプチン派修道院の教会であるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会は、1968年に神父が死去した後、信者の巡礼地となりました。巡礼者の数が年々増加した為、カプチン派は教会の近くに新しい聖堂を建てる事に決めました。聖堂の建設は1991年に始まり、2004年に完成しました。2004年7月1日、ヨハネ・パウロ2世は、ピエトレルチーナの聖ピオ聖域(ピオ神父巡礼教会とも呼ばれる)を献堂しました。聖域の収容人数は約6,000人で、パルヴィの収容人数は30,000人です。ピオ神父の聖遺物は新しい聖域の地下室に安置され、巡礼者たちの崇拝の為に展示されています。ピオ神父が育ったピエトレルチーナの町は、信者たちの間で人気の高いもう1つの巡礼地です。ピエトレルチーナで巡礼者が訪れる事ができる場所には、ピオ神父が生まれた実家、病気の時に修道士として過ごした古い塔の部屋、洗礼を受けたサンタ・アンナ教会、司祭になる前に助祭に任命されたサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会、聖家族カプチン教会などがあります。毎年約200万人の巡礼者がピエトレルチーナに訪れると推定されています。イタリア国外でピオ神父を崇拝する聖域や場所には、フィリピンのバタンガス州サント・トーマスにあるピオ神父聖堂や、アメリカ合衆国ペンシルベニア州バルトのピオ神父国立センターなどがあります。


教皇による崇拝


教皇は、ピオ神父の生涯と聖職に纏わる場所を訪問するなど、様々な方法で一般の人々にピオ神父への信仰を奨励してきました。ピオ神父が生涯の大半を過ごし、彼の聖地があるサン・ジョヴァンニ・ロトンドには、ヨハネ・パウロ2世、ベネディクト16世、フランシスコが訪れました。ピオ神父の生誕地であるピエトレルチーナには、フランシスコが訪れました。ヨハネ・パウロ2世は、教皇になる前から、ピオ神父がまだ生きていた頃から、ピオ神父を大いに尊敬していました。1947年、ローマで勉強していた若い司祭だったカロル・ヴォイティワは、ピオ神父に直接会う為にサン・ジョヴァンニ・ロトンドへの巡礼をしました。彼は1974年に枢機卿としてサン・ジョバンニ・ロトンドに戻りました。1987年5月には、教皇ヨハネ・パウロ2世として再びサン・ジョバンニ・ロトンドを訪れ、ピオ神父生誕100周年を祝いました。2009年6月21日、教皇ベネディクト16世は司牧訪問としてサン・ジョバンニ・ロトンドを訪れました。彼はサンタマリアデッレグラツィエ教会を訪れ、地下室にあるピオ神父の遺物を崇敬し、ミサを執り行い、病人やソッリエヴォデッラソッフェレンツァ家の従業員など、様々な人々と会いました。フランシスコ教皇もピオ神父への一般の信仰を支持してきました。慈悲の特別聖年の間、フランシスコ教皇は、2016年2月8日から14日まで、サン・ピエトロ大聖堂でピオ神父の聖遺物を崇拝の為に公開するよう要請し、聖年の間に人々が懺悔の秘跡に頼るよう促す為に、ピオ神父を「聖なる聴罪司祭」として特別に称えた。2018年3月17日、フランシスコ教皇はピオ神父の死後50周年を祝う為、ピエトレルチーナとサン・ジョヴァンニ・ロトンドの両方を訪問した。


発掘


2008年3月3日、ピオの遺体は死後40年を経て、納骨堂から発掘され、遺体を展示できる様に準備されました。教会の声明では、遺体は「良好な状態」であると説明されました。サン・ジョバンニ・ロトンドの聖堂の教皇特使であるドメニコ・ウンベルト・ダンブロージオ大司教は、「頭蓋骨の上部は部分的に骨化していますが、顎は完全で、体の残りの部分はよく保存されています」と述べました。ダンブロージオ大司教はまた、声明で「聖痕は見えません」と認めました。彼は、ピオの手は「マニキュアを塗ったばかりの様に見えました」と述べました。葬儀屋が顔を復元して認識できる様にする事が期待されました。然し、劣化していた為、顔は本物そっくりのシリコンマスクで覆われました。このマスクは、ロンドンを拠点とするジェムズ・スタジオが、1968年に撮影されたピオ神父の遺体の写真から作成した物で、通常は蝋人形館や民族学博物館の為に制作している。


列聖省長官のホセ・サライバ・マルティンス枢機卿は、4月24日にサン ・ジョバンニ・ロトンドの聖マリア・オブ・グレース聖堂で 15,000人の信者のためにミサを執り行った後、遺体は修道院の地下室にある水晶、大理石、銀の墓所に展示された。ピオ神父は茶色のカプチン修道服を着用し、水晶と金糸で刺繍された白い絹のストールを巻いている。手には大きな木製の十字架を持っている。2008年12月迄に、主にイタリアからの80万人の巡礼者が遺体を見る為に予約したが、水晶の棺の前を通り抜ける事ができたのは1日7,200人だけだった。当局は展示を2009年9月まで延長した。ピオの遺骸はサン・ジョヴァンニ・ロトンドの隣の聖ピオ教会に安置された。2010年4月、遺骸は特別な金色の納骨堂に移された。


祈りのグループ


ピオ神父の祈りのグループは、1950年代に、教皇ピウス12世が毎月集まって一緒に祈るグループを結成するよう呼びかけた事から始まりました。ピオ神父はこの呼びかけに応え、信者たちにその様なグループを結成するよう奨励しました。グループはソリエヴォ・デッラ・ソッフェレンツァ家の建設に関わり、病院に因んで名付けられた隔週の会報が1949年から発行され、グループの発展に役立ちました。1951年に、祈りのグループの最初の規則が成文化されました。祈りのグループは、地元の司教の同意を得て司祭の指導の下、毎月集まり、教皇とピオ神父の奉仕の為に祈りました。新しい規則は1986年にバチカンによって正式に承認されました。ピオ神父の祈りのグループは、ソリエヴォ・デッラ・ソッフェレンツァ家の本部から調整されています。祈祷グループは、ピオ神父の生存中も死後も成長し続けました。1968年にピオ神父が亡くなった時には、約700のグループがあり、15か国に68,000人の会員がいました。2013年には、60か国に約3,300のグループが登録されており、そのうち約75%がイタリアに拠点を置き、25%は主にフランス、アイルランド、米国などのイタリア国外にありました。


世界的な信仰


ピオ神父は、世界で最も人気のある聖人の1人になりました。世界中に3,000を超える「ピオ神父の祈りのグループ」があり、300万人のメンバーがいます。世界で最初の聖ピオ神父教区は、2002年6月16日にカナダのオンタリオ州クラインバーグに設立されました。ニュージャージー州のヴァインランドとラバレット、オーストラリアのシドニーに教区があり、ニュージャージー州のブエナとフィリピンのバタンガス州サント・トマスにはピオ神父に捧げられた聖地があります。雑誌「ファミリア クリスティアーナ」が2006年に実施した調査によると、イタリアのカトリック教徒は他のどの人物よりもピオ神父に執成しを祈る人が多い事が分りました。2002年、ピオ神父の列聖から数か月後、イタリアで彼の生涯と献身をテーマとした新しいテレビ局「パドレ・ピオTV」が開局されました。サン・ジョヴァンニ・ロトンドを拠点とし、独自のウェブサイトや様々なインターネットプラットフォームで放送しています。聖ピオの遺骸は、2015~2016年の慈悲の特別聖年の間に崇拝の為バチカンに運ばれました。聖ピオと聖レオポルド・マンディックは、罪の告白によって人々が教会と神と和解するよう促す聖人告解師に指定されました。ピエトレルチーナの聖ピオは、160人のグループがイタリア司教会議にこの指定を請願した後、民間防衛ボランティアの守護聖人に指定されました。司教たちはその要請をバチカンに転送し、バチカンは指定を承認しました。 彼はまた、ロンドンのカトリック調査局が彼をその様に宣言した事から、「余り公式ではないが」ストレス解消と1月の憂鬱の守護聖人としても知られている。彼らは、1月22日に最も近い月曜日とされる、1年で最も憂鬱な日を、ピオ神父の有名なアドバイス「祈り、希望を持ち、心配するな」に敬意を表して「心配しないで幸せになろう」の日と定めた。ピオ神父の遺物の一部は、2022年に北アイルランド、2023年にスコットランドを巡回した。


図像学


ピオ神父の図像学は、列福や列聖以前から、イタリアや世界中で信仰の対象や彫像に広く再現されてきました。彼の肖像画はイタリアの多くの教会だけでなく、個人の家やお店、レストランなどの公共の場でも見る事ができます。宗教美術では、彼は通常、茶色のカプチン修道服を着て、聖痕を手袋で覆った姿で描かれています。ピオ神父の像はイタリアや、米国、フィリピン、マルタなどの他の国々に建てられています。ニュージャージー州ランディスビルの聖ピオ神父の聖堂には、イタリアで作られたピオ神父の像とイタリアから輸入されたピオ神父の像があります。シチリア島メッシーナのピオ神父の像は、2002年に血の涙を流したと言われて注目を集めました。イタリアの地中海カプライア島の海岸近くには、1998年に沈められた水深12.19メートルの海底に、ピオ神父の水中像があります。2021年、フィリピンのセブ市を見下ろす丘の上に、高さ100フィートのピオ神父の像があるピオ神父に捧げられた新しい聖域の建設が始まりました。同年、フィリピンのバタンガス州サント・トーマスにあるピオ神父の聖地にピオ神父の像が奉納されました。


出典元・Wikipedia(英語版・Google翻訳)

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