世の終りに関する聖ルイ・デ・モンフォールの考察



<聖ルイ・デ・モンフォールの著作の引用による修道士の著述>


ステファノ・フィロレス修道士




a.最初の段階:公教会の悲劇の有様


モンフォールの如き宣教師にして神秘家の眼中において、公教会の有様と彼の時代の社会は充分ならざる慰めを差し出しました。また歴史家らは、17世紀末の状況がフランスの聖職者の関与が結果として良くなかった事に同意していますが、モンフォールは同意していません。彼の文書を集めた物の中で、彼は現代のキリスト教の実行の「遍く失敗」について、「世の不正な王国」と「天主の敵共の支配」について言及しています。罪を浸す波は宇宙的局面を乗せ、公教会自身にさえ、それを免れさせぬのである。御身の聖福音は捨てられ、不平等の急流は御身の下僕らさえも拐い、全世界を浸水するであろう。国全体は荒廃し、邪悪はいとも高く支配し、御身の聖域は冒涜され、虚しく憎む者は御身の聖地さえも悪に染めたのである。」公教会は彼女御自ら「衰えゆく遺産」「彼女の子らの犯せし罪によりて弱められ汚され」となりました。罪の支配の後にモンフォールは悪魔の仕業を見、そしてそれは「日々反キリストの統治の出現まで増大していくであろう。」もし天主の御干渉が変化をもたらさぬならば自らの死をこい願わんと、モンフォールは狼狽します。「天つ御国より御身の御助け、もしくはわが死を送り給え。」かくの如き重大にして差し迫りし危難に直面せし時、彼は警戒の叫びの声をあげる事を強いられていると感じます。「天主の宮居は火中にあり…助けよ!」



b.第二の段階:救霊の沿革の範囲におけし天主の御干渉


仲介の段階はいとも活発にして動的です。なぜなら、この段階の間、我々は男女の心中に罪の統治と、イエズス・キリストの統治を通るからです。モンフォールはイエズス・キリストの内に天主の御国が来世に投入さるるべきではなく、この世において生まるるべき物と確信しています。「御国の来たるべきは真なるや」これはマリアへの真の信心の初文からの中心思想です。「祝せられた童貞マリアによりてイエズス・キリストは世に来り給い、そして彼が世をしろしめし給うもまた彼女によるべきである。」何者が世界を変え得るのでしょうか?モンフォールにとって疑いはありません。天主だけがその様な仕事を達成出来ます。彼は「愛と義、火の氾濫」を持って介入されるのです。この天主の御干渉は人類の内に、殊に「終末の使徒」を通じてであります。彼らの仕事は二重であり、「罪を破壊し、イエズスの御国を準備する事」です。




第4課


c.終末の使徒:彼らが天主の御計画の実現に対する必要とされる手段であり、その事は以下で詳述されます。




d.サタン


サタンは天主の御計画に反対し、自らの計画を確立します。「彼はマリアの踵への恐ろしき攻撃を企て」「彼の攻撃を更に増し」また「反キリストの統治まで増加する邪悪な迫害を扇動するのである。」天主の敵共との戦いに悪魔は優位に立ち、世の終りにおいては活発なる仲立ちとなるでしょう。「激怒によりて震え、彼らはあらゆる面で破壊の用意が出来たと罵り、反抗し、結託し、警告を出すであろう。」




<第三章>


終末の使徒


またもモンフォールの言い回しになりますが、一度のみ使用して、終末に関する彼の考えを纏めます。彼はこれらの使徒の状況、活動と霊性を解説します。



1.彼らは何者なるか?


彼らの正体は徐々に明らかになります。モンフォールは最初に、「偉大なる聖人」「聖寵と熱誠に満てし霊魂達」について語ります。彼はそれから「イエズス・キリストの勇敢なる兵士達と忠実なる下僕達…祝せられた童貞の真しもべ達と子ら」の彼らについて言及します。「選ばれた者達」「これらの下僕、奴隷、マリアのこれらの子ら。」最後に彼は彼らの聖職の特徴について言及します。「祭司の子にして主に仕える者」「終末の真の使徒達は…他の司祭、牧者、聖職者らの只中で」マリアの御団への使命を求むる熱き祈祷において、「宣教者達」そして「司祭達」の事を語ります。彼の志した宣教の司祭らの会衆は、これらの使徒の中核を形成します。然しながら、世の終りの大変なる戦いと活動は、彼らの唯一の権利の保有ではありません。他の2つの預言的な文書では、モンフォールはマリアがいとも高く支配され給う「選ばれし霊魂」を更に一般的に語ります。「イエズスとマリアの両男女の勇敢にして雄々しき兵士達の力強き軍団を」抱擁せんと、視野を広げます。




2.彼らの活動


終末の使徒達の働きは、基本的に一方は陰極、他方は陽極の2つの柱の周囲をぐるりと回ります。最初の柱は悪の軍隊に対する一連の積極的な行動を含みます。彼らは「戦い、打倒し、制圧するのであり」、彼らは「罪に対する稲妻であり、彼らは世に対する嵐となり、悪魔とその追従者を打ち倒すのである。」彼らは「世の偉人と富豪と奢れる者への死の香りであり」同じ線に沿ってモンフォールは「天主の敵共」を攻撃して倒す宣教者らを予期し、「蛇の頭を踏み砕き給う」御者が、彼らの熱心なる天への祈祷を「彼らが敵共に打ち克つか、もしくは回心させる武器と変じ給う事を申し出られるのである。」


更に詳細に記述された陽極の柱は、世界に教会とその拡張の改革に向けられる行動から成り、彼らの「牧者は地上の信仰を新たにし、御身の公教会を改良するでしょう。」この目的で終末の使徒達は、聖化の使徒的な働きを運び、彼らは「至る所で天主の愛の火を灯し」「彼らが何処において説教しても、彼らは後に愛の黄金のみを残すのである。」彼らは「イエズスの甘美なる香り」であり、彼らは「真のソロモンの神殿と、天主の神秘の町とを建設するであろう。」そして彼らは「天主の御言葉と永遠の生命の雨を降らせ」更に彼らは主の帝国の拡張の為に働き、「不信心者共と偶像崇拝者共とイスラム教徒らを倒し」「イスラム教徒、偶像崇拝者共、ユダヤ教徒らにさえ、彼らの回心の為に火の氾濫を受けさせるであろう。」



<第五章>


モンフォールの霊性の結果


時間に沿ったモンフォールの教え全体は、モンフォールの霊性ゆえに貴重です。モンフォールは我々に過去を思い起こさせ、永遠なる者の考慮の内に現在を評価し、とりわけ世界の将来に備える事を強いています。



1.モンフォールの生涯の鍵


聖ルイ・デ・モンフォールの巡回宣教者となる決意は、初期の頃の使徒の生活を送りたいという彼の望みの表れとしてしばしば説明されました。この説明は真実のままであり、然しながらモンフォールの未来に向けての予測をもって補われなければなりません。この宣教者が自らの短き生涯で達成した莫大なる活動はまた、イエズス・キリストの統治の宣言において感じられた、差し迫りし物でありました。この固有さは、彼の説教と文書双方の物であり、またキリストの英知の手本によって、また貧しさの内に生くる使徒達によって導かれた事に疑いの余地はなく、モンフォールの存在は罪の統治をイエズス・キリストの統治に改められる事の差し迫りし必要による活動力を与えられます。聖人御自ら、従って霊の御息吹とマリアの母性的御活動に通じています。そして公教会を改善し、地の面を新たにせんと燃ゆる聖職者となりました。



<悪魔に対する聖モンフォールの考察>


モンフォールはしばしば、世界と悪魔とを結び付けています。なぜなら世界は未だ天主に向けて創造されていない事を理解しているからです。何であれ、従って真の宗教的目的によって動機づけられていないならば、それが演劇、科学、文学、その他の何かであれ、モンフォールはせいぜい時間を浪費し我々を天主から遠ざける手段と考えます。「世界」、そして「悪魔共」はイエズス・キリストの統治への反対の内に結託します。この感覚において、世界は「サタンのシナゴーグ」であり、「悪名高いバビロン」です。この宣教者の悪魔における関心事は、悪魔に対する知識を増す事にあるのではなく、悪魔共を改革と刷新の彼の使徒に対する障害と見なす事にあります。悪魔は人類が天の御国における彼の立場を呼び起こす事を見て恥じ入り、世人を天主より引き離さんと試みます。彼は堕落者とならせ主に対し敵意を向けさせんと全てのあらゆる罪に向けて可能な限り多くの者を引きずり込もうと試みます。モンフォールは言葉を繰り返します。「貴方の敵は悪魔である。騒々しき獅子の如くであり、何者であれ滅ぼし尽くさんとして探し回っているのである」

 



アルスの司祭 聖ヴィアンネによる最後の審判

 


「わが子らよ、我々の教理は、全ての者が死ぬる日において特定の審判を経るという事を教えている。最後の吐息を吐くや否や、我々の霊魂は身罷りしその場を離れる事なく、天主の法廷の御前にあるのである。我々は何処でも死にうるのであり、天主は御自らの審判を動かし給うのである。この善なる天主は、わが子らよ、我々の歳月を測り給いて、彼がこの地上に我々を留め給う事を決められしそれらの年月より、我々の最終の事を選ばれたのである。他日に続くある日は、我々は見る事が出来ぬであろう。その1時間の後には、我らに更なる時間はないであろう。時間と、この瞬間との間との差は何であろうか。わが子らよ、生命は煙となり、光は蒸気となる。それは大気中を滑空する鳥、海上に出る船より早く消え、その進路の跡を残さぬのである。いつ我々が死ぬのであろうか。ああ、それは1年、1ヶ月内にあるであろうか。明日、今日ではないだろうか。数多の事が起こる我々にそれが起こらないであろうか。それについて貴方が考えず、己を楽しませている刹那、不信心のバルタザールの如くに天主の裁きに招かれるという事かもしれぬのである。この永遠に入る霊魂の驚きは、それから如何なる物であろうか。当惑し、その時より親類や友より切り離され、それらの如くに天主の光明に囲まれ、創造主を、慈悲深き御父ではなく、厳格なる裁き主を見出す。己を想像してみなさい、わが子らよ。この世を離れし霊魂が、この審判の法廷、ただ天主の御前に現れるのを。その片側は天国であり、地獄はもう片側である。如何なる物が、その前に提出されるであろうか。それはこの生涯全体の絵巻である。全ての思い、言葉、行いが調べられるのである。」


出典元・信心の園


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