翻訳と崇拝

1923年3月26日、列福の発表により、幼子イエスのテレーズの遺骨は以後遺物とみなされ、リジューのカルメル礼拝堂への移送の対象となった。それらは2つの別々の箱に入れられており、1つはブラジルの崇拝者によって提供され、一般に「ブラジルの聖遺物箱」と呼ばれる銀箔の箱で、殆どの骨が含まれており、もう1つは骨のごく一部のみが含まれているローズウッド製です。これら2つの聖遺物箱は、聖人の像が彫られた横たわる像を収めた神社に保管されています。列福を祝う為に、聖遺物箱はリジューを通る行列で運ばれ、続いて30人の高位聖職者、800人の司祭、そして数万人の人々の行列が続きます。1929年に始まり1954年に完成したリジュー大聖堂の建設中、右腕の骨は別の聖遺物箱に保管され、それ以来大聖堂の脇の礼拝堂に保管されました。毎年9月末に行われる「テレジア祭」の際には、主聖遺物箱、または「ブラジル聖遺物箱」が行列で市内を練り歩き、大聖堂や大聖堂に展示されます。リジューのカルメルには「遺物の部屋」もあり、そこにはテレーズの所有物やテレーズに関連した様々な品物が展示されていて、その中には彼女の髪の毛も含まれており、衣服を脱ぐ際にはカルメル会修道会の習慣に従って保存されていた。この髪の毛は現在、テレーズ・マルタンがカルメルに入る前に住んでいたリジューのビュイソネの家に展示されています。

聖遺物
リジューのテレーズの遺物を収めた聖遺物箱が幾つかあり、その内の幾つかはリジューの外にいる信者による崇敬を可能にする為に輸送される事を目的としています。1923年にリジューのテレーズが列福された後、その遺骨を納める為に最初に建てられたこの聖堂は、現在も聖遺物の大部分を収める主要な聖遺物箱として残っています。それはリジューのカルメル礼拝堂の、横たわるテレーズ像の下にあります。当初は旅行用に使用されていましたが、現在では、毎年9月の最終週に行われるテレジア祭の期間中、行列で大聖堂に運ばれる為にカルメル礼拝堂から出発するだけです。この聖堂は伝統的に「ブラジル神殿」または「ブラジル聖遺物庫」と呼ばれています。これは、1920年にリジューのカルメル会によって開始された提案に従って、ブラジルのカトリック教徒からのコレクションによって資金提供された為です。聖人の遺骨は、1923年3月27日にそこに保管されました。リジュー墓地での発掘とカルメル礼拝堂への移送の翌日。最初の聖遺物箱のコピーであり、ブラジルの信者によって資金提供された、いわゆる「百年記念聖堂」は、リジューのテレーズの没後100年である1997年以来、海外旅行に使用されてきました。その形状から「ゴシック聖遺物箱」と呼ばれるこの聖遺物箱は、主にフランス教区の旅行に使用されています。聖テレーズ・ド・リジュー大聖堂にも独自の聖遺物箱があり、翼廊の南側の腕に展示されています。

遺物の旅
リジューのテレーズの遺物は、1994年以来国際巡礼の対象となっており、70か国以上を旅し、「世界の5つの地域、更には最も辺鄙な島々にまで福音を告げ知らせたい」というテレーズの願いを実現しました。1945年、修道女のフランスの守護聖人としての宣言を祝う為に、修道女の遺骨を収めた主な聖遺物箱がパリで展示された。1947年、彼女の没後50周年を記念して、聖堂はフランスの幾つかの教区に移送されました。1994年、聖テレーズの没後100周年の準備として、聖テレーズの遺物は再びフランスへ向かいました。10月14日から、彼らはリヨンのフルヴィエール大聖堂に展示されます。その後、マルセイユとパリで祝賀会が開催されます。これらの旅行が大成功を収めた事を受けて、その後の数カ月、数年の間に、聖遺物はフランスの多くの教区で歓迎されました。100周年にあたる1997年、ブラジルから始まった国際聖遺物巡回の為に新しい聖遺物箱が作られ、ブラジルに一年間置かれた。

劇場で
リジューのテレーズ:ジャン・ファーヴルが書いた戯曲。1994年12月から1995年2月までテアトル・ドゥ・トゥールトゥール(パリ)で上演され、その後ルクセンブルクとベルギーでツアーを行った。コリーヌ・ルシャとアン・ヴァサロが主演。2010 年に、ミシェル・パスカルは「魂の物語」の劇場版を書きました。パフォーマンスは2011年にリジューのカルメルで撮影され、ボンヌピオッシュ社によってDVDとして制作されました。

音楽において
ブラジルの作曲家ホセ・アントニオ・デ・アルメイダ・プラドは、テレーズ生誕100周年の1973年に、アンリ・ドゥブリが企画したテレーズのテキストに基づいて、朗読、独唱、合唱、オーケストラの為にオラトリオ「テレーズ、愛の愛」を作曲しました。このオラトリオはフランス文化省の委託により制作され、1975年にリオデジャネイロで世界初演されました。カルメル会の音楽家で音楽家のピエール・エリアーヌは、テレーズの詩を収録した4枚のディスクを出版しました。テレーズの歌–1992年から1994年の3枚–と聖テレーズ・ド・リジュー–詩 (1997年) です。原文は全てピエール・エリアンが作曲したメロディーに合わせて歌われています。2011年、レバノンの歌手ジュマナ・ムダワルはアルバム「サラミ・サイディ(貴女は私の平和です、主よ)」をリリースしましたが、これは聖者の祈りと詩に由来する歌詞の曲の1つでもあります。このアルバムには、フランス語で歌われた2曲、Vivre d’amourとSte Genevièveも含まれています。アルバムの最初の曲、Dinyî b-tefrah fiki(人々は皆喜びに満ちています)は、聖人の聖遺物箱がレバノンに到着した日のレバノンの人々の喜びを描写しています。2017年に公開されたビデオクリップは、何万人もの信者にとって喜びとお祝いの源であるこの出来事を記録しています。2013年、グレゴワールはテレーズの詩を「テレーズ、愛を育む」というタイトルのアルバムに音楽を付け、ナターシャ・セント・ピア、アングン、マイケル・ロンズデール、グレゴリー・ターピン、レス・ステントール、ソニア・レーセン、エリサ・トヴァティ、ジャン=ミッシェル・ディ・ファルコ、そして木の十字架を持つ小さな歌手。2018年、カナダの歌手ナターシャ・サン・ピアは、テレーズ・ド・リジュー、愛する事は全てを与えるというタイトルのアルバムをリリースしました。このアルバムでは、ワーシップ・ポップ・グループのグロリアスのメンバーが「小さなテレーズ」の詩の幾つかを音楽に付けています。

文学において
『酒飲み聖者の伝説』の中で、ジョセフ・ロートは冒頭で謎の信者に信仰を見出す事を許可したリジューのテレーズについて言及しています。テレーズは最初と最後の章で引用されている為、この本の中で特別な位置を占めています。小説家のルーシー・デラルー・マルドラスは、この小さな聖人に2つの作品を捧げました。1925年には「サント・テレーズ・ド・リジュー」、その後1937年には「リジューの小さなテレーズ」を贈りました。この聖なる姿に魅了された彼女は石像を作り、それを青銅で再現しました。ボリビアの作家アルベルト・デ・ヴィジェガスは、1929年に本の「ソンブラス・デ・ムヘーレス」の中でこの小さな聖人の記述を書きました。

絵画において
ジョルジュ・ジュバン(1888-1983)は、ディニー教会(ウール・エ・ロワール)に保管されているリジューの聖テレーズを描きました。

彫刻において
1883年にヴィールで生まれ、1975年に亡くなったマリー・ベルナールの宗教上の兄弟であるルイ・リショームは、リジューのテレーズを表す幾つかの彫像を制作しました。最も広く流通したのは、1922年に制作され、全期間で30万部以上複製されたテレーズ・オ・ローズです。様々なワークショップ(アンジェのルイヤール、ボルドーのルイコー、リヨンのF.B.M.、オルレアンのマロン、トゥールーズのジスカール)。

ユネスコによる記念
2021年11月11日、ユネスコはリジューのテレーズの150歳の誕生日を機に、2022年から2023年に計画されている祝典に彼女を含める決定を承認した。12月4日土曜日、リジューでフランス国連代表団、駐フランス使徒公使、地元選出職員数名の出席の下、公式式典が開催された。2022年から2023年にかけて、リジューのテレーズの人物と業績を称えるイベントが開催されました。

霊的教義
リジューのテレーズの神学は主に彼女の人生と、学校となった信仰のビジョンを展開する彼女の自伝に由来しています。

聖性への普遍的な呼びかけ
テレーズの神学は何よりも神聖さの教育学です。彼女の教えは、聖性を求めるよう奨励する物であり、この呼びかけに応える能力に疑問を抱いているクリスチャンも同様です。ジャンセニズムの伝統が特徴的なテレーズの時代には、聖人は印象的な神秘現象を経験したり、偉業を達成した少数のエリートの魂に与えられる物だと多くの人が考えていました。 テレーズは何も特別な事をした訳ではありませんでしたが、それでも自分は聖人になれると常に信じていました。そこで、9歳の頃、ジャンヌダルクの生涯を読んだ彼女は、「自分も偉大な聖人になれるかもしれない」と直感しました。1890年、カルメルで、ある説教者が、偉大な聖人になりたいという希望と、アビラのテレサが抱いていたのと同じ神への愛を持ちたいという希望を語った時、衝撃を受けました。人生の終わりに、彼女はマリー・ド・ゴンザグ母にこう書きました。「母さん、私はいつも聖人になりたいと思っていました。」彼女はまず、かなり自発的な方法で聖性を達成したいと考えています。そこで彼女は16歳の時、ピション神父の言葉を引用してセリーヌに次の様な手紙を書きました。それは剣の先で征服されなければなりません、それは苦しまなければなりません」そして、1893年から1894年にかけて、彼女は益々自分の小ささを神に委ね、自分の中で行動する様に神を招きました。1895年、彼女は次の様に書いている。「私は今でも、偉大な聖人になれるという大胆な自信を感じています。なぜなら、私は自分の功績を当てにしておらず、何の功績も持っていないからです。然し私は、徳であられる神、神聖ご自身がそうであり、それが実現される事を望んでいます。私の微弱な努力に満足して、私をご自身に高め、無限の功徳で私を覆い、私を聖にして下さるのは神だけです。」
この様にテレーズは、聖性が誰にでもアクセスできる物である事を、その人生と著作を通じて示しました。別の教会博士は3世紀前にその様な強い直観を持っていました、フランシス・デ・サレジス(1567-1622)です。彼は、世界中に住むクリスチャンに対し、修道士や修道女のそれとは異なる、彼らの生活状態に特有の方法で霊的に進歩するよう奨励しました。テレーズが抱いている、神への信頼に基づいた、大した見せかけのない控えめな神聖さという考えは、洗礼を受けた全ての人に当て嵌ります。これは第二バチカン公会議の期待でもあります。実際、評議会の教会に関する独断的な憲法(Lumen gentium)は、全てのキリスト教徒が聖性へ招かれている事を強調している。テレーズの聖性に対する考え方が時代を先取りしていた事を示す物であったが、彼女に近しい人々の多くは、テレーズの死後数年間、彼女が列福の対象として検討されていた事を理解していなかった。リジューの住民であるカルメル会の人々、そして彼自身の家族の一員は、彼の人生において、この計画を正当化する特別な物を何も見つけていませんでした。1903年にシスター・テレーズの列聖について言及した若い司祭に対して、マリー・ド・ゴンザーグ母は笑いながらこう答えた。「その場合、何人のカルメル会が列聖される必要があるだろうか?」

ちょっとした方法
自信を持って神に頼りましょう
リジューのテレーズは、人生の最後の3年間、毎日「小さな道」を経験しました。彼女はこの表現をそのままの形で書いたのは1897年の原稿Cの1度だけでした。然し、彼女は修練者たちに話す時、または霊的な兄弟たちに話す時、この表現を頻繁に言及します。 彼女は、この小さな教義が、生きている間も死後も、自分が伝える事のできる最善の物である事を認識しています。テレーズにとっての「小さな道」とは、自分の小ささ、無さを認識し、自信を持って神に頼る事です。それは聖性への欲求と、自分の力ではこの欲求を満たせない事から生まれます。テレーズは聖人になる為に努力を惜しみませんでした。彼女は、服従、慈善、忠実の行為を繰り返しながら、自分の使命を完璧に生きようと努めました。然し、同時に真実に対して大きな関心を抱いている彼女は、自分の欠点、寛大さの欠如、「完璧への粗い階段を登る」能力の無さにも気づいています。アビラのテレサと同じ熱意を持って神を愛したかったはずの彼女は、自分がとても弱くて小さい事に気づきました。それには自分の限界を受け入れる事が含まれます。 でも、めげずに。この弱さ、この小ささが神の恵みを引き寄せる可能性がある事を彼女は理解していたからです。それは彼に次の様に書かせた預言的な直観でした。「私は、とても真直で、とても短い小さな道で、とても新しい小さな道で天国に行く道を探したいのです。」 箴言の本の中で、彼女はこう書いています。 彼女は成長する事によってではなく、逆に小さいままである事によって、神に無に向かって身をかがめるよう強いる事によって神に近づくのである。彼女は次の様に書いています。「私を天国に引き上げてくれるエレベーターは貴方の腕です、イエスよ!その為に私は成長する必要はなく、寧ろ、もっと成長する為に小さいままでいる必要があります。」

精神的な子供時代を歩んだ道
この小さな道は、精神的な子供時代の道と呼ばれる事もあります。テレーズは、小さいながらも父親に大きな信頼を示す事ができる子供たちをよく指します。彼女は、神を愛し、神と真実に結ばれるには、「まず第一に、自分を神に結び付け、神に愛され、神によって形作られる様にする事が重要です。彼の愛は無償であり、子供たちに対する父親の愛です。彼はいつも私たちを一番に愛して下さる方です。(ピエール・デスクブモン)従って、この霊性において、聖性において成長するという事は、まず第一に、聖霊の働きを通して、神の内に愛情深い父親を見る親孝行な自信が成長する事である。ヨハネ・パウロ2世は、1980年にリジューを訪問した際、このテーマについて次の様に述べました。「「小さな道」は「聖なる子供時代」の道です。この道には、何かユニークな物があります。 同時に、最も根本的かつ普遍的な真実の確認と更新が行われます。実際、福音のメッセージの真理の内、これよりも根本的で普遍的な物があるでしょうか。それは、「神は私たちの父であり、私たちは神の子である」という物です。 」

常に進歩する

然し、テレーズにとって、自分の小ささを認める事は、努力をやめなければならないという意味ではありません。カルメルで修練者の1人である三位一体のシスター・マリーと話した時、彼女はこの道を静か主義とは明確に区別しています。彼女は最後まで魂の救済の為に犠牲を払うだろう。1897年8月8日、彼女はマザー アニエスに次の様に打ち明けました。ですから、私がやった事を彼らにもやらせて下さい。つまり、大きな努力をする事です。善良な主は、行動する勇気を与えるこの最初の恵みを決して拒否されません。」そして彼女は死ぬまで、カルメル会の姉妹たちを具体的に、そして毎日愛そうと努めるでしょう。然し、それは、彼女が証しする方法によれば、彼女の弱さを補って下さる神との結びつきとなるでしょう。この小さな方法を通して彼女が経験したいと望んでいる神の臨在のこの歓迎は、彼女の慈愛の感覚と慈悲に対する自信を深める事になるでしょう。

チャリティー・神を愛する
テレーズは死後、「愛の博士」と呼ばれました。実際、彼女が最も人の心を動かしたのは、慈善活動を実践し、著作の中でそれを教える事によってでした。テレーズの愛は、何よりもキリストという人格に焦点を当てています。幼い頃から、非常にキリスト教的な家庭の雰囲気に動かされて、彼女は自分の行動、真理の感覚、夜の祈りへの忠実さを通して、彼を「喜ばせよう」と努めました。 キリストに対するこの愛、この確信、そしてキリストの臨在の中で生きるという認識は、彼女の生涯を通じて続くでしょう。彼女は9歳の時の初聖体拝領について次の様に説明している。「愛されていると感じて、こうも言いました。『愛しています、私は永遠に貴方に身を捧げます』」。イエスの名前は彼の著書のほぼ全てのページに現れています。約1,600回引用されています。人生の終わりに、信仰の夜の試練を経験した時、彼女は独房の仕切りに次の言葉を刻みました。「イエスは私の唯一の愛です。」 そして彼女の最後の言葉は神に向けての物であり、彼女は死ぬ前に神に愛を表明する事になる。この愛は、カルメル会修道女としての彼女の召命において特権的な方法で経験されており、修道女特有の象徴的な語彙によれば、彼女は「キリストの花嫁」となっているのです。彼女のカルメル会の名前が示す様に、彼女は特にキリストの受肉と屈辱の神秘について瞑想しています。何よりも、彼女は「愛ゆえにご自身を非常に小さくされた」神について証しするでしょう。例え彼女がキリストよりも父と聖霊について言及していないとしても、神の愛についての彼女の概念は非常に三位一体的です。彼女の詩「Vivre d’amour」の一節が証明している様に、「ああ!ご存知の通り、聖なるイエス様、私は貴方を愛しています。愛の御霊が私をその火で燃え上がらせます。貴方を愛する事によって、私は父を引き寄せます。」フランソワ=マリー・レテルによれば、「テレーズの教えは完全に愛によって照らされています。テレーズはイエスの中で、神が私たちを愛する無限の愛、慈悲深い救い主の愛、漁で傷ついた哀れな生き物に対する創造主の狂気の愛を熟考しています。」テレーズにとって、それは愛に愛を返す事、そのお返しとして神を愛する事、そして神の愛を証しする事で自分の近くにいる人たちや祈っている人たちを愛する事の問題なのです。

愛をもって団結する
1894年から、信頼と愛の小さな道の発見により、テレーズは慈善活動が彼女の精神生活の中心にある事を益々認識しました。神との結合によってのみ真に愛する事ができると理解した彼女は、1895年6月11日、「完全な愛の行為に生きる為に」自らを「慈悲深い愛の犠牲者」として差し出した。彼女はこの提供物を毎瞬間、無限に更新したいと考えています。この様なプログラムは、神がその捧げ物に応えて下さる場合にのみ可能です。数日後、彼女は神への強い愛に圧倒され、自分が火の中に浸かっているのではないかと思った程でした。彼女にとって、それは神が彼女の祈りに答えて下さった印です。彼女は1896年9月に新たな一歩を踏み出しました。テレーズは、自分にとって狂気とも思える願望を経験しました。宣教師、使徒、殉教者、司祭、教会の医師であると同時に、なりたいという願望でした。更に彼女は、世界の創造から時の終わりまで、これらのそれぞれの使命を完全に生きたいと考えています。それから彼女は聖書を開いて、コリント人への聖パウロの第1の手紙の12章に目を通します。パウロは教会を、各会員が明確に定められた場所を持つ組織に例えています。これは彼に答えを与え、彼の欲望を冷やすはずです。然し、彼女は更に続けて、慈善賛歌の第13章を読みます。彼女は突然、愛が教会の中心である事に気づきました。もはや福音を告げ知らせる事はないだろうし、殉教者たちは血を流す事を拒否するだろう。愛には全ての召命が含まれている事、愛が全てである事、愛はあらゆる時代とあらゆる場所を包含している事。一言で言えば、彼は永遠であるという事を私は理解した。その後、彼女は自分の天職が愛である事を理解しました。そこで彼女が深める謎は、聖者の交わりに関する謎です。彼女は自分のいる場所を愛せば愛する程、教会の生活に参加し、地上での様々な召命をサポートする様になるでしょう。彼女は、自分の小ささと、慈悲深い愛に捧げ、イエスに「彼の愛」を与えてくれる漸くに何度も何度も懇願するという彼女の行為との結びつきを忘れません。彼女は亡くなった1897年に次の様に書いている。「これが私の祈りです。私をイエスの愛の炎の中に引き入れ、私をイエスと緊密に結び付けて、イエスが私の内に生きて働いて下さる様お願いします。」彼女の小ささの中に神の愛を受け入れるこの動きは、彼女をカルメル会の姉妹たちを更に愛する様に導くでしょう。

友愛慈善活動

カルメルに入ると、テレーズは騎士団の規則と憲章を読みました。彼女は兄弟としての繊細さの重要性を指摘し、それを大切にして生きていくつもりだと語った。彼女が他の修道女たちに対して抱いている愛は、この世の物ではありません。それどころか、それは多数の非常に具体的な注意を通じて現れます。彼女が魂の為に祈り、毎日小さな犠牲を払っているのも魂への愛からです。テレーズは、慈善活動はあらゆる利己主義やあらゆる自己愛から切り離された場合にのみ存在し得ると考えています。1886年のクリスマスに回心して以来、彼女は自分自身を忘れる事に喜びを見出しました。「一言で言えば、慈善が心に浸透し、喜びを与える為に自分を忘れる必要があると感じました。それ以来、私は幸せでした。」 彼女は「自分を求めても何も良い事はない」と断言します。この概念からは、実際の要件が生まれます。それは、その僅かな欠点を検出して、それに対抗できる様にする事、そして何よりも、より大きな注意と寛大さの余地を残す事です。然し、彼女が神に対して抱いていた愛が、他者に対して抱いていた愛といかに密接に結びついているかに気づいたのは、人生の終わりになってからでした。1897年にマリー・ド・ゴンザグ母に打ち明けた時、彼女は今年、神が慈善とは何かを理解するのを助ける恵みを彼女に与えてくれたと書いた。言葉だけで表現される。 彼女は福音の中にある愛の戒め、特にキリストが語られた次の言葉について黙想しています。(ヨハネ、13章34-35) 彼女は、姉妹たちに対する慈愛がまだ不完全である事に気づき、「善なる神」が姉妹たちを愛する様に彼らを愛する事を決心しました。それはまた、慈悲深い愛への彼女の捧げ物と、イエスが彼女の中で行動できる様に自分自身を非常に小さくしたいという彼女の願望の集大成でもあります。神と団結すればする程、私は姉妹たち全員を更に愛する様になります。」従って、彼女は他人の行動に対して深い耽溺を身につける様になります。「ああ、完璧な慈善とは、他人の欠点をサポートする事、他人の弱さに驚かない事、私たちが目にする最も小さな美徳の行為によって啓発される事である事が今では分りました。彼らは練習しています」 彼女は罪を赦そうとしたり、彼らに善意があったとさえ考えます。ある日、彼女は礼拝の準備をしている時に、修道女が同じ意図を持っている事に気づき、修道女に恩恵を与えようと彼女の仕草を抑えました。然し、私たちは彼の行動を怠惰だと考えます。彼女はこの失望について深く考えています。「この様な小さな事が私の魂にどれだけ良い影響を与え、他人の弱さに甘んじる様になったか、言葉では言い表せません。」 彼女は、誰かの意図を理解する事がいかに難しいかに気づきました。「私の小さな徳の行為が不完全な物とみなされるので、私たちは不完全なだけの物を美徳とみなすと同じ様に簡単に誤解される可能性があります。」 妹が嫌いな時は、特に優しくしようとする。

出典元・Wikipedia(フランス語版・Google翻訳)