聖ピオ神父


ピオ・デ・ピエトレルチーナ(フランチェスコ・フォルジョーネ生まれ、1887年5月25日–1968年9月23日)は、ピオ神父(イタリア語で「ピウス神父」の意味)として広く知られており、イタリアのカプチン会の修道士、司祭、聖痕者、神秘主義者でした。彼はカトリック教会で聖人として崇拝されており、9月23日に祝われます。ピオは15歳でカプチン会に加わり、修道生活の殆どをサン ジョバンニ・ロトンドの修道院で過ごしました。 彼は1918年に聖痕の跡を付けられ、教皇庁による幾つかの調査に繋がりました。バチカンによる一時的な制裁にも拘らず、彼の評判は生涯に渡って高まり続け、サン・ジョヴァンニ・ロトンドには多くの信奉者が集まりました。彼はサン・ジョバンニ・ロトンド修道院の近くに建てられた病院、カーサ・ソリエヴォ デッラ・ソフェレンツァの創設者でした。彼の死後、彼の献身は世界中の信者の間で広がり続けました。 彼は1999年5月2日に列福され、2002年6月16日に教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖されました。彼の遺物は、現在主要な巡礼地となっているサン・ジョヴァンニ・ロトンド修道院の隣にある聖ピオ・デ・ピエトレルチーナの聖域に展示されています。


人生・若い頃


フランチェスコ・フォルジョーネは、1887年5月25日、南イタリアのカンパニア州ベネベント県の町ピエトレルチーナで、グラーツィオ・マリオ・フォルジョーネとマリア・ジュゼッパ・ディ・ヌンツィオの間に生まれました。彼の両親は小作農でした。彼は、城壁の上に建つ近くのサンタ・アナ礼拝堂で洗礼を受けました。彼は後にこの同じ礼拝堂で祭壇係の少年として奉仕しました。彼には兄のミケーレと、3人の妹、フェリチータ、ペレグリナ、グラツィア(後にブリジッティ修道女となる)がいました。彼の両親には他に2人の子供がいましたが、幼児期に亡くなりました。彼が洗礼を受けた時、フランチェスコという名前が与えられました。彼は5歳の時には既に自分の人生全てを神に捧げる決意をしていたと述べた。彼は10歳まで土地で働き、家族が所有していた小さな羊の群れの世話をしました。ピエトレルチーナは聖人の祝日が1年中祝われる町で、フォルジョーネ家は信仰心が篤かった。彼らは毎日ミサに出席し、毎晩ロザリオの祈りを捧げ、カルメル山の聖母に敬意を表して週に3日は肉を控えました。フランチェスコの両親と祖父母は読み書きができませんでしたが、子供たちに聖書の物語を語りました。アゴスティーノ・ダ・サン・マルコ神父(後にラミスのサン・マルコの精神的指導者となった)の日記によると、若きフランチェスコは多くの病気に悩まされていた。彼は6歳の時に重度の胃腸炎を患いました。10歳の時、彼は腸チフスに罹りました。フランチェスコは若い頃、天国の幻覚やエクスタシーを経験したと報告しました。1897年、公立学校での3年間を終えた後、フランチェスコは田舎で寄付を求めていた若いカプチン会の話を聞いて、修道士の人生に惹かれたと言われています。フランチェスコが両親に希望を伝えた時、両親は息子が騎士団に入る資格があるかどうかを確認する為に、ピエトレルチーナから21km北にあるコミュニティであるモルコーネを訪れました。そこの修道士たちは、フランチェスコを自分たちのコミュニティに受け入れる事に興味があるが、彼にはより良い教育が必要であると伝えました。フランチェスコの父親は、カプチン会に入会する為の学業要件を満たす為に、息子の家庭教師の費用を支払う為に仕事を求めて米国に行きました。フランチェスコが1899年9月27日に堅信の秘跡を受けたのはこの時期でした。彼は家庭教師を受け、規定の学業要件に合格しました。1903年1月6日、15歳で、彼はモルコンのカプチン会修道士の修練院に入りました。1月22日、彼はピエトレルチーナのサンタ・アンナ礼拝堂に聖遺物が保管されている教皇ピウス1世に敬意を表して、フランシスコ会の習慣とフラ(修道士)・ピオの名をとりました。彼は貧困、貞操、従順というシンプルな誓いを立てました。


神権


ピオは司祭職の為の7年間の勉強を開始し、ウンブリア州にあるアッシジの聖フランシスコの修道院を訪れました。17歳の時、彼は病気になり、食欲不振、不眠症、疲労感、失神、片頭痛を訴えました。彼は頻繁に嘔吐し、牛乳とチーズしか消化できませんでした。 宗教信者らは、この時期に不可解な現象が起こり始めたと指摘している。例えば、祈りの間、ピオは他の人にはまるで自分がいないかの様に意識を失っている様に見えました。ピオの仲間の修道士の1人は後に、ピオが恍惚として地面の上に浮かんでいるのを見たと主張した。1905年6月、ピオの健康状態が悪化した為、上司は空気の変化が彼に良い影響を与える事を期待して、ピオを山岳修道院に送る事に決めました。然し、これによる影響は殆どなく、医師は彼に帰宅するよう勧めました。そこでさえ彼の健康状態は改善しなかった。それにも拘らず、彼は1907年1月27日に依然として厳粛な職業を果たしました。1910年8月、ピオはベネベント大聖堂でパオロ・シノージ大司教によって司祭に叙階されました。4日後、彼は天使の聖母教区教会で最初のミサを捧げた。彼の健康状態は不安定だった為、カプチン会の習慣を残したまま、故郷のピエトレルチーナに家族と一緒に滞在する事を許可された。彼は健康上の理由と、父親と兄が一時的に米国に移住した際に家族の世話をする必要があった為、1916年までピエトレルチーナに滞在した。この数年間、ピオ神父は、ラミスのサンマルコ修道院のカプチン会修道院の2人の修道士である、霊的指導者であるベネデット神父とアゴスティーノ神父に頻繁に神秘的な手紙を書きました。


サン・ジョバンニ・ロトンド到着


1916年9月4日、ピオは地域生活に戻るよう命じられた。彼は、フォッジャ県サン・ジョバンニ・ロトンドのガルガーノ山脈にある農業コミュニティ、恵みの聖母カプチン修道院に移りました。当時、この共同体には​​7人の修道士がいた。彼は兵役期間を除き、1968年に亡くなるまでサン・ジョバンニ・ロトンドに留まりました。司祭職においては、ピオ神父はカトリックへの改宗を数多く成功させた事で知られていた。ピオはロザリオの瞑想に専念していました。彼は毎週の告白を毎週部屋の掃除に例え、1日2回瞑想と自己検査を行う事を推奨した。1回は朝、その日を迎える準備として、もう1回は振り返りとして。 神学の実際的な応用に関する彼のアドバイスは、今や有名になった彼の名言「祈り、希望し、心配しないで下さい」にしばしば要約されています。彼はキリスト教徒に対し、あらゆる者の中に神を認識し、何よりも次の事を望むよう指示しました。神の御心を行います。彼の事を聞いた多くの人が、彼に会い、告白したり、助けを求めたり、好奇心を満たす為にサン・ジョバンニ・ロトンドを訪れました。ピオの母親は1928年に修道院周辺の村で亡くなりました。その後、1938年にピオは年老いた父親グラツィオと同居させました。ピオの弟のミケーレも引っ越してきた。ピオの父親は1946年に亡くなるまで、修道院の外にある小さな家に住んでいた。


第一次世界大戦とその余波


第一次世界大戦が始まると、このコミュニティから4人の修道士がイタリア軍の兵役に選ばれました。当時、ピオは神学校の教師であり、霊的指導者でもありました。更に1人の修道士が奉仕に召された時、ピオは共同体を担当する事になった。1915年11月15日に彼は徴兵され、12月6日にナポリの第10医療軍団に配属されました。健康状態が悪い為、彼は退院と召還を繰り返し、1918年3月16日に軍務不適格と宣告され完全に退院した。1918年9月、ピオの手足には、キリストの傷に因んで聖痕として知られる消えない傷が残り始めた。その後数か月の内に、サン・ジョバンニ・ロトンド地域で彼の聖人としての評判は急速に高まり、修道院には毎日何百人もの信者が彼に会いに来ました。戦後、生活を再建し始めた人々は、ピオに希望の象徴を見出し始めた。彼に近い人々は、彼が治癒、バイロケーション、空中浮遊、予言、奇跡、睡眠と栄養の両方からの異常な禁欲など、幾つかの霊的賜物を発現し始めたと証言している(ある報告によると、ピオ神父は、ピオがその能力を発揮した一例をアゴスティーノ神父が記録しているという)。他の栄養を摂らずに聖体のみでベラフェノで少なくとも20日間生きられる事、心を読む能力、舌の賜物、回心という賜物、心地よい香りのする傷。ピオは益々幅広い人々の間でよく知られる様になりました。彼は霊的指導者となり、霊的成長の為の5つの規則、即ち毎週の告白、毎日の聖体拝領、霊的読書、瞑想、良心の検査を開発しました。


ラ カーサ ソリェヴォ デッラ ソフェレンツァ病院


1925年迄に、ピオは古い修道院の建物を、主に極度の支援を必要とする人々を対象とした幾つかのベッドを備えた診療所に改装しました。1940 年に、より大きな診療所を設立する為の委員会が設立され、寄付が行われ始めました。 建設は1947年に始まりました。ルザット氏によると、病院への融資資金の大部分は、ドイツ占領下のフランスの闇市場で富を築いていたピオ氏の熱烈な信奉者であるエマヌエーレ・ブルナット氏から直接支払われたという。国連救済リハビリテーション局(UNRRA)も2億5,000万イタリアリラを寄付しました。クリスティアナ民主主義党首のロドヴィコ・モンティーニとその弟のジョヴァンニ・バティスタ・モンティーニ(後の教皇パウロ六世)は、UNRRAによる関与を促進した。この病院は当初「フィオレロ・ラガーディア」と名付けられる予定だったが、最終的にはピオ自身の作品として発表された。Casa Sollievo della Sofferenza(「苦しみの救済の為の家」)は1956年にオープンしました。ピオは教皇庁に直接管理を委譲しました。然し、ピオがプロジェクトを直接監督できる様にする為に、教皇ピウス12世は1957年に彼に貧困の誓いを免除する事を認めた。ピオを批判する者の中にはその後、資金の流用があったと示唆する者もいる。



ピオは1968年9月23日に81歳で亡くなりました。1960年代に彼の健康状態は悪化しましたが、彼は精神的な活動を続けました。1968年9月22日、ピオ神父は聖痕受領50周年を祝うミサを執り行い、このイベントを祝う為に大勢の巡礼者やテレビクルーが出席した。ミサには多数の巡礼者が出席した為、修道院の長は厳粛なミサを行う事を決定しました。ピオは職務を遂行しましたが、非常に弱く虚弱そうに見えました。彼の声は弱く、ミサが終わった後、祭壇の階段を下りている時に倒れそうになった。 彼はカプチン会の兄弟たちの助けを必要としていました。これが彼の最後のミサ祝賀でした。1968年9月23日の早朝、ピオは最後の告白をし、フランシスコ会の誓いを新たにした。いつもの様に、彼は手にロザリオを持っていましたが、大声でマリア万歳を祈る力はなく、代わりに「ゲス、マリア」(「イエス、マリア」)という言葉を繰り返していました。午前2時30分頃、サン・ジョバンニ・ロトンドの独房で亡くなった。亡くなる数日前には聖痕は消えていた。ピオ神父の遺体を検査した所、臨終に立ち会った医師は、聖痕の傷が跡形も傷跡もなく完全に治癒している事を観察した。彼の遺体は巡礼者が敬意を表できる様に修道院の教会の棺に安置された。葬儀は9月26日に執り行われ、推定10万人が参列した。サン・ジョバンニ・ロトンドでの葬列と葬儀ミサの後、遺体は恵みの聖母教会の地下室に埋葬された。

超常現象


ピオには、魂を読む能力、二位置に移動する能力、お願いされる前から好意や癒しを与える能力などの神秘的な才能があったと言われています。彼の報告されている超自然的な体験には、天空のビジョン、天使とのコミュニケーション、肉体的な物も含まれています。サタンや悪魔と戦います。ピオを取り巻く超自然現象の報告は、例えバチカンが懐疑的に見えたとしても、名声と驚きを集めました。これらの現象の1部はピオ自身が精神的指導者に宛てた手紙で報告した物であり、他の現象はピオの信奉者によって報告された物である。


聖痕


ピオは手紙の中で、司祭職に就いた初期に、(まだ目に見えない)聖痕を示す身体の跡、痛み、出血を経験したと書いています。1912年3月21日付の彼の精神的友であり聴罪司祭であるアゴスティーノ・ジェメッリ神父に宛てた手紙の中で、ピオは神秘的なキリストの体への献身と、自分は聖痕を負うであろうという直観について書いている。ルザットは、ピオがこの手紙の中で、汚名を着せられた神秘主義者ジェンマ・ガルガーニの著書の認識されていない一節を使用していると主張している。


1915年の手紙の中で、アゴスティーノはピオに具体的な質問をした。その中には、初めて幻覚を体験したのはいつだったのか、偏見を持っていたのか、キリストの受難の痛み、即ち茨の冠と鞭打ちを感じたかどうかが含まれていた。ピオは、修練院時代(1903年〜1904年)から幻視を見ており、自分には聖痕があると答え、その現象に非常に恐怖を感じたので聖痕を撤回してくれる様に神に懇願したと付け加えた。彼はまた、それが言葉では言い表せない、殆ど耐え難い屈辱であると考えた為、痛みを取り除くのではなく、目に見える傷だけを取り除く事を望んでいたと書いています。1918年9月20日、自白を聞いている間、ピオは聖痕の物理的発生の再現を経験したと言われている。彼の偏見は生涯の終わり迄50年間続いたと伝えられている。聖痕から流れる血は香水か花の香りがしたと言われている。ピオはアゴスティーノに、痛みは残っており、特定の日、特定の状況下で更に激しさを増したと伝えた。彼は秘密で苦しみたかったと語っていたが、1919年の初め迄に、彼が汚名を着せられたというニュースが広まり始めた。ピオは、跡が恥ずかしいと言って、赤い手袋や黒いカバーを手足に着用する事が多かった。アゴスティーノ・ジェメッリは、その傷は兵士が「腐食性物質の使用によって」自らに負わせた傷と一致すると主張した。一方、アミコ・ビナミは、ピオの傷はヨウ素チンキまたは同様の化学物質の使用によって治癒が妨げられた皮膚壊死である可能性があると考えました。傷は公表されると、多数の医師によって研究され、中には独立した調査の一環としてバチカンに雇われた医師もいた。傷は説明がつかず、決して感染した訳ではないと主張する人もいた。治った様に見えても、定期的に再発する事がありました。アルベルト・カセルタは1954年にピオの手のX線写真を撮影し、骨構造に異常は見つからなかった。一部の批評家は、ピオが石炭酸を使用して傷を作るなどして聖痕を偽造したと非難した。マリア・デ・ヴィート(フォッジャの地元薬剤師ヴァレンティーニ・ビスタの従弟)は、若いピオが「処方箋を一切提示せずに」「極秘に」石炭酸と大量のベラトリン4グラムを購入したと証言した。薬剤師ビスタが証人の前で述べた様に、ベラトリンは「アルカロイドの混合物」であり、「高度に腐食性の製品」である。「ベラトリンは非常に有毒である為、処方するかどうかを決定できるのは医師だけである」。ベラトリンは曾て、主にシラミに対する筋肉を麻痺させる殺虫剤として使用されていましたが、薬剤師によっては、痛みに鈍感になる「外部刺激剤」とも表現されていました。ピオは、石炭酸は治療に使用される注射器の滅菌に使用され、ベラトリンを嗅ぎタバコに混ぜて摂取後に制御不能なくしゃみを引き起こすという悪ふざけを受けた後、自分で必要な量のこの物質を入手する事に決めたと主張した。仲間たちに同じ冗談を言う事、ヴォルテッラ司教ラファエロ・ロッシはこの見解を共有する様になり、「悪意の代わりに、ここで明らかになっているのはピオ神父の単純さと遊び心である。」そして「問題となっている聖痕は悪魔の仕業ではなく、 酷い欺瞞、詐欺、邪悪で悪意のある人物のトリックでもありません 。彼の「聖痕」は、外部からの暗示の病的な産物とは私には思えません。」ロッシはこれらの汚名を「現実の事実」とみなした。


横揺れ


聖痕を受けたと伝えられる数週間前の1918年8月、ピオは霊的にも肉体的にも刺し貫かれ火傷を負った様に感じた神秘的な体験を語った。ピオによると、この神秘的な体験は8月5日に始まり、8月7日に終わったという。彼の精神的指導者であるベネデット神父は、この現象を超越現象として解釈しました。ピオは後に、この経験により左側に肉体的な傷が残ったと主張した。ピオの傷を調べた目撃者の殆どは、ピオの左側に長さ約3インチの十字型の傷があったと報告した。


バイロケーション


ピオは信者たちからバイロケーション、つまり同時に2つの場所に存在できる能力があると信じられていました。ラファエレ・ロッシ司教がバチカンの調査の一環としてバイロケーションについて尋ねた時、ピオは次の様に答えた。「私は、あの人やあの人の前にいるのか、あの場所にいるのか、それとも私の心がそこに移されたのか、それとも私が見た物はその場所やその人の何らかの表現だったのか分りません。私が体を持ってそこにいたのか、体なしでそこにいたのかが分ります。」


ヒーリング


1999年の書籍『Padre Pio:The Wonder Worker』では、アイルランドの司祭マラシー・ジェラルド・キャロルによる一節で、ピオを訪れた際に失明が治ったと信じられていたシチリアの少女、ジェンマ・デ・ジョルジの物語が説明されています。 1947年に祖母に連れられてサン・ジョバンニ・ロトンドに連れてこられたジェマさんには生徒がいませんでした。ピオに会いに行く途中、少女は蒸気船や海などの物体を見る様になりました。ジェマさんの祖母は、子供が治ったとは信じていませんでした。ジェマが告白の際にピオに猶予を求めるのを忘れた為、祖母は神父に視力を回復してくれる様に神にお願いする様に懇願しました。ピオは彼女に、「子供は泣いてはいけないし、貴女も子供が見ていて、彼女が見えている事を知っているので、貴女も泣いてはいけません。」と言いました。


ピオの調査を担当するヴォルテッラ司教ラファエレ・ロッシによれば、「治癒とされる物の内、多くは未確認、または存在しない。然し、ピオ神父の書簡には、奇跡が彼の執成しによる物であるとする信頼できる宣言が幾つかある。医学的な確認がなければ結論に達するのは難しく、問題は未解決のままだ」と述べた。

預言


1947年、27歳のカロル・ユゼフ・ヴォイティワ神父(後の教皇ヨハネ・パウロ二世)がピオを訪ね、彼の告白を聞いた。オーストリアのアルフォンス・スティクラー枢機卿は、ヴォイティワがこの会談中、ピオがいつか「更なる確認が必要だが、教会の最高位のポスト」に昇進するだろうと語った、と打ち明けたと報告した。スティクラー氏は、ヴォイティワ氏は枢機卿になった時に予言が成就したと信じていたと述べた。ジョン・ポールの秘書スタニスワフ・ジヴィシュはこの予言を否定しているが、同じ訪問の記述を含むジョージ・ヴァイゲルの伝記「希望への証人」にはその予言について言及していない。


その他


ロッシはピオに「スミレの香りに似た、非常に強烈で心地よい香り」があると記し、その香りの起源を特定できなかったと結論付けています。ピオは、知性の目を通して見た知的なビジョン、彼に対する悪魔的な攻撃や嫌がらせの話、人間の形や獣の形をした悪意のあるビジョンを見たと答え、ピオはロッシに「ごく稀に、少なくとも一般的には多少は知っていた人々の過ちや罪、美徳を自分の中にはっきりと感じた事がありました」と認めました。


バチカンによる調査


バチカンは当初、1920年代にピオの知名度を下げる為に厳しい制裁を課しました。ピオは公の場でミサを執り行う事、人々を祝福する事、手紙に返事をする事、聖痕を公に見せる事、霊的指導者であるパドレ・ベネデットと連絡を取る事を禁じられました。教会当局はピオを北イタリアの別の修道院に移す事を決定した。地元の人々は暴動を起こすと脅した為、バチカンは彼をその場所に残した。2度目の移送計画も変更された。それにも拘らず、1921年から1922年にかけて、彼は告解を聞いたりミサを執り行うなど、司祭としての義務を公に行う事を禁じられた。1924年から1931年にかけて、ローマ教皇庁はピオの生涯に起こった出来事は神による物ではないと否定する声明を発表した。

ルイジ・ロマネッリ、1919年の診察


聖痕が本物であるかどうかを確認する為に、多数の医師がピオを訪ねました。最初に彼の傷を調べたのが、地方長の命令により、1919年5月15日と16日にバルレッタ市立病院の主任医師であったルイジ・ロマネッリでした。彼は報告書の中で、特に次の様に書いています。「彼の手の傷は赤褐色の膜で覆われており、出血や腫れ、周囲の組織の炎症は見られません。傷が単なる表面的な物ではない事は間違いありません。親指を手の平に、人差し指を手の甲に押し当てると、その間に真空がある事がはっきりと分ります。」


アミコ・ビニャーミ、1919年の診察


2か月後の7月26日、病理学者アミコ・ビニャーミがサン・ジョヴァンニ・ロトンドに到着しました。ビニャーミは1919年にピオの傷の医学的検査を行い、傷は皮膚の壊死であり、ヨウ素チンキなどの化学物質によって治癒が妨げられたという仮説を含む幾つかの仮説を立てました。


ジョルジョ・フェスタ、1919年と1920年の診察


フェスタは1919年と1920年にピオを診察した医師です。彼は明らかに聖痕の香りに感銘を受けていました。フェスタはビニャーミと同じく、脇腹の傷を十字形と表現していました。1925年の聖務日課への報告書で、フェスタは慈悲深い判決を下し、神学的な議論を主役に据えて、ピオの聖痕に対するジェメッリの批判的な見解を攻撃しました。



アゴスティーノ・ジェメッリ、1920年の精神鑑定と1925年の医学的検査


1920年、医師で心理学者のアゴスティーノ・ジェメッリ神父は、ラファエル・メリー・デル・ヴァル枢機卿からピオ神父を訪問し、傷の臨床検査を行うよう依頼されました。「この為、ジェメッリ神父は、教会の権威者から依頼される事なく、自らの意志でガルガーノ半島に行ったにも拘らず、聖務省への私信をピオ神父に関する一種の非公式な報告書にする事を躊躇いませんでした。」ジェメッリ神父は、この件について自分の考えを全面的に表明し、神父と面会したいと考えていました。ピオ神父は、この新しい調査官に対して閉鎖的な態度を示し、聖務省の書面による許可を求めて訪問を拒否しました。ジェメッリ神父は、神父に聖痕の医学的検査を受けさせる権利があると信じていると抗議しましたが、無駄に終わりました。修道士は上司の支持を得て、アゴスティーノ・ジェメッリ神父の資格を考慮せずに、聖職者階級を通して申請された許可証を検査の条件とした。その為ジェメッリは、聖痕の検査を許されなかった事に苛立ち、憤慨して修道院を去った。彼はフランチェスコ・フォルジョーネは「知識の領域が限られ、精神力が低く、考えが単調で、意志が殆どない人物」という結論に達した。ジェメッリはピオを批判的に判断した。「この事件は、ベネデット神父がピオ神父の弱い心に無意識に植え付けた暗示であり、ヒステリー精神に固有のオウム病の特徴的な兆候を生み出している」ジェメッリは聖務省を代表して1925年にピオを再検査し、1926年4月に報告書を書いた。この時、ピオは傷を見る事を許可した。ジェメッリは、ピオが傷に塗った腐食性物質の使用が原因であると考えた。イエズス会フェスタは以前、ジェメッリの聖痕全般に関するコメントに疑問を呈しようとした。ジェメッリは報告書でこの批判に応え、自傷行為に関する自身の知識に答える事にした。その為、彼はピオの傷の性質に関する自身の発言を明確にした。「法医学の経験、とりわけ戦争中に自傷行為を行った兵士が患った様々な傷や傷を経験した人なら、これらが腐食性物質の使用によって生じた浸食傷である事に疑いの余地はない。傷の基部とその形状は、化学的手段で傷を負った兵士に見られる傷とあらゆる点で類似している。」ジェメッリは再び、ピオの知的能力は限られていると判断した。「彼[ピオ]は、元管区長ベネデット神父が悪魔と淫魔のカップルを創り出すのに理想的なパートナーである。彼は良い司祭である。穏やかで、静かで、柔和で、徳の為というよりは、精神的な欠陥による物である。幾つかの典型的な宗教的フレーズを繰り返す事ができる貧しい魂、彼の師であるベネデット神父から教訓を学んだ貧しい病人である。」ジェメッリは1940年に、そしてその後も何度か、ピオの神聖さに対する不当な主張であると彼が考える物について聖務省に手紙を書いた。


ラファエレ・ロッシ、1921年の最初の使徒的訪問


1921年6月11日、聖務省から正式にピオに関する教会法上の調査を委任されたのは、カルメル会修道士のラファエレ・ロッシ、ヴォルテッラ司教です。ロッシは6月14日にサン・ジョヴァンニ・ロトンドで、証人、2人の教区司祭、7人の修道士の尋問から使徒的訪問を開始しました。8日間の調査の後、彼は遂に慈悲深い報告書を完成させ、1921年10月4日、アッシジの聖フランチェスコの祝日に聖務省に提出しました。詳細で詳細な報告書には、基本的に次の事が記されていました。ロッシが好印象を持っていたピオは、優れた修道士であり、サン・ジョヴァンニ・ロトンドの修道院は優れた共同体でした。聖痕は説明できませんでしたが、悪魔の仕業でも、酷い欺瞞や詐欺行為でもなかった事は確かです。 また、それは悪意のある悪意ある人物の策略でもなかった。ロッシは合計3回、目撃者との面談を行ったが、その間、当時34歳だったピオの聖痕を見せられた。ロッシはこれらの聖痕を「本当の事実」とみなしていた。


紙に直接書かれたメモと最終報告書の中で、ロッシは傷の形と外観について述べている。手の傷は「非常に目立った」。足の傷は「消えつつあった。観察できたのは、より白く柔らかい皮膚を持つ2つの点状の隆起[文字通り「ボタン」]に似ていた。」胸については、「彼の脇腹には、赤ワイン色の三角形の斑点と、その他の小さな斑点が見られ、1919年にビニャミ博士とフェスタ博士が見た様な逆十字の様な物ではなくなった」と書かれている。 ロッシはまた、聖務省に、ベネデット神父を集めていたピオに相談するか、少なくとも彼が収集した資料を入手して、いつかピオの生涯について書ける様にと、年代記を記すよう要請した。


ロッシによると、「伝えられる治癒の多くは、確認されていないか、存在しない。然し、ピオ神父の書簡には、奇跡が彼の執成しによる物だとする信憑性のある宣言が幾つかある。然し、医学的な確認がなければ結論を出すのは難しく、問題は未解決のままだ」。ルチア・チェチによると、ロッシは、伝えられた奇跡を1つも見つけられなかった。ロッシが二重存在について尋ねると、ピオはこう答えた。「この現象がどういう物か、性質は分りません。勿論、余り深く考えた事はありませんが、この人やあの人の傍にいたり、この場所やあの場所にいたりした事はあります。私の心がそこに運ばれたのか、私が見た物がその場所や人の何らかの表現だったのかは分りません。私がそこにいたのは、体があったのか、それとも体がなかったのかは分りません。」


ヨハネ23世、調査とテープ録音、1958年以降


ヨハネ23世教皇はピオ神父に懐疑的でした。教皇在位当初、ピオ神父の反対者が彼の修道院の独房と告解室に盗聴器を設置し、告解をテープに録音していた事を知りました。半公式の日記とは別に、ヨハネ23世は4 枚の紙に「PP」(ピオ神父)の為に祈ったと記しており、テープによって、彼の周囲を取り囲む近衛兵たちから、女性たちとの親密で淫らな関係が発見された事は、それが真実であれば、魂の恐ろしい災難を示唆していました。ヨハネ23世は恐らくテープを自分で聞いた事はなかったが、この見解が正しいと仮定した。「私が精神的に平穏でいられるのは、かけがえのない特権であり恩恵であるが、40年間に何十万もの魂を蝕み、前代未聞のほどに愚かで狂わせたこの汚染から個人的に清浄であると感じているからだ。」ルザットによると、この盗聴はバチカンが命じた物ではない。別の日記に、ヨハネ23世は行動を起こしたいと記していた。実際、彼は別の使徒訪問を命じた。


カルロ・マッカーリ、1960年の第2回使徒的訪問


カルロ・マッカーリ神父はローマ教区の事務総長で、ピオと合計9回会っています。ピオとマッカーリ神父の間には相互不信があり、マッカーリ神父は日記に「寡黙、心の狭さ、嘘- これらは彼が私の質問を回避する為に使う武器です。全体的な印象、哀れな者です。」と書いています。マッカーリ神父は、告解の後に信徒姉妹の為にキスの練習をする事をピオ神父に要求しました。マッカーリ神父は報告書の中で、ピオ神父は宗教教育が不十分であると指摘しました。彼はその年齢の男性にしてはよく働いています。彼は禁欲主義者ではなく、外の世界との繋がりが多数あります。一般的に、「神聖な」事と「余りにも人間的な」事が余りにも混ざり合っています。マッカーリ神父は報告書の中で、当時ピオの愛人であった事を明らかにした女性たちの名前を挙げましたが、これらの発言の真実性については評価しませんでした。マッカーリはピオの社会環境の狂信性を評価する事に焦点を当て、それを「迷信と魔術の間を揺れ動く宗教的概念」と表現した。マッカーリはピオの支持者を「巨大で危険な組織」と呼んだ。ピオは自身の支持者に節度を保つよう助言した事はなかった。マッカーリは神がなぜ「これほど多くの欺瞞」を許すのか疑問に思った。


マッカーリは批判的な報告書を、ピオ神父への更なる対応に関する勧告のリストで締め括った。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエの修道士たちは徐々に移転させ、新しい修道院長は地域外から来るべきである。誰も月に1回以上ピオに告解する事は許されるべきではない。病院には、医療と精神的な「癒し」のカプチン修道士の責任を切り離す為の新しい規則が与えられる事になっていた。マッカーリの使徒訪問の後、ヨハネ23世は日記に、ピオ神父を「藁の偶像」と見なしていると記した。

更生


1933年、ピウス11世は「私はピオ神父に対して悪い感情を抱いていた訳ではないが、誤った情報を得ていた」と主張し、ピオ神父の公の場でのミサの禁止を撤回する様命じた。1934年、修道士は再び告解を聞く事を許可された。また、説教免許の試験を受けた事がないにも拘らず、名誉ある説教許可も与えられた。1939年に教皇に就任したピウス12世は、信者にピオ神父を訪問するよう奨励した。最終的に、1960年代半ばに、パウロ6世(1963年から1978年まで教皇)は、ピオ神父に対する全ての告発を却下した。



出典元・Wikipedia(英語版・Google翻訳)


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