聖ドミニコ・サヴィオ
ドミニコ・サビオ(1842年4月2日-1857年3月9日)は、ドン・ボスコのイタリア人の弟子であった。司祭になる為に勉強していたが、病気になり、恐らく胸膜炎で14歳で亡くなった。カトリックの信仰に対する敬虔さと献身で知られ、1954年に教皇ピウス12世によって聖人の列に加えられた。 
ボスコはサビオを非常に高く評価しており、彼の若い弟子の伝記「ドミニコ・サビオの生涯」を著しました。この本は、彼に関する他の記述と共に、彼が聖人となる為の重要な要素でした。多くの人が、彼は14歳で亡くなった為、聖人になるには若すぎると考えていたにも拘らず、日常生活で「英雄的な美徳」を示したという理由で、その様な特別な栄誉に相応しいと考えられました。サビオは1954年6月12日に教皇ピウス12世によって聖人として列聖され、2017年にファティマの敬虔な幻視者であるフランシスコとジャシンタ・マルトが列聖されるまで、カトリック教会で殉教者以外の人として最年少の列聖者となりました。 
 
伝記

ドミニク・サビオについて知られている伝記情報の大部分は、サビオの家族や友人の証言に加えて、ドン・ボスコが書いた伝記から得られています。 

 幼少期
1842年4月2日、北イタリアのピエモンテ州キエーリの町から3キロ離れたリヴァ村で、カルロとブリジッタ・サビオ夫妻に息子が生まれました。洗礼の際、ドメニコという名前が与えられました。ドメニコという名前は「主の」を意味し、サビオという姓は「賢い」を意味します。両親には全部で10人の子供がいました。父親は鍛冶屋、母親は裁縫師でした。両親は貧しく、勤勉で信心深い人々でした。彼が2歳の時、両親はカステルヌオーヴォ・ダスティ郊外の故郷ムリアルドに戻り、1841年にリヴァに移住しました。両親は彼にキリスト教の教育を施すよう細心の注意を払いました。4歳になるまでにドミニクは1人で祈る事ができる様になり、時々1人で祈っている姿が見られました。ドン・ボスコは、サビオの両親が、サビオが家事で母親を手伝い、父親を家に迎え、思い出させられる事なく祈りを唱え(他の人が忘れた時には思い出させ)、食事の時には必ず祈りを唱えていた事を思い出していると記録しています。 

村の学校で
ドミニクが5歳の時、ムリアルドの司祭を務めていたムリアルド出身のジョヴァンニ・ズッカ神父は、ドン・ボスコへの声明の中で、ドミニクが母親と一緒に定期的に教会に通っていた事、朝、教会の鍵が開く前にたまたま教会に来た場合は、教会の外で跪いて祈る(泥や雪の中でも)習慣があった事から、ドミニクに注目する様になったと述べています。司祭はまた、サビオが村の学校で順調に進歩したのは、単に頭が良かったからだけではなく、一生懸命に勉強したからでもあると述べています。彼は、道徳的に間違っていると思う事を他の少年たちと一緒にやろうとはせず、特定の行為が間違っていると思う理由を説明しました。5歳の時、彼はミサの奉仕を学び、毎日ミサに参加しようとし、定期的に告解にも行きました。幼い頃に初聖体拝領を許されていた為、聖体に対して深い尊敬の念を抱いていました。 
 
初聖体拝領
当時、子供が初聖体拝領を受けるのは12歳が慣例でした。(教皇ピウス10世は後にこの年齢を7歳に引き下げました)最初は躊躇いましたが、その後他の司祭と相談した結果、教区司祭は、ドミニコが教理問答を知っており、聖体拝領についてある程度理解していた為、7歳で初聖体拝領を受ける事を許可しました。彼は準備の為に多くの時間を祈りと読書に費やし、母親を不快にさせる様な事をしたかもしれない事があれば許しを請い、その後教会に行きました。ドミニコ・サビオの伝記の中で、ドン・ボスコはドミニコの初聖体拝領について語る章を割いています。数年後、ドミニコは初聖体の日の事を話す度に、喜びをもってこう言ったそうです。「あれは私の人生で最も幸せで素晴らしい日でした」ドン・ボスコは、ドミニコが初聖体拝領の日に幾つかの約束をし、それを「小さな本」に書き記し、何度も読み返したと記録しています。ドン・ボスコは曾てドミニコの本に目を通し、そこから彼がした約束を引用しています。

1849年、7歳の初聖体拝領の日に、私、ドミニコ・サビオが立てた決意。
1. 告解に頻繁に行き、告解師が許す限り頻繁に聖体拝領に行きます。 
2. 日曜日と祝日を特別な方法で聖別したいです。 
3. 私の友はイエスとマリアです。 
4. 罪よりも死を選びます。 

郡立学校で
中等教育を受ける為に、ドミニクは別の学校に通う必要があり、自宅から5km離れたカステルヌオーヴォにある郡立学校に通う事が決定されました。 (カステルヌオーヴォ ダスティ、ドン・ボスコは、ドン・ボスコの同時代人であるジョセフ・カファッソの出身地で、彼も聖人でした。ジョセフ カファッソはドン・ボスコより4歳年上で、ボスコの指導者でありアドバイザーでした。)

10歳になった彼は、毎日学校まで歩いて通っていました。ドン・ボスコは、ドミニク・サビオの伝記の中で、ある暑い晴れた日に地元の農夫が彼に「歩くのに疲れていないか」と尋ねた所、「給料の良い主人の為に働いている時は、何も疲れたり苦しんだりはしません」と答えた事を記録しています。ドン・ボスコはまた、ドミニコが友人たちと泳ぎに行く事を拒否したと記している。なぜなら、その様な状況では「神を怒らせるのも簡単だ」と考えたからであり、以前友人たちが彼にとって下品な態度を取ったと信じていたからである。ボスコは伝記の中で、この学校の校長であるアロラ神父がドミニコについて次の様に述べたと記録している。「従って、彼は名ばかりでなく、実際、即ち、学問、信心深さ、会話、他者との付き合い方、そして全ての行動において、サビオは天才であったと言っても過言ではないだろう」 

ドン・ボスコの指導の下
ドン・ボスコとの出会い

ドミニクの学校の先生ジュゼッペ・クグリエロ神父が、ドン・ボスコに彼を高く評価し、ロザリオの祝日にボスコが息子たちをムリアルドに連れて行く時に彼に会うよう勧めました。それに従って、ドミニクは父親に付き添われて、1854年10月の第1月曜日(185410月2日)にドン・ボスコに会いました。ドン・ボスコはこの会話を詳細に記録しています。彼は、ドミニクがドン・ボスコと一緒にトリノに行く事を熱望しており、その町で勉強を終えた後に司祭になりたいと思っていたと述べています。

ドン・ボスコはドミニコの知能を試す為に、『カトリックの朗読』(カトリックの弁証論に関するパンフレット)のコピーを彼に渡し、特定のページを暗唱して翌日その意味を説明する様に求め、その後ドミニコの父親と暫く話をしました。10分後、父親はドミニコが隣にいてそのページを暗唱し、その意味を満足のいく様に説明しているのを見つけました。この出会いが彼らの関係の始まりとなり、その結果、ドン・ボスコはドミニコをトリノに連れて行く事に同意しました。

聖フランシスコ・サレジオ会堂にて
ドン・ボスコは、ドミニコがオラトリオに到着すると、すぐに彼の指導を受けたと記録しています。また、ドミニコは勤勉に勉強し、学校の規則に従っていたとも記しています。彼は喜んで講話や説教を聞き(時には長くなる傾向がありましたが)、分らない点については躊躇う事なく説明を求めました。また、ドン・ボスコは、ドミニコが教師に従順で、仲間を慎重に選んだとも記しています。これは、ローマで聖母マリアの無原罪懐胎の教義が定義されていた1854年に起こりました。オラトリオでは、この祝祭を祝う準備が進められていました。ドン・ボスコは、ドミニコが聴罪司祭の助言を受けて、オラトリオの聖母マリアの祭壇で初聖体拝領の誓約を更新したと記録しています。ボスコは、この時点からドミニコの聖なる生活への試みの結果が非常に明らかになった為、ドン・ボスコは将来の参考の為に起こった様々な出来事を記録する様になったと述べています。
「ママ・マーガレット」と呼ばれていたドン・ボスコの母親は、ドミニコについて次の様に語っています。「貴方には良い子が沢山いますが、ドミニコ・サビオの善良な心と魂に匹敵する者はありません。彼が他の子より後に教会に残り、祈りをしている姿をよく見かけます。毎日、遊び場から抜け出して聖体拝領に行きます。教会にいる時は、天国に住む天使の様です。」 

聖人になる決意
ドミニコがオラトリオに来てから約6ヶ月後、聖人に関する講演を聞く機会がありました。ドン・ボスコは、その講演でドミニコに感銘を与えた3 つの主な点について記録しています。 
 
全ての人が聖人になる事が神の意志であるという事。
 聖人になるのは簡単だという事。 
 聖人になろうとする者には天国で大きな報酬が待っているという事。
 
これがドミニコに聖人になるという意識的な決断をさせた。その直後の結果、聖人らしい生活を送る方法が分らず、心配していた彼は、その後数日間、静かで不安な状態だった。これに気づいたドン・ボスコはドミニコに話しかけ、いつもの明るさを取り戻し、勉強や宗教的実践という通常の生活を続け、特にゲームやレクリエーションで仲間と過ごす事を怠らない様にとアドバイスした。彼のファーストネームが「神に属する」という意味である事を知った時、聖人になりたいという彼の願望は強まった。ドミニコの精神的成長はドン・ボスコの指導の下で進んだ。クリフォード・スティーブンスはサビオの伝記の中で、「他の状況では、ドミニコは少し独善的なスノッブになっていたかもしれないが、ドン・ボスコは彼に平凡さの英雄性と常識の神聖さを示した」と述べている。 

苦行を試みる
聖人になりたいという願望から、ドミニコは、小さな石や木片で寝心地の悪いベッドを作ったり、冬に薄い毛布をかけて寝たり、毛糸のシャツを着たり、パンと水で断食したりするなど、肉体的な苦行を試みました。上司(つまり、ドン・ボスコ、又は彼の教区牧師、又は彼の告解師)がこれを知ると、健康に影響するとして、肉体的な苦行を禁じました。ドン・ボスコは、学生時代のドミニコにとって最高の苦行は、全ての義務を完璧かつ謙虚に遂行する事であり、従順こそが最大の犠牲であると語りました。こうして、ドミニコは人生哲学の重要な側面を形成しました。それは、彼の言葉を借りれば、「私は大きな事はできないが、全てを神の栄光の為に行いたい」という物でした。ドン・ボスコは、その時以来、ドミニコはオラトリオの他の少年たちとは違って、食べ物や天気に文句を言わず、全ての苦しみを明るく耐え、目と舌をコントロールする様になったと記しています。サレジオ会の評論家であり、ドン・ボスコの自伝(聖フランシスコ・デ・サレジオのオラトリオの回想録)のエウジェニオ・チェリアは、この時までに教育者としての経験により、ドン・ボスコの幾つかの教育的及び精神的原則に関する考えは十分に発展し、結びついており、これがサビオへの助言の中で日常の義務の遂行を神聖さと結び付ける事に繋がったと述べています。 

無原罪懐胎の聖会
聖母マリアの無原罪懐胎の教義の定義はドミニコに影響を与え、彼は学校でこの出来事を永遠に思い出させる物を作りたいと切望していました。彼は今や、自分の余命が長くないと感じていました。友人たちの助けを借りて、彼は聖母マリア無原罪懐胎会と呼ばれるグループを立ち上げました。その主な目的は、生きている間も死ぬ時も聖母マリアの特別な保護を得る事でした。この目的の為にドミニコが提案した手段は、
 (1) 様々な手段で聖母マリアを称え、他の人々にも聖母マリアを称える様にする事 
 (2) 頻繁な聖体拝領を奨励する事でした。 
 6月8日、彼と友人たちはオラトリオの聖母マリアの祭壇の前で、彼らが作成した一連の規則を一緒に読み上げました。それは21条から成り(ドン・ボスコが伝記に記録しています)、マリアへの援助の訴えで終わります。これらは学長に提出され、注意深く精読された後、彼は一定の条件の下で承認しました。この会のメンバーの1人、ジュゼッペ・ボンジョアンニ(後に司祭に叙階)は後に聖体会を設立し、それがカトリック学校の伝統的な会となった。 

聖なる死への準備
ドン・ボスコの教えを受けた全ての生徒は、幸福な死の実践と呼ばれる毎月の行事を守りました。この習慣は、月例黙想の日という名前で続いています。この習慣は、教皇ピウス9世によって奨励されました。この習慣の1部は、死ぬ前に最後に行う様に告解と聖体拝領を行う事でした。ボスコは、ドミニコがこの習慣を熱心に守り、ある日、ドミニコがグループの中で最初に死ぬと言ったと述べています。死の前の5月の間、彼の精神的な実践は激しさを増しました。ドン・ボスコは、彼が「今年できる事をやらせて下さい。来年ここにいたら、私の計画をお知らせします」と言ったと述べています。

健康の衰え
ドミニクの健康は徐々に悪化していましたが、彼は殆どの時間を友人たちと過ごし、彼らと話し、問題を抱えている人々を励ましていました。また、仲間が入院する度に、学校の保健室を手伝いました。医師の勧めで、ドミニクは病気を治す為に家に帰されましたが、数日後、ボスコは彼をオラトリオに戻しました。ドミニクへの愛情と、ドミニクをオラトリオに残しておきたかったにも拘らず、ドン・ボスコは医師の勧めに従う事にしました。特にドミニクが酷い咳をした為、彼はドミニクの父親に手紙を書き、1857年3月1日に出発日を決めました。ドミニクは最後の日々をオラトリオで過ごしたいと言いましたが、この決定を受け入れ、出発前の夜をドン・ボスコの傍で過ごし、精神的な事柄について話し合いました。(ボスコは、この会話の1部をドミニクの伝記に記録しています)。出発の朝、ドン・ボスコは、ドミニコが幸福な死の修行を非常に熱心に行い、これが最後のその様な信心であるとさえ言っていた事を記しています。彼はドン・ボスコに別れを告げ、記念として、ドン・ボスコが教皇から受けた全免罪符に参加する人々のリストに彼の名前を加えるように頼み、ドン・ボスコは喜んで同意しました。それから彼は大きな愛情を込めて友人たちに別れを告げましたが、それは彼らを驚かせました。なぜなら彼の病気は多くの仲間から深刻な物とは考えられていなかったからです。

家に帰ってから最初の4日間で食欲が減り、咳が悪化した為、両親は彼を医者に連れて行き、医者はすぐに安静を命じた。炎症と診断され、当時の慣例に従って医者は瀉血を行う事にした。医者は4日間でドミニクの腕を10回切り、これが恐らく彼の死を早めたと考えられている。ドン・ボスコは伝記の中で、ドミニクは処置の間ずっと落ち着いていたと記録している。医者は両親に、危険は去り、後は回復するだけだと保証した。然し、ドミニクは自分の死が近づいている事を確信し、告解と聖体拝領を許可してほしいと頼んだ。両親はそれが不要だとは思っていたが、教区司祭を呼び、司祭はドミニクの告解を聞いて聖体を授けた。4日後、医者と両親は彼が良くなると確信していたが、ドミニクは死に備えて終油の儀式を受けてほしいと頼んだ。両親はまたもや彼を喜ばせる為に同意した。3月9日、彼は教皇の祝福を受け、祈祷文を唱えた。ドン・ボスコは、この数日間、彼が穏やかで落ち着いていたと記録している。1857年3月9日の夕方、教区司祭の訪問を受けた後、彼は父親に、自分の信心書から幸福な死の実践の為の祈りを読んでくれる様に頼んだ。それから彼は暫く眠り、すぐに目を覚まし、はっきりとした声で「さようなら、お父さん、さようなら、教区司祭が私に何を示唆したか、覚えていない様です。ああ、なんて素晴らしい物が見えるのでしょう」と言った。これらの言葉でドミニクは亡くなったが、最初は父親には眠っている様に見えた。ドミニクの父親は、息子の死の知らせを伝える手紙をヨハネ・ボスコに書いた。
「悲しみで一杯の心で、この悲しい知らせをお伝えします。私の愛する息子であり、神の子であるドミニコは、白いユリの様に、アロイシウス・ゴンザーガの様に、3月9日に最後の秘跡と教皇の祝福を最大限の信心で受けた後、神に魂を捧げました。」

 ドミニク・サビオの生涯における注目すべき出来事
 読者にドミニコの人柄を包括的に伝える為、ドン・ボスコは伝記の中でドミニコの生涯の幾つかの出来事を記録しました。

彼がオラトリオに入会する前

モンドニオの学校で

ドン・ボスコはジュゼッペ・クグリエロ神父の証言からこれを記録しています。ある日、教師がいない間に、ドミニクのクラスメイト2人が悪戯で部屋を暖める鉄のストーブに雪とゴミを詰めました。彼らは退学を恐れてドミニクを責めました。クグリエロ神父はクラスの前でドミニクを厳しく叱責しましたが、ドミニクは黙って耐えました。翌日、真犯人が発見されました。なぜ黙っていたのかと聞かれると、ドミニクは、他の少年たちは退学になるかもしれないのに、自分は叱責だけで済むと思っていたと答えました。ドミニクは、イエスは不当に責められても黙っていたので、イエスを真似しようとしていたのだ、と付け加えました。メアリー・リード・ニューランドは著書の中で、ドミニクがまだドン・ボスコに会っていなかった事から、この事件は両親が彼に与えた育て方を示していると示唆しています。 

礼拝堂にて

争いを解決
礼拝堂で、彼の友人2人が意見の相違から、石を投げて戦う事にしました。彼らはドミニクより年上で力も強かった為 (彼は1年生から2年生に進級していました)、物理的な介入は不可能でした。彼は彼らを説得しようとしましたが、良い結果は得られませんでした。そこで、戦いの当日、彼は彼らと一緒に戦いが行われる場所に行き、彼らが戦いを始める直前に彼らの間に立って、十字架を掲げ、最初に石を投げるように頼みました。恥ずかしさを感じた 2人の少年は戦いを諦めました。その後、ドミニクは告解に行くよう説得しました。 

目の管理
ドン・ボスコは、曾て訪問していた少年が「悪い写真が載った雑誌」を持ってきて、興味を唆られた少年たちが見ていたと記録しています。それを知ったドミニクは、雑誌をひったくると破り捨て、「一目見るだけで魂が汚れるのは十分わかっているのに、それでもこれを見て楽しんでいる」と言った。 

友人たちへの影響
ドン・ボスコは、ドミニコが友人たちと多くの時間を過ごし、彼らの信仰を励まし、悪態をつく癖のある人を戒め、日曜学校で教理問答を教えたと記録しています。ボスコはまた、友人たちに告解の秘跡を頻繁に利用し、定期的に聖体拝領を受けるよう勧め、ゲーム中にも霊的修行について励ましや助言を与えていたと記録しています。ドン・ボスコは、ドミニコの友人の内、トルトーナのカミロ・ガビオとマルモリートのジョン・マッサリアの2人について特に言及しています。(この2人の友人は、ドン・ボスコが伝記を書いた時には亡くなっていました。ドミニコの友人でまだ生きていた人たちについては書かない方がよいと考えたからです。)

ドミニコが実践した信心
ドン・ボスコは、ドミニコがオラトリオに来る前、告解を行い、月に1度聖体拝領をしていたと語っています。秘跡に関する説教を聞いた後、彼は司祭を定期的に告解師として選びました(ドミニコはオラトリオでの滞在が終わるまで、その司祭に告解をしました)。ドミニコが秘跡に近づく頻度は増加し、その年の終りには、告解師の助言に従って、ドミニコは毎日聖体拝領をしていました。彼は、週の毎日、聖体拝領の為に特別な意図を持っていました。ドン・ボスコは、ドミニコは許される限り、司祭が聖体拝領をする時に熱心に同行し、カトリック諸国の習慣に従って、司祭が聖体を運んでいるのを見かけたら、路上で跪く習慣も守っていたと述べています。 

特別な霊的意義を持つ出来事

「気晴らし」 
ドン・ボスコは、ドミニクが祈りの最中に時折強烈な体験をしたと記録しています。ドミニクは次の様に説明しています。「私は愚かです。気が散って祈りの筋道が分らなくなり、素晴らしい物を見て、1時間が1分の様に過ぎてしまいます」。ある時、彼は朝食から姿を消し、教区牧師は漸く礼拝堂で彼を見つけました。彼は動かずに立って聖櫃を見つめていました。彼は朝のミサが終わった事に気づいていませんでした。別の時、ドン・ボスコは、礼拝堂でドミニクが神に話しかけ、その後、返事を聞いているかの様に待っているのを見たと記録しています。

特別な知識
ドン・ボスコは、ある日ドミニクが彼の部屋に来て、一緒に来る様に促した様子を語っています。彼はボスコを多くの通りを通ってアパートのブロックに連れて行き、ドアベルを鳴らしてすぐに立ち去りました。ドアが開くと、ドン・ボスコは中に死にかけの人がいるのを見つけました。 その男性は、司祭に最後の告解をしてほしいと必死に求めていました。後に、ドン・ボスコはドミニコに、どうしてその男性について知ったのかと尋ねました。然し、その質問はドミニコを不快にさせたので、ドン・ボスコはその件について追及しませんでした。 

イングランドのビジョン
ドン・ボスコは、ドミニコが曾て見たビジョンを語ったと記録しています。

「ある朝、聖体拝領の後に私が感謝の祈りを捧げていた時、非常に強い混乱が私を捕らえました。私は、濃い霧に包まれた大平原に人々が一杯いるのを見たと思いました。彼らは道に迷い、どちらに曲がればいいのか分らない人々の様に歩き回っていました。私の近くにいた誰かが言いました。「ここはイングランドです」。私は丁度いくつか質問しようとしていた所、写真で見た事のある教皇ピウス9世の姿が見えました。教皇は豪華なローブを纏い、手に炎の燃える松明を持っていました。教皇がゆっくりとその巨大な群衆に向かって歩いていくと、松明の炎が霧を払い、人々は真昼の太陽の輝きの中に立っていました。私の隣にいる人が言いました。「その松明は、イングランドを照らすカトリックの信仰です」。

ドミニコは最後の別れの際、ドン・ボスコに自分のビジョンを教皇に伝えるよう依頼し、教皇は1858年にそれを実行しました。教皇はこれが、イングランドに関して既に立てていた計画を裏付ける物だと感じました。

母親の妊娠
1856年9月12日、ドミニクはドン・ボスコに帰宅の許可を求め、母親が病気だと言ったが、連絡はなかった。ドミニクの母親は当時、出産を控えており、酷い痛みに苦しんでいた。ドミニクが家に着くと、彼は母親を抱きしめキスをしてから家を出た。母親は痛みが消えるのを感じ、ドミニクの妹キャサリンが生れた。出産に立ち会った女性たちは、ドミニクが母親の首に緑色のスカプラリオを残していったのを発見した。妹のテレサは後に出産時に同じスカプラリオを身に着けた。テレサは、スカプラリオが他の妊婦数人に回され、後に紛失したと証言した。 

チャールズ・サビオがドミニクの死後に見た幻覚 
ドミニク・サビオへの崇拝は、彼の父親が語ったある出来事と共に高まっていった。

「私は息子を失った事で大きな悲しみに暮れ、あの世で彼がどんな立場にいるのか知りたいという欲求に駆られていました。神は私を慰めて下さいました。息子の死後約1か月、とても落ち着かない夜、まるで天井が開き、眩い光の中にドミニクが現れたかの様でした。私はこの光景に我を忘れ、叫びました。「ああ、息子よ、ドミニク、貴方はもう天国にいるのですか?」 「はい」と彼は答えました。「私は天国にいます。それから、貴方の兄弟姉妹、そして貴方の母と父の為に祈りなさい。私たち全員がいつか天国で貴方と合流できます様に。」 「はい、はい、祈ります」と答えました。「すると彼は姿を消し、部屋は以前の状態に戻りました。」

ドミニコ・サビオの生涯
ドン・ボスコのドミニコ・サビオの伝記は、彼の列聖に貢献しました。

ドミニコの死後まもなく、ドン・ボスコは彼の伝記「ドミニコ・サビオの生涯」を書き、それが彼の列聖に貢献しました。オリジナルのイタリア語版は、ドン・ボスコの時代に非常によく書かれたと考えられ、彼の「イタリアの歴史」と「教会の歴史」と共に、多くの公立学校でイタリア語のコース教材の1部として使用されました。ドン・ボスコの他の著作には「ジョセフ・カファッソ神父の伝記」、「フランシス・ベスッコの生涯」、「ミカエル・マゴネの生涯」があります。

教皇ピウス10世は、ドミニコ・サビオの列聖プロセスを開始しました。 

崇敬
ドミニコは列聖されるには若すぎるという意見もありましたが、教皇ピウス10世はそうではないと主張し、彼の列聖手続きを開始しました。ドミニコ・サビオは1933年に教皇ピウス11世によって尊者と宣言され、1950年3月5日に教皇ピウス12世によって列福され、1954年に聖人と宣言されました。教皇ピウス11世は彼を「体は小さいが、精神はそびえ立つ巨人」と評しました。

出典元・Wikipedia(英語版・Google翻訳)



サムネイル

昨日は、「聖ドミニコ・サヴィオのチャプレット」専用ロザリオを、リメイクしました。その理由は、この専用ロザリオには、環状部分は「青🔵」直線部分は「白⚪」と、色指定が有る事が判明した為です。写真左側がリメイク前、写真右側がリメイク後です。


あと、サイト「信心の園」では、環状部分の小珠が15個と記載されてますが、正しくは「14個」で有る事が判明しました。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ
にほんブログ村