アヴェ・マリア「天使祝詞」


「私の唱える”めでたし”、15連、又は5連のロザリオは、悪霊に騙されている者達と、神の聖霊に導かれている人達を見分ける事が出来、誤る事のない基準です。」(聖ルイ・デ・モンフォー)


「私達が『めでたし』の祈りで挨拶を述べれば、聖母は御恵みでその挨拶を御返し下さる。」(聖ボナヴェンツーラ)


ある日、聖大ゲルトルードは、金貨を勘定していられる主を見ました。そこで、一体何をなさっていらっしゃるのですかと主に御尋ねする勇気を奮い起こしてそうすると「貴方達の唱えた”めでたし”の数を数えている。この祈りで貴方達は天国への切符を買う事ができるのだから。」と主は御答えになったのです。


ある日聖マチルダが、聖母への愛を表現するのに、今まで自分がしていたのよりも更に優れた方法はないものかと思案しながら祈っていた時、恍惚の状態に入りました。聖母が、金色の燃え立つ様な字で書かれている天使祝詞を御自分の胸に押し当てながら聖女に御出現になり、「我が娘よ、いと尊き三位一体が私に遣わし、それによって私を神の母という高い位に挙げて下さった天使祝詞を唱える以外に私を喜ばせられる人は誰もいない事を貴女に知って貰いたいのです。」とおっしゃいました。


「天使祝詞を唱えて聖マリアを賛美し、崇める時、聖母は必ず、聖エリザベトが聖霊に満たされ、声高らかに「貴女は女の中で祝福された方です。胎内の御子様も祝福されています。」と神を賛美したのと同じ様に、私達の賛美を全能の神に伝えて下さいます。」(聖ルイ・デ・モンフォー)


「この天使の祝詞を愛する人達には、彼らが救われる運命にあるという特別の刻印が確かに押されているという事です。」(福者アラン)


「”めでたし”の祈りは、神に救いを予定されている人々の上に天から降り注ぐ神聖な露です。」(聖ルイ・デ・モンフォー)


「霊魂という庭がこの祈りによって洗われれば、人間の知性にはいよいよ磨きがかけられ、心は益々熱意に燃え、霊的な敵を相手とする身の護りは一層強固となります。」(聖ルイ・デ・モンフォー)


聖なるロザリオの信心を回復するのに活躍した福者アランの弟子であり、協力者であったサルーブルの司教ミシェル・デ・リルは、天使祝詞について、私達が聖母を祝し、信心深くこれを唱える限り、全ての病の癒しとなると述べています。


「貴方は無知と過ちという暗闇の中を手探りで進んでいるのですか?もしそうならば聖母マリアに近づいて"めでたし、マリア"とお唱えなさい。これは『めでたし、正義の太陽の光に浴されている御方よ』という意味であり、その方は御自分の光を必ず貴方に分けて下さいます。」(聖ルイ・デ・モンフォー)


「天から降ったこの祝詞は、イエズスとマリアの御恵みを私達に豊かに注いでくれます。」(聖ルイ・デ・モンフォー)


「”めでたし”を構成している言葉はほんの僅かですが、驚く程の神秘性に富んでおり、蜜よりも甘く、黄金よりも貴重なのです。私達は始終”めでたし”の祈りについて心の中で黙想に耽り、幾度も幾度も深い信心をもって口に出して祈らなければなりません。」(聖ルイ・デ・モンフォー)


「貴方は惨めな罪の状態に浸っていますか?だとしたら聖母マリアに救いを求め、”アヴェ”と唱えて下さい。”アヴェ”とは”私は最も深い敬いの心をもって罪の汚れのない御身に御挨拶させて頂きます”という意味です。こう唱えれば、聖母は貴方の犯した罪の災いから貴方を救って下さいます。」(聖ルイ・デ・モンフォー)


聖トマス・アクィナスはイタリーのローマで天使祝詞のみに関して40日間続けて説教しました。


「この新しい讃歌は、神の御母を称賛しており、直接マリアに向けて歌われていますが、それにも拘らず、それは聖母よりも遥かに、いとも聖なる三位一体の栄光を讃えているのです。」(聖ルイ・デ・モンフォー)


「1つの”天使祝詞”の祈りを目立った熱情なく唱えたとしても、不毛な時において純粋な意思を伴って唱えられるのであれば、それは慰めの只中において唱えられた一環のロザリオよりも、私の視覚の中ではより多くの価値を持っています。」(聖ベニグナ・コンソラータへの聖母マリアの啓示)


アビラの聖テレジアは1つの「天使祝詞」の功徳と価値がどれ程であるかを私達に教えます。聖女の死の直後、共同体の修道女の内の1人に御出現になり言われました。「1つの敬虔に唱えられた”天使祝詞”に天主が報いられる栄光の度合いに対して、喜んで時の終わりまで苦しみの生活に戻る事が出来ます。」


<聖エドマンドと天使祝詞>

カンタベリー大司教であった聖エドマンドは至聖なる童貞に対する大いなる信心を育てました。聖人が学びの為にパリに送られる時、聖人の母親は彼が天的保護者に依り頼み奉らずに決して一日を過ごす事のない様に勧めました。高徳なる母親はしばしば聖人に悪しき交友を避け、償いと御聖体の秘蹟にしばしば赴く様に手紙を書き、また節制の為の苦行の道具を送り、彼女は悪しき傾きが徳を害する可能性がある事を言いました。母親の忠告に従順であったこの聖なる若者は、常に自らマリアの栄光への熱意を表していました。聖人は日に幾度も御像の前にて身をかがめていました。聖人は天使の元后の仕えにある約束の印として一つの指の指輪に聖母の御姿を刻ませ、天使的挨拶(天使祝詞)の全文を置きました。祝せられしエドマンドの帰天後、彼の司教指輪に同じ祈りの刻まれし事が伝えられ、それは非常に多くの数の癒しの目的に用いられました。我々は指輪に天使祝詞を刻まぬならば、それを心に刻むべきです。


(教会認可)


名前を伝えられていないある男性は、「天使祝詞」をゆっくりと唱える事の内に、喜びを見出しました。その御礼に聖母はこの男性に御出現になり、微笑まれながら死を迎える日を告知なさいました。彼は聖にして幸いなる死を与えられました。彼が息を引き取った後、彼の口から花びらに「天使祝詞」の載った白いユリが伸びました。


セザリウスこれに類似した話しを伝えています。ある慎ましき聖なる修道士は精神と記憶に乏しく、非常に弱き人で、唯一「天使祝詞」の祈りを繰り返す事が出来るだけでした。この修道士の死後、彼の墓の上に育った木の全ての葉に「天使祝詞」が載っていました。


聖大ゲルトルードは伝えられました。「我々が如何なる聖人に対してであれ、その聖人への天主の与え給いし聖寵に感謝し奉る時、我々は固有の聖寵を大きく共有し奉るのです」天使祝詞はまた天主が祝せられた童貞に与え給いし聖寵に感謝し奉る手段ともなります。


曾て我らの主はアシジの聖フランシスコに対し、何を与えるかを御尋ねになりました。聖人は答えました。「愛する主よ、私が御身に与えられます物は何もない故に、私は既に全てを、私の全ての愛をお与え致しました。」主は微笑まれながら言いました。「フランシスコよ、それを全く幾度も幾度も私に与えよ。それは私に同じ喜びを与えるであろう。」「天使祝詞」を幾度も繰り返し唱える時、それは至聖三位一体と祝せられた童貞に同じ喜びを与える物であるに違いありません。



<天使祝詞の御力>

1920年 アイルランド 教会認可


(ランカシアのある司祭の話)


「ある日正直な労働者が司祭館に来て、すぐ私と話したいと頼みました。彼は自分は公教会信徒ではないが、この先余り長くは生きないであろうと信ずる衰弱しつつある彼の妻の下を親切に訪問するのであれば、大変感謝すると言いました。私は彼女が公教会信徒であるのかを尋ねました。『いいえ』と、彼は答えました。『しかし彼女はお目にかかると言って譲らず、また他の宗教については耳を傾けません。』そうして尋ね、彼が住まうのはその町の最も悲惨な地域である事が判りました。家に着くと、1人の貧しき女性によって最も熱心に迎えられました。彼女は我らの宗教を宣言しました。私はこうした事に驚きました。なぜなら、私は彼女の縁者、隣人の誰1人として公教会信徒ではない事を知ったからです。そこで私は彼女が本当に私が公教会の司祭である事を知っているのかどうか、幾分心配しながら尋ねました。彼女は肯定し、自分の言う事が何であるかを完全に理解すると付け加えました。この様な状況下で、私は直ちに指導を始め、この女性の如何に速やかなるかを見出して驚きました。私の教えねばならぬ全てについて、彼女は大変熱心で、関心を抱き、また非常に記憶を保ちました。告解と聖体拝領の教えは彼女を煩わせませんでした。また死がそれ程近い様ではなかったので、私には完全な調整の時間がありました。彼女は6週間後に初めて告白を為し、死の近づいた時には大いなる信心をもって終油の秘蹟を受け、少し後に悟りたる、大いなる幸いの死を迎えました。彼女は死の前に、夫が公教会信徒となり2人の子供を公教会の学校に通学させ、信仰の内に育てる事を厳粛に約束させました。彼は誠実にこの約束を果たしました。彼は自身の回心を、痛み多き病の間に示されし驚くべき忍耐と陽気さに負っていると断言しました。私自身は彼女の回心がいとも誠実で有った事に僅かな疑いもありません。彼女の死において、彼女が心からの公教会信徒であった事を確信しております。貧しき女性の得し特別なる聖寵に驚き、私は自然的に彼女が如何なる方法でその様な恩寵に値したのかを知りたく思いました。私は彼女に病に罹る前に公教会に入った事があったのかを尋ねました。否定の返事を受け取りましたので、私は続けました。『貴女はこれまで公教会の司祭と話しをしましたか?』『いいえ』と、彼女が答えました。そうして私は彼女が"主祷文"を知っていたかと尋ねました。彼女はそれを、また"使徒信経"も知りませんでした。私は彼女に尋ねました『貴女は、これまでに他の祈り唱えましたか?』最初に彼女は否定して答え、それから私が彼女が就寝前に決して祈らないかどうかを尋ねた時に、彼女は答えました。未だ確かではないが、唱えたものが祈りの名に値するならばと、そして躊躇いながら微笑みました。『私が少女だった頃、私はしばしば一部の公教会信徒の子供達と遊び、そして私は彼らから幾つかの言葉を捕えました。そして、それを私は就寝前に毎晩繰り返したのです。』彼女はそれからその言葉を挙げました。『めでたし、聖寵満ちみてるマリア』などなど。秘密が遂に発見されました。臨終において彼女の天的御母なるマリアは、御自身の物の為に彼女を求めました」


聖アルフォンソ・リゴリオ教会博士は天使祝詞を、諸聖人の味良き言葉と呼びました。聖人はこの祈りを唱える時に、同じ喜びを感ぜぬ様な事は決して体験しませんでした。また聖人は聖務日課の始めにそれを唱える時に、しばしば歓喜の涙を流し、説教においては会衆に絶えずその力について語りました。


ローマ公教会に対する強い偏見をもったプロテスタントのヒューマラー博士は、ある日「天使祝詞」の解説を見つけてそれを読みました。彼がそれを毎日唱え始めるとすっかり魅了され、公教会に対する憎しみが消え始めました。彼はやがて、司祭になり、ブレスローの神学校の教授になりました。


「めでたし聖寵満ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女の内にて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せられ給う。天主の御母聖マリア、罪人なる我らの為に、今も臨終の時も祈り給え。アーメン。」


「結論として、天使祝詞は、天とこの世の架け橋である虹、神がこの世に与えて下さっている憐れみと恩寵の印なのです。」(福者アラン)



<金のめでたし>

教会認可


愛と思いとを込めて唱えた、1つの愛の「めでたし」は、数多の祈りの空読みよりも良く、ある者、長き祈りの聖務を妨げられたる時は、ただ1つの「めでたし」を、愛と心配りとをもって唱えよ。心より湧きいづるそれは、「金のめでたし」である。それはマリアよりいと大いなる祝福をもたらす。我らは如何にして、日々の「めでたし」が、我らより彼女の御あらかにもたらされ、マリアの王座の御前に至るかを、決して知る事はない。もし我らが、「マリア、天主の御母よ」の語の内に住まうなれば、彼女の御子にして主なるイエズスを敬わざる事になろうか?そして、「今も臨終の時も、我らの為に祈り給え」と。

それは、我らの出くわす、霊的怖れの時である。ああ!その時は、我らが真に、助けを要するのであり、我らが、甘美なるはした女なるマリアに向かうのである。もし貴方が、ただ1つの「めでたし」を真に、毎日1つ唱えるならば、彼女は貴方を助け給うであろう。 



三回の天使祝詞のチャプレット

(私的信心としてのみ用いられます)


このチャプレットは、一般のロザリオを用いて祈られます。


先ず始めに、次の祈りを唱えます。


「天の永遠の御父よ、マリアの汚れなき御心によりて、この三つの天使祝詞のチャプレットを、煉獄の全ての聖なる霊魂の為、地上の惨めなる罪人の為、殊に司教、司祭、修道者、そして我が家と家族の為に、いと聖なる御旨に一致して捧げ奉る。キリストの御名によりて、聖霊との一致の内に、世々永久に至るまで一なる天主かな。アーメン。」


「終生童貞にして、御父の御娘よ、我らの為に祈り給え。終生童貞にして、御子の御母よ、我らの為に祈り給え。終生童貞にして、聖霊の浄配よ、我らの為に祈り給え。」


十字架の御像で、「十字架の印」を行い、「使徒信経」を唱えます。


<使徒信経>

我は天地の創造主、全能の父なる天主を信じ、またその御独り子、我らの主イエズス・キリスト、即ち聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ、ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架につけられ、死して葬られ、古聖所に下りて、三日目に死者の内より蘇り、天に昇りて全能の父なる天主の右に座し、かしこより、生ける人と死せる人とを裁かん為に来り給う主を信じ奉る。我は聖霊、聖なる公教会、諸聖人の通功、罪の赦し、肉身の蘇り、終わりなき命を信じ奉る。アーメン。


 


次の大珠で、「主祷文」を唱えます。


次の3つの各小珠で「天使祝詞」を唱えます。


次の大珠で、「栄唱」と、「ファティマの祈願」を唱えます。


 


<ファティマの祈願>

「ああわがイエズスよ、我らの罪を赦し給え。我らを地獄の火より守り給え。又、全ての霊魂、殊に主の御慈悲を最も必要とする霊魂をして天国に到らしめ給え。」


そして、次の祈りを唱えます。


「御聖体の内に在し給うイエズスよ、我らを憐れみ給え。御聖体の聖母よ、我らの為に祈り給え。生ける天主の聖なる天使と聖人よ、我らの為に祈り給え。アーメン。」


最後に十字架の御像に戻り、「十字架の印」をして、十字架の御像に接吻して、チャプレットを終えます。 



金のめでたし


祝せられた童貞の御出現の間、聖ゲルトルードは聖三位一体が三枚の花びらで白ユリの形状下で表されている事に気がつきました。また聖母に対し「天の眩きバラ」、そして「聖三位の白ユリ」として敬礼する者に代わって、御母が聖三位一体に影響を及ぼされる事を御知らせになりました。



<めでたし美わしきマリア>

めでたしマリア、輝かしく常に晴朗なる聖三位の白ゆり。めでたし、天上の歓喜の園の眩き薔薇。おお御身、そなたによりて神が生まれん事を望み給い、そなたの乳によりて天の王が養われん事を望み給いし御者。我らの霊魂を神の御恵みの流出によりて養い給え。アーメン。



聖母マリアから聖ゲルトルードへの御言葉


「この様に私に挨拶した霊魂が肉体を離れる時、私は彼らに輝く美しさをもって現れ、それによって彼らは楽園の喜びの幾分かを味わい、これは彼らに大いなる慰めとなりましょう。」(啓示の書Ⅲ 第8章)



<聖大ゲルトルード童貞の二つの花の祈り>


「めでたしマリア、輝かしく常に晴朗なる聖三位の白ゆり。めでたし、天上の歓喜の園の眩き薔薇。おお御身、そなたによりて神が生まれん事を望み給い、そなたの乳によりて天の王が養われん事を望み給いし御者。我らの霊魂を神の御恵みの流出によりて養い給え。アーメン。めでたし、天主の尊貴なる生けし宝玉よ。めでたし、イエズスの絶えずいとも愛し給う御者。人類の霊威の花よ。御身はわが君にして唯一の善なり。」 



アヴェ・マリア 天使祝詞 Ⅱ

 

「聖霊は無原罪の聖母によらざれば、働き得ないのである。無原罪の聖母は聖霊の花嫁であり、故に無原罪の聖母は全聖寵の執成し手なのである。」(聖マキシミリマノ・マリア・コルベ)


<マリアよ、助け給え>

1920年 教会認可


以下の物は非常に単純な話しであると我々は言うでしょうし、その様にしばしば言われます。これは奇跡的御執成しへの占有を訴えませんが、我らの優しき御母が同じ仁慈深き憐れみを示し給う為に与えらるる、それぞれの時は、愛の新鮮なる動機であり、全ての彼女の忠実なる願い手への謝意です。


リエグに住まうある家族は大変なる苦悩の中におり、彼らは以前にはより良い状況にありましたが、父親が日雇いのありふれし労働を強制されし後に徐々にその様な貧しさに陥りました。慣れぬ彼の果たさねばならぬ重労働は健康に響き、下僕的な勤めの間、生来の誇りは彼を厚顔にしました。それに加えて彼の妻は重病に陥って衰弱し、2人の年長の子供達は病に罹りました。彼の帰宅したある晩、長い一日の労苦の後で彼は消耗しており、妻のベッドの傍らに座り、夜通し彼女を見つめました。彼は悲しみに押し潰されて絶望寸前の不安に悩まされました。信心深きキリスト者であった妻は、虚しくも彼を慰めようと努めました。長女は彼に言いました。「愛する御父様、天使祝詞を唱えますと我らの祝せられた御母は貴方を御助け下さいますでしょう。」「私はもうこれ以上は祈れないよ。」彼は苦々しく答えました。その様に語って突然身を起こすと、闇夜の中を走り抜けて行きました。長い間あてもなく彷徨い、遂に涙が溢れ出し彼の痛む心が解き放たれました。そして跪いて叫びました。「ああマリアよ、助け給え。」自らの信頼の蘇りを感じて、天の方に手を差し出して天使祝詞を唱えました。彼は膝から立ち上がると、何かが地面にあるのを見ようとしてかがむと、それは紙幣が満杯の財布である事が判りました。それを所有者に戻す意図をもって帰宅すると、1人の紳士に出会い、紳士は財布を見なかったかを尋ねました。貧しい男は「さあ、これを。」と応じました。紳士は謝意に満ちて、紙幣の内の1枚を渡し、また同時に貧しい内にあるのかと尋ねました。喜びの涙と共にこの幸いなる男は叫びました。「はい、少し前にありました。しかし私は最早そうではありません。」数日後にその紳士はその家族の境遇に関わる詳細な調査をさせ、彼らに最大の寛容をもって永久的な援助を送りました。喜びはその時、更にこの粗末な小さな家に戻りました。母親は即治し、子供達は再び強くなり、苦悩と貧しさは終わり除々に父親は以前さを取り戻しました。彼はしばしば最も心からの謝意で我らの祝せられた御母が彼の困窮において彼に差し出し給いし御助けを思い起こして、1つの天使祝詞によって絶望より救われる方法を関連付けます。



<13世紀の欧州の伝承>

善良にして単純なる平信徒のある男はバラの花の冠や、季節の花で冠を作って聖母の御像の御頭に置く事を習慣としていました。彼は大いなる喜びと敬虔の念をもってこの信心をしていました。聖母は彼の心に善なる意向を御覧になられ、それを進めるのを助ける為に修院での生活を始めたいという願望を与えました。そして彼は修院の平修士になりましたが、修院で彼が日常の習慣としていた聖母への花冠を作る時間がない程に多くの労働を与えられ、やがて不満を感じる様になりました。その時、年上の司祭が彼の苦悩に気づきました。司祭は賢明に彼に毎日チャプレットの中で50回の「天使祝詞」を繰り返す事を助言し、それは聖母がこれまで作られた全てのバラの花冠よりも好まれるという事を信じさせました。平修士はその助言を守り、暫くの間それを続けました。ある日彼は用事の為に、乗馬して強盗を匿った森を通りました。森で彼は疲れた馬を木に繋ぎ、跪いて、50回の「天使祝詞」を唱えていました。泥棒は彼を見て、彼から馬を奪う事を決めて馬を盗もうとしました。彼は「天使祝詞」を唱えていました。泥棒が彼に近づいた時、泥棒は素晴らしく美しい少女が彼の傍らに立っており、彼の口より各々の小さなバラを取って、彼女の製作中の花輪に加えているのを見ました。バラの花冠が完成すると、彼女はそれを自らの頭において天に飛び去りました。泥棒達は全く驚いて、修士かけよってあの美しい少女が誰であったかを尋ねました。修士は答えました。「私にはどんな少女もおりませんでした。

私が教えられました、元后なるマリアの花冠として、50回の天使祝詞を唱えておりましたのみです。それが私の知っている全てです。」泥棒達は自分達が何を見たかについて話した時、修士も泥棒も、それが毎日送るのを習慣としていたバラの花冠を受けられた天主の御母である事を理解しました。そうして修士は心底より、それ以前よりも喜んで毎日50回の天使祝詞で霊的花冠を作り、また他の善良なる人々にこの実行を教えました。



<天使祝詞について マリアンプレスの発行物より> 1954年9月13日 教会認可


Ⅰ適切に唱えられた各「天使祝詞」は、聖母にもっとも大きな喜びを与える事になります。


Ⅱ各「天使祝詞」は我々の為に素晴らしき聖寵を得させます。


Ⅲ適切に唱えられた「天使祝詞」は、不適切に唱えられた多くの物よりも更に価値を有します。我々が全ての「天使祝詞」を適切に唱えるならば、我々の受ける聖寵は受け取りきれぬ物でしょう。


Ⅳ天主の御母となられし大いなる時の、聖ガブリエルの申し出における正にその喜びを我らの甘美なる御母に捧げるという事を、「天使祝詞」を唱える為に完全に覚えておかねばならない事です。


Ⅴその報いとして、我らが「天使祝詞」を唱える時、今際において我らの為に祈り給えと熱く求めます。そして我らの生涯の間、また臨終において。


Ⅵ聖ガブリエルと、世の至る所で唱えられし全ての数限りない「天使祝詞」との一致の内に、「天使祝詞」を捧げましょう。


 


聖大ゲルトルードは「啓示の書」において我々に伝えます。我々が何方かの聖人を与えられし御恵みを天主に謝し奉る時、我々は彼らの御恵みの大いなる共有を得ます。祝せられた御母を与えられし全き御恵みに対しイエズスへの謝意で我々が「天使祝詞」を唱える時、我々はその御恵みを受けないでしょうか?



「とりわけ"マリア"の射祷をよく唱えたかを考えよ。」(聖マキシミリマノ・マリア・コルベ)


出典元・信心の園

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