聖ファン・ディエゴ

ファン・ディエゴ・クアウトラトアツィン(1474年-1548年)は、チチメカの農民で聖母マリアの幻視者であった。1531年12月、グアダルーペの聖母の出現を4回受けたと言われている。3回はテペヤックの丘で、4回目は当時のメキシコ司教ドン・ファン・デ・スマラガの前で受けた。テペヤックの麓にあるグアダルーペの聖母大聖堂には、伝統的にファン・ディエゴの物と言われているマント(ティルマトリ)が収蔵されており、出現の信憑性を証明する為に、聖母マリアの像が奇跡的に刻印されたと言われている。ファン・ディエゴの幻視と奇跡的な像の授け方は、植民地時代の口承や文書による資料、例えばHuei tlamahuiçolticaに語られており、グアダルーペの出来事として知られ、グアダルーペの聖母への崇拝の基盤となっています。この崇拝はメキシコ全土に広まっており、スペイン語圏のアメリカ大陸全体に広まっており、更にその範囲を超えて広がっています。その結果、グアダルーペの聖母大聖堂は現在、世界有数のキリスト教巡礼地の1つとなっており、2010年には2,200万人の訪問者が訪れています。ファン・ディエゴは、アメリカ大陸に土着した最初のカトリックの聖人です。彼は1990年に列福され、2002年にヨハネ・パウロ2世によって列福されたが、教皇は両方の機会にメキシコシティを訪れ、式典を主宰した。

伝記
主要な資料によると、ファン・ディエゴは1474年にクアウティトランで生れ、出現当時はそこかトルペトラックに住んでいた。貧困ではなかったが、裕福でも影響力もなかった。彼の宗教的熱意、素朴さ、聖母マリアと当初は懐疑的だったファン・デ・スマラガ司教に対する敬意と優しさに満ちた態度、そして病気の叔父とその後の聖母の聖堂への献身など、これらは全て伝統の中心であり、彼の特徴の1つであり、列聖に不可欠な基準である生命の神聖さを証明している。彼と妻のマリア・ルシアは、1524年にメキシコに12人のフランシスコ会宣教師の主なグループが到着した後、最初に洗礼を受けた人々の1人でした。彼の妻は出現の2年前に亡くなりましたが、ある情報源(ルイス・ベセラ・タンコ、恐らくはうっかり)は、彼女は出現の2年後に亡くなったと主張しています。彼らの結婚関係については確固たる伝承はありません。様々な説があります。
(a)洗礼後、彼と妻は貞潔に関する説教に感化されて独身を貫いた
(b)結婚生活を通して独身を貫いた
更に(c)2人とも処女のまま生涯を終えた、などです。
(a)と(b)の説は、ファン・ディエゴ(恐らくは別の妻との間に)に息子がいたとする他の説と必ずしも矛盾する物ではありません。この物語にはファン・ディエゴの叔父であるファン・ベルナルディーノが登場します。然し、彼とマリア・ルシア、そしてファン・ディエゴの推定上の息子以外には、伝承には家族の事は何も記されていない。少なくとも2人の18世紀の修道女が、ファン・ディエゴの子孫であると主張した。出現の後、ファン・ディエゴはテペヤックの丘の麓に建てられた庵の隣に住む事を許され、残りの人生を聖母マリアの願いに従って建てられた聖堂で聖母マリアに仕える事に捧げた。死亡日(74歳)は1548年とされている。

主な情報源
テペヤックで先住民の男性に聖母マリアが出現したという最も古い記録は、様々な年代記に見つかっており、この分野のメキシコの代表的な学者の1人であるミゲル・レオン・ポルティラ博士は、これらの記録は「1556年よりずっと前から多くの人々がテペヤックの礼拝堂に集まっていた事、ファン・ディエゴとトナンツィン (グアダルーペ) の出現の伝承が既に広まっていた事」を示していると考えています。他の人々 (米国のナワトル語とグアダルーペの代表的な学者を含む) は、その様な記録は「少なく、短く曖昧で、それ自体何年も後の物である」としか言いません。正確に16世紀の物とされるならば、コーデックス・エスカラーダは、幻影の1つを描写し、ファン・ディエゴ(先住民の名前で特定)が1548年に「立派に」亡くなったと述べている事から、その様な記述の中で最も古く、最も明確な物の1つとみなされるに違いありません。

グアダルーペの物語
以下の記述は、1649年にナワトル語で最初に出版された「ニカン・モポワ」の内容に基づいています。この「ニカン・モポワ」は、Huei tlamahuiçolticaとして知られる包括的な作品の1部として出版されました。1895年にグアダルーペの聖母像の戴冠式を祝う式典の一環として、18世紀の「ニカン・モポワ」の翻訳が出版される迄、その作品のスペイン語版は入手できませんでした。但し、この翻訳は、元の不完全なコピーから作成されました。また、1929年にプリモ・フェリシアーノ・ベラスケスによってオリジナルの複製がスペイン語への完全な翻訳(ニカン・モポワの最初の完全な翻訳を含む)と共に出版されるまで、Huei tlamahuiçolticaのいかなる部分も再出版されませんでした。それ以来、ニカン・モポワは、様々な翻訳と改訂版で、優先される物語として他の全てのバージョンに取って代わりました。1531年12月の正確な日付(以下に示す)はニカン・モポワには記録されていませんが、1660年にマテオ・デ・ラ・クルスによって最初に確立された年表から取られています。熱心な新参者であるファン・ディエゴは、宗教教育と宗教的義務を果たす為に、自宅からトラテロルコのフランシスコ会宣教所まで定期的に歩く習慣がありました。彼のルートはテペヤックの丘を通っていました。

最初の出現
1531年12月9日土曜日の夜明け、いつもの旅の途中で、彼は聖母マリアに遭遇しました。聖母マリアは永遠の処女である神の母であると明かし、司教に彼女に敬意を表して礼拝堂を建てるよう要請する様に指示しました。そうすれば、困っている時に彼女を頼る全ての人々の苦悩を和らげる事ができるでしょう。彼はその要請を伝えましたが、司教 (ファン・スマラガ修道士) から、ファン・ディエゴが彼に言った事をじっくり考えた後で、別の日に戻ってくる様に言われました。

2回目の出現
同じ日遅く、テペヤックに戻ったファン・ディエゴは再び聖母マリアに遭遇し、彼の任務が失敗した事を告げ、彼が「後部座席、尾、翼、取るに足りない男」である為、もっと身分の低い人物を雇った方がよいと示唆しましたが、彼女は彼がこの任務に相応しい人物だと主張しました。ファン・ディエゴは司教の所に戻って同じ要請を繰り返す事に同意しました。12月10日日曜日の朝、司教が従順である事が分ったので、彼はそうしました。然し、司教は、その幻影が本当に天国からの物である事を証明する印を求めました。

3回目の出現
ファン・ディエゴはすぐにテペヤックに戻り、聖母マリアに遭遇して司教の印の要請を報告しました。聖母マリアは翌日 (12月11日) に印を与えてくれました。然し、12月11日月曜日までに、ファン・ディエゴの叔父ファン・ベルナルディーノが病気になり、ファン・ディエゴは彼の世話をしなければならなくなりました。12月12日火曜日の早朝、ファン・ベルナルディーノの容態が一晩で悪化した為、ファン・ディエゴはトラテロルコに向かい、司祭を呼んでファン・ベルナルディーノの告解を聞き、彼の死の床で牧師を務めて貰いました。

4回目の出現
聖母に遅れない様に、また約束通り月曜日に会えなかった事で恥ずかしい思いをしない様に、ファン・ディエゴは丘を迂回する別のルートを選びましたが、聖母が彼を邪魔してどこへ行くのか尋ねました。ファン・ディエゴが何が起こったのかを説明すると、聖母は彼女に頼らなかった事を優しく叱責しました。グアダルーペの出来事で最も有名なフレーズとなり、グアダルーペ大聖堂の正面玄関に刻まれた言葉で、聖母は尋ねました。「貴女の母である私がここにいないのですか?」。聖母はファン・ベルナルディーノが回復した事を彼に保証し、丘に登ってそこに生えている花を集める様に言いました。聖母の言う通りに、ファン・ディエゴは、普段はサボテンと低木しか生えていない岩の露頭に、季節外れに花が咲いているのを見つけました。彼は開いたマントを袋の様に使い(端はまだ首に巻かれたまま)、聖母マリアの下に戻りました。聖母マリアは花を整理し直し、司教の所に持っていく様に言いました。その日遅くにメキシコシティで司教の許しを得たファン・ディエゴはマントを開け、花が床に散らばりました。司教は花がマントに聖母マリアの姿の跡を残しているのを見て、すぐにそれを崇拝しました。

5回目の出現
翌日、ファン・ディエゴは叔父が完全に回復した事を聖母マリアが保証した通りに発見し、ファン・ベルナルディーノは、自分もベッドサイドで聖母マリアを見たと語り、聖母マリアは司教にこの出現と奇跡的な治癒について知らせる様に指示し、グアダルーペの称号で知られる事を望んでいると彼に告げた。司教は、ファン・ディエゴのマントを最初は自分の私的な礼拝堂に保管し、その後教会で公開展示し、大きな注目を集めた。1531年12月26日、奇跡の像をテペヤックに持ち帰る行列が作られ、急ごしらえの小さな礼拝堂に安置された。この行列の途中で、聖母マリアを称えて行われた幾つかの様式化された武術の演武の最中に、先住民の男性が偶然に放たれた矢で首に致命傷を負った時に、最初の奇跡が起こったとされている。非常に困惑した先住民は、彼を聖母像の前に連れて行き、命乞いをした。矢が引き抜かれると、被害者はすぐに完全に回復した。

列福と列聖
ファン・ディエゴの列聖を求める現代の運動(1663年に始まり、1754年に実現したグアダルーペ信仰の公式承認を得る為のプロセスとは区別されます)は、1974年に彼の生誕500周年を祝う式典中に本格的に始まったと言えますが、当時のメキシコ大司教、エルネスト・コリピオ・アフマダ枢機卿が調査を監督及び調整するポストラトゥラを任命し、列聖の正式なプロセスを開始したのは1984年1月になってからでした。列聖プロセスのこの最初の段階、つまり教区段階の手順は、教皇ヨハネ・パウロ2世の命令により最近改革され、簡素化されました。

列福
教区調査は1986年3月に正式に終了し、ローマ段階のプロセスを開始する法令は1986年4月7日に取得されました。1987年1月9日に教区調査の有効性の法令が発令され、この運動の続行が許可されると、候補者は正式に「尊者」になりました。文書(「立場表明書」またはPositioとして知られています)は1989年に発行され、その年にメキシコの全ての司教がこの運動を支持する為に聖座に請願しました。その後、歴史の専門家であるコンサルタント(1990年1月に終了)と神学の専門家であるコンサルタント(1990年3月に終了)によるポジティオの精査が行われ、その後、列聖省が正式にポジティオを承認し、ヨハネ・パウロ2世教皇が1990年4月9日に関連法令に署名しました。列福のプロセスは、1990年5月6日にグアダルーペ大聖堂でヨハネ・パウロ2世教皇が主宰した式典で完了し、12月9日に、その後「福者ファン・ディエゴ・クアウトラトアツィン」として知られる様になる聖人候補者を称えて毎年開催される祝日であると宣言されました。ウルバヌス8世(1625年、1634年)が列福と列聖の手続きを規定した際に規定した例外的なケースに従い、列福前の証明となる奇跡の要件は、信仰の古さを理由に免除されました。

奇跡
列福式が「同等」であったという事実にも拘らず、列聖の理由が完了する前に、少なくとも1つの奇跡が候補者の執成しによる物でなければならないというのが通常の要件です。この要件を満たすと認められた出来事は、1990年5月3日から5月9日の間、メキシコのケレタロで (正に列福式期間中)、20歳の麻薬中毒者ファン・ホセ・バラガン・シルバが、自殺を図った漸くに、アパートのバルコニーから10メートルの高さのセメントの地面に頭から落ちた時でした。転落を目撃した母親のエスペランサは、脊柱、首、頭蓋骨に重傷 (頭蓋内出血を含む) を負った息子を救う為にファン・ディエゴに祈りました。バラガンは病院に運ばれ、そこで昏睡状態に陥ったが、1990年5月6日に突然意識を取り戻した。1週間後、退院できるほど回復した。この奇跡とされる出来事は、列聖省の通常の手続きに従って調査された。まず、事件の事実(医療記録、バラガンと母親を含む6人の目撃証言を含む)がメキシコで集められ、その妥当性についてローマに承認を求め、1994年11月に承認された。次に、5人の医療顧問による全員一致の報告書(負傷の重大性、致命的となる可能性、患者を救う為のいかなる医療介入も実行不可能である事、患者の完全かつ永続的な回復、既知の治癒過程にこれを帰する事ができない点)が提出され、1998年2月に列聖省によって承認された。そこから事件は神学顧問に引き継がれ、(i)転倒と負傷、(ii)母親の聖ファン・ディエゴへの信仰と祈願、(iii)医学的には説明のつかない回復の関係が調査された。彼らの全会一致の承認は、2001年5月に示されました。最終的に、2001年9 月、列聖省は奇跡の承認に投票し、この出来事を奇跡として正式に認める関連法令が、2001年12月20日に教皇ヨハネ・パウロ2世によって署名されました。カトリック教会は、承認された奇跡は、人間の探求のプロセスによって達成された結果に対する神から与えられた承認であり、列聖の理由を構成する物であると考えています。


出典元・Wikipedia(英語版・Google翻訳)

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