天主の偉大な賜物:告解

(天主の偉大な賜物より)


もし人々が告解の真の価値を知ったならば、彼らは告白に入る為に奮闘するでしょう。この和解の為の秘跡は、私達の罪を私達からただ取り除く以上の事をします。それは私達に清められた聖寵の莫大な増加を与えます。それはいや増された天主との一致と共に、天における私達の為のより高い場所を勝ち取ります。私達が告白に行く毎に、私達がもしそうでなければ起こっていたかもしれない多くの危険又は不幸から守られています。告白は天主と私達との和解であり、私達の欠点を、高慢を認め、私達は天主との一致の中にある事を望み、全てのこの正直かつ人生の内における真の改心は、天主の加えられた聖寵より来るでしょう。私達に対するサタンの力は軽減されます。私達が罪に抵抗するのを助けます。改心と和解、これらの言葉が意味する物なくしては、赦しの秘跡は迷信的習慣となる事になります。信心深き告白は、私達が聖霊の霊感を聞くのを助けます。これは私達に霊的な腕力を加える事が与えられ、私達の守護の天使の助言に聞き従う事を助けます。それは大罪を私達から取り除き、小罪からさえも自由にあるというより大きな望みを与えます。それは私達に情欲の炎に対して特別に保護する影響を与えます。


教皇パウロ6世聖下は告解について、”…道徳的な知恵の学び舎、霊的な活動力の修練の理由…”と記述されました。教皇ピオ12世聖下、聖ビンセント・デ・パウロ、聖フィリポ・ネリ、尊者アグレダのマリア、そして他の多くの聖人が毎日告解に行きました。ローマの聖フランシスコは1日に3回告白しに行きました。彼らは告白が霊魂に良い物であるという事を知っているのです。パオラの聖フランシスコによって設立された修道会では、毎日の告白の実行は最も小さな規則によって、必修のものでありました。この500の修道院の設立者は、病者を治癒し、死者を生き返らせ、預言の賜物を受け取りました。彼の規則は教皇シクスト4世聖下と枢機卿団によって承認されました。



<告白の祈願>

「全能の天主、終生童貞なる聖マリア、大天使聖ミカエル、洗者聖ヨハネ、使徒聖ペトロ、聖パウロ、及び諸聖人に向かいて、我は思いと言葉と行いとをもって多くの罪を犯せし事を告白し奉る。これ我が過ちなり、我が過ちなり、我がいと大いなる過ちなり。これによりて、終生童貞なる聖マリア、大天使聖ミカエル、洗者聖ヨハネ、使徒聖ペトロ、聖パウロ、及び諸聖人に、わが為に我らの主なる天主に、祈られん事を願い奉る。願わくは全能の天主、我らを憐れみ、我らの罪を赦して終りなき命へ導き給え。アーメン。願わくは全能にして慈悲なる主、我らを憐れみ、罪の赦しを与え給え。アーメン。 」



<地獄に行ったある若者の霊魂の話>

10代になったばかりの子供でさえも告白に行く必要があるという事実は一部の人にとって不可解な事柄です。しかしながらイエズス会のある司祭は伝えられます。この司祭にはアメリカでの宣教活動を支えたG神父という親しい友人がいました。これは1920年代の出来事です。1つの寄宿学校では毎朝少年達がミサ聖祭に与る為に早朝に起床していました。ある朝ミサ聖祭の直前になって、G神父は一人の少年から部屋に来てほしいと頼まれました。この少年と同室の一人の少年が就寝中に息を引き取っていたのでした。その少年は13歳ぐらいでありました。そして聖祭の準備が直ちに行われ、G神父は少年達に今朝のミサ聖祭が息を引き取った少年の為に捧げる意向でもって執り行われる事を伝えました。G神父はミサ聖祭の為に祭服を着用しようとして、イエズス会の司祭と共に部屋に入ると、突然彼ら2人の前に亡くなった若者の霊魂が立ちはだかりました。少年は2人を見て、そして言いました。「神父様、僕の為に聖祭を行わないで下さい。僕は地獄におります。昨夜眠りにつく前に、僕は不道徳で汚れた考えを楽しみました。僕は寝入ってしまう前にそれらの事を悔やみませんでした。僕は就寝中に地獄に行ったのです。」少年は驚いている2人の司祭を残して姿を消しました。



<我らの主より聖ファウスティナ童貞へ>

「貴女が告白の場に赴く時、この事を知れ。私自身が告白の場で貴女を待っているのである。私はただ司祭の近くに隠れているだけであるのだが、私自身が司祭の霊魂の内に働くのである。ここで霊魂の惨めさは憐れみなる天主に出会うのである。霊魂らに教えよ。この御憐れみの泉より、霊魂らは真の器のみによって聖寵を引き寄せるのである。もし彼らの信頼が大なる物であるならば、わが寛大は限りのない物であろう。」


 


<我らの主よりヨゼファ・メネンデス童貞へ>

「聖寵の内に霊魂を赦し回復させんとする、わが熱烈なる望みの全世界の理解を私は長く待ちわびているのである。」


「わが御心は赦しに大いなる喜びを見出すのである。赦す事以上の福楽やそれ以上の望みを持たぬのである。」



<諸聖人の言葉>

「天主の神秘の分配を任られし者なる我々の罪を告白する事が必要である。旧約の時代よりの償いの行いにも、諸聖人の御前にそれを行いし事が見出されるのである。洗礼者聖ヨハネの御前に彼らの罪を告白せし事が聖福音中にも記述され、(マタイ3:6)行いの内に使徒を認めたのである。」(聖大バジリオ)


「蛇が何者かを噛むならば、彼はその者を罪の毒によりて汚すのである。また噛まれし者が沈黙を保ち、償いを行わぬならば、また彼の負いし傷を認めぬならば…その後彼の兄弟達と、赦免の御言葉を保ち給える彼の主は彼を案じるであろうが、彼を助ける事こそ能わぬのである。」(聖イェロニモ)



<聖ドン・ボスコによりて蘇されし少年の例>

ある15歳の少年がトリノにおいて臨終を迎えました。少年は聖ドン・ボスコを求めましたが、丁度聖人はトリノを離れており、やむなく他の司祭が少年の聴罪にあたり、その後少年は息を引き取りました。聖人がトリノに戻ると少年の訃報が伝えられましたが、聖人はそれが誤解であると主張しました。聖人は少年の部屋で祈祷を捧げ、「カロロ!蘇りなさい!」と大声で叫びました。少年は目を開き、起き上がりました。「神父様、僕は今地獄にいるべきです!」少年は喘ぎながら言いました。「僕は二週間前に僕を罪に導いた悪い仲間とおりましたが、最後の告解で伝える事を躊躇いました。ああ、僕はたった今恐ろしい夢から出て参りました!数多の悪魔共によって囲まれた巨大な炉の端に立っている夢を見ておりました。彼らが炎を僕に向けた時、美しい婦人が現れて彼らを制止しました。彼女は僕に伝えました。『カロロ、貴方には未だ望みがあります。』『貴方は未だ審判にはありません。』」「その瞬間、僕は貴方が僕を呼んで下さるのを耳にしました。ああドン・ボスコ!再びまみえる事が出来ますのは何たる喜びでしょうか!どうぞ僕の聴罪をして頂けますでしょうか?」少年の聴罪を終えた後、聖人は言いました。「カロロ、今天の門は貴方に広く開かれているが、貴方はそこに行きたいであろうか。もしくはここに我々と留まりたいであろうか?」少年は暫く視線を逸し黙した後、目に涙をたたえながら「ドン・ボスコ。」と言いました。「僕は寧ろ天国に行きたいです。」少年は枕の上に仰向けになり、目を閉じると再び死の静寂に入りました。



<聖ジェラルド・マイエラに良き告解を求むる祈り>

「聖ジェラルド、良き告解の保護者にして恐れと恥じらいを克服せし霊魂を勇ませし御者よ。彼らの心に嘆き、彼らの意に決意、彼らの躊躇う唇に真理を与え給う御者なれば、良き告解を為すを助け給え。わが罪を知らせ、それを真に嘆かせ、天主の聖寵よりて二度と罪を犯すまじと決心させ給え。」



<祝せられた童貞と諸聖人に良き告解の執成しを求むる祈り>

「罪人の回心を喜び給う天主の天使と聖人は祝せられん事を。わけても御身、ああ祝せられたる童貞、悔い改むる者のより所にして、贖慮の御母よ、わが為に執成し給え。この告白、我今為さんとす者が、我の犯せし罪の描写の効をあらわさざる事なく、天主を長く怒らせしに和解の幸いと、決して更に彼を怒らせざる聖寵とを我に得させ給え。同じくわが善なる天使、わが霊魂の忠実なる保護者にして、わが罪の過ぎ去りし不義を見し御者よ、再起せんが為に御身の祈祷によりて我を助け、この聖なる秘蹟において我が助けを得、来たれる時には新しき生を送るを能わしめ給え。アーメン。」



<聖ヴイアンネの要理>

「皆さん、霊魂にちょっとした汚れでもつけば、丁度丁寧に立派な水晶の玉を仕舞っている人の様にしなければなりません。この玉に少しでも塵がついているのに気がつくと、海綿で綺麗にふき取ります。すると、どうです。この玉は明るく輝き出します。この様に、皆の霊魂にちょっとした汚れでもあるのに気づくと、すぐにうやうやしく聖水をつけなさい。また罪の赦しがつけられている善業、例えば施しや聖体の御前に跪く事やミサ聖祭に与る事などを行いなさい。皆さんは丁度、ちょっとした病気に罹った人の様な者です。医者まで行く必要はありません。ひとりでに治っていきます。頭が痛ければ、寝ればよいのです。飢えれば、食べればよいのです。だが重病だったら、そして大きな傷だったら、医者が必要です。医者の次には薬が必要です。そして何度も何度も医者、薬と繰り返さねばなりません。何か大罪に陥った時には、司祭という医者のもとに馳せつけ、告解という薬を貰わねばなりません。皆さん、神様は大きな愛をもってこの偉大な改悛の秘蹟を定めて下さいました。人々はこの神様の愛がどんなに大きいかを分かる事が出来ません。この秘蹟をわが主に願う為の聖寵が私共になかったならば、これをお願いするなどとは決して考えもつかなかったでしょう。しかし主は、私共が弱く、善の中にいつまでも留まっている事が出来ない事をよく御存知でした。そして主の愛は私共が敢えて願う事が出来なかった事を、願う様に仕向けて下さったのです。」 



カトリックの信仰と「救霊」



<聖アルフォンソ・リゴリオ 司教教会博士の記述>

「我々は聖なる公教会の子供として我々を迎え入れて下さり、我々に真の信仰の賜物をお与え下さった天主に、絶えず感謝すべきである。どれほど多くの不信心者、異端者、教会分裂者が真の信仰の幸福を喜べずにいるであろうか。彼らは地上に満ち、全てを失ったのである。貴方がキリスト教のある土地で、真実の教会に生まれる事を可能にされた天主の貴方への特別なる御愛を考慮しなさい。更に、どれほど多くの人間が、偶像崇拝者、ユダヤ教、イスラム教、或いは他の異端の教えから生まれるかをも考慮しなさい。彼らは全てを失ったのである。」


「我々は公教会が唯一の真の教会であると信ずるべきである。従って、我々の教会の外にいる彼ら、或いはそれから別れる彼らは救霊を得る事が出来ぬのである。」


「マリアは御自分に依り頼む全ての者の為に、救いを得させるであろう。ああ、もし全ての罪人がマリアに依り頼み奉るならば、一体誰が失われるであろうか。もしマリアが彼を保護されるならば、彼は救霊を得るであろう。彼が失われる事はないであろう。」


「もし貴方が死におけるまで、マリアへの真の信心を行い通すのであるならば、貴方の救霊は確実である。」


「革新者らは、主は各々に聖書についての正確な、明確な知識を与える、と言う。その様にして様々な信条を生み出した異端者らの”個別の解釈”!そうして、かつて開催した全ての大会及び教会会議の後に、一定の確信の定義を引く事が出来なかったのである。そうして誰でも、宗教改革者の内に、信ずる個人がいるのと同数の公式がある事を知っているのである。この事だけで彼らが誤っており、真の信仰を持たない事を示すのに充分である。」


「神は真の信仰がローマの教会のみで保つように整えられ、そうしてそこに1つの教会、1つの信仰、1つの完全なる正確な教義があるのである。」


「カトリックの信仰のみが奇跡を生み出す。これは異端者の間には見られぬのである。この種の植物は、天主の呪われておられる土壌の中では育つ事が出来ぬのである。それらは、真の信仰が宣言されるその教会においてのみ定着する事が出来るのである。天主は御好みになられる真の宗教以外において、奇跡が行われるのを御認めにはならぬのである。」


「災いは、偉大な愛から生命のものまでに発生する。この心の病は理解と永遠の滅びへの鉛板を弱めて暗くするのである。もし彼らがそれらを癒し、それらを清めようとするならば、彼らは間もなく光、それは救霊の唯一の公教会に加わる必要の示しを受け取るであろう。」



<あるプロテスタント信者の改宗>

ある6歳のプロテスタントの少年は、しばしばカトリック信者の友人が「天使祝詞」を唱えるのを聞きました。少年はその祈りが非常に大好きだったので、それを印刷して記憶し、自分も毎日唱えるようになりました。ある日少年は自分の母親に、「お母さん、この美しいお祈りを見て下さい。」と言いました。彼の母親は「決してもうそれを唱えてはいけません。」と答えました。「それは偶像を崇拝し、マリアを女神と考えるカトリック教徒達の迷信的な習慣です。結局彼女は他の女性と同じような女性です。さあ、この聖書を取って読みなさい。私達が行うべき物、行わざるを得なきもの全てを含んでいますから。」その少年はその日から「天使祝詞」の祈りを止め、代わりに聖書を読む時間を自分に与えました。ある日聖福音を読んでいる間、少年はマリアへの天使の受胎告知に関する部分を読みました。喜びに満ちて少年は母親の下に走り来て言いました。「お母さん、僕は聖書の中で”天使祝詞”を見つけ出しました。”恵まれた者、喜びなさい。主が貴女と共におられます。”なぜそれを迷信的な祈りと呼ぶのですか?」また別の時には”いつの時代の人々も、私を幸いな者と呼ぶでしょう。”とマリアが預言された素晴らしい”マニフィカット”と聖エリザベスの童貞マリアへの美しい挨拶を見つけ出しました。少年の母親は、もう何も言いませんでした。少年は以前の様に「天使祝詞」の祈りを唱え、我らの救い主、イエズスの御母に対し美しい言葉でお話する事に楽しみを感じました。さて少年が14歳になった時、家族の者達が聖母マリアに関して論じ合うのを聞きました。他の者達は皆、マリアが他の女と同じく普通の女であると言いました。その少年は彼らの誤っている推論を聞く事に耐えかね、憤慨し、この様に言って彼らを止めました。「マリアは罪で汚されたアダムの他の子供とは似ていません。いや!天使はマリアを”恵みに満ちた、女の中で祝された方”と呼ばれたのです。マリアはイエズス・キリストの母であり、従って神の御母です。被造物の中で上げられうるそれより高い尊厳はありません。福音書は”いつの時代の人々も、私を幸いな者と呼ぶでしょう。”と宣言していますが、貴方はマリアを軽蔑し、マリアを見下しています。」母親は答えました。「貴方の精神は、福音書をキリスト教の基礎であるとする聖書の精神ではありません。」この少年の言葉に深く印象づけられた母親は悲嘆に陥り叫びました。「おお神様!私は息子がいつかローマ教皇の宗教、カトリックに入信するのではないかと心配しております。」そしてその言葉通りに、少年は新教とカトリックの両方を熱心に研究した後、彼は後者のカトリックが真実の宗教であると理解し、入信した後は、最も熱烈な使徒の1人となりました。改宗の後、少年は結婚していた姉と会いました。姉は少年を非難し憤慨しながら言いました。「私が自分の子供達をどれほど愛しているか、貴方は少し知っています。彼らの内の誰かがカトリックになる望みを持ったならば、ローマ教皇の宗教に入信する事を可能にするより寧ろ彼の心臓を短刀で貫く事を望みます。」彼女の怒りと気質は、彼の改宗前の聖パウロの物と同じ位猛烈な物でした。しかし聖パウロが丁度ダマスカスへの道を変更した様に、彼女もまた自分の道を変更しました。それは以下の様にして起こりました。彼女の息子の1人は病に罹り、命が危うくなりました。回復の見込みもなく、医者は匙を投げました。少年は姉に近づき優しく言いました。「私の愛しいお姉様、貴女は当然息子が治って欲しいですね。その為に僕が貴女に願う事を行って下さい。僕に続き1つの”天使祝詞”を祈り、もし彼が健康を回復したならば、貴女はカトリックの教義を真剣に学ぶ事を神に約束して下さい。そしてカトリックが唯一の真の宗教であるという結論に達すれば、どんな犠牲を払ってでもそれに入るでしょう。」姉は最初はあまり乗り気になれませんでしたが、息子の回復を望み、彼の提案を受け入れ、共に「天使祝詞」を唱えました。翌日、息子は完全に回復していました。聖母マリアは姉の約束を完全に満たされました。姉はその後カトリックの教義を学び、長い準備の後に彼に感謝して家族全体で洗礼を受けました。


この話はタックウェル神父が説教中に語ったものでした。そして神父様は更に続けられ、「兄弟の皆さん、その少年はカトリックになり、彼の姉を改宗させ、神への奉仕に生涯全体を捧げています。その彼は今あなた方に話している司祭です。私が聖母に対しどんな負債があるか、私の親愛なる子供達よ、あなた方もです。聖母への美しい完全なる「天使祝詞」の祈り、または貴方のロザリオをせずに決して一日を終えないで下さい。ペトロの巌に基づいて建てられたキリストの真実の教会から分かれたプロテスタント信者の心を啓蒙して下さる様に、またこの教会に決して地獄の門が優勢とならぬ様に、聖母に願いましょう。」




<聖アルフォンソ・マリア・リゴリオ司教教会博士の「革新者への反対」>

聖アルフォンソ・リゴリオが御生まれになってすぐ後に、聖フランシス・イェロメは聖人の両親を訪れこのように預言しました。「この子は長い日々に恵まれるでしょう。彼は90歳の前に死を見る事はないでしょう。彼は司教となって、イエズス・キリストの為に偉大な事を行うでしょう。」そしてこの預言は確かに実現し、諸聖人の中で最も偉大な事を成し遂げた1人が聖アルフォンソでありました。この世における91年の生涯において、修道会を設立し、100冊をこえる著作を著わし、法律家であり、高名な説教者であり、近代道徳論の考案者でもありました。聖人は以下の様に著述しました。


1つの教義と信仰の内にない教会は真の教会ではあり得ぬのである。従って全ての異なる教会は、真の一つにならなければならない。ただ1つのみが真の唯一のものであり得るのである。この教会の外に救いはないのである。さてどれが、この真の唯一の教会であるかを決める為に調べる事が必要であり、どれがイエズス・キリストによって最初に設けられた教会であるか、これが確かめられる場合にこの唯一の物のみが真の教会であるという事が認められるに違いないのであり、前から真の教会であったという事は、常に真の教会であるに違いないのであり、永遠に真の教会であるに違いないのである。この最初の教会は救い主が地獄の門は決してこれを打ち倒す事が出来ないと御約束されたのである。「貴方はペトロである。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。黄泉の国の門も、これに勝つ事は出来ない。(マタイ16:18)」宗教の全歴史によって我々は公教会のみが最初の教会であり、他の誤った異端の教えが後に出発し、母から分離したした事を知るのである。これは母を超える様に使徒自身が任命した牧師によって管理されて、使徒らによって広められた教会である。「洗礼を彼らに授け、私があなた達に命じた事を、全て守る様に教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなた達と共にいるのである。(マタイ28:20)」この言葉は、公教会の内にてのみ見出す事が出来、この世の使徒らから途切れる事なく正当な順序に従って、司祭は保証されて下されるのである。革新者らは、彼ら自身公教会がイエズス・キリストの設立された教会であるということを否定しないのである。しかしながら、彼らは「それは5世紀までは真の教会であったが、公教会信徒によってそれは悪くなり、堕落したのである」と言うのである。どの様に聖パウロが「天主の家とは、真の柱であり土台である、真の天主の教会の事です(テモテ3:15)」と呼ぶ教会がどの様にして堕落するのであろうか。いいや、公教会は堕落してはいないのである。事実はそうである。ローマの教会から分離した誤った教会は全て堕落し、罪を犯したのである。しかし異教の分派全てに対し誤りを確信させる為には我々の公教会がイエズス・キリストによって設けられた最初の教会である事を示すより更なる方法は無いのである。この立証の存在によって、それは全てをこえて証明され、我々が唯一の真の教会であり、それ以外の残りの分離した他の全てが確かに誤っているかどうかを疑われるのである。しかしこの議論に苦しみ、革新者らは答えを考案したのである。彼らは可視の教会が失敗し、不可視の教会はそうではないと言うのである。しかしこれらの教義は完全に福音書に反しているのである。革新者らは発案した不可視の教会の存在を証明する為に、聖なる聖書の原典を生み出さんと幾たびも試みたのである。そうして我々は彼らから、任意のそれらの原典を得る事が出来ないのである。彼らはどの様に原典を引用し、いつ教会の宣教者として残された使徒達に話しかけたのであろうか?イエズスは言われる。「あなた方は世の光である。(マタイ5:14)」従って主は、教会が人々から見えずにはおかれないという事を宣言されたのである。必ず教会は常に存在し、永遠に存在し、必然的に可視の物であり、その結果、各人が主の聖職者らから真の信条に関する真の教義を学ぶ事が出来るのである。直に救霊の道の示しなる秘跡を受ける為に、また万一彼らが過ちに陥ったならば啓蒙され正される為に、常に隠された不可視の教会では、人々は何を信じて行う事であるかを学ぶ為に、誰に対し信頼を持つべきであろうか。教会と母の聖職者は、特に絶対的な誤りのない審判者である為に、明確な可視の物である事が必要である。疑問を全て解決する為に、その決定に誰もが必ず従うべきである。そうでなければ、キリスト信者の信仰上の規則や、信仰の信条や道徳の真の教えを知る事の出来る確かな物は無く、その信仰の中で終わる事のない論争や議論があるであろう。また「そして主は、使徒、預言者、福音宣教者、教師としての牧者を与えて下さいました。それは聖なる人々を奉仕の働きが出来る様に準備し、キリストの体を築きあげる為です。私達は皆、信仰によって、また天主の子を深く知る事によって1つとなり、成熟した大人の内に満ちているもので満たされて、その背丈一杯に達する様になるのです。(エフェソ4:11-14)」とある。しかし我々はこれらの誤っている教師らから何の信仰を学ぶ事が出来、教会から分離した結果の中で、いつ彼らが信仰の物差しを持つのであろうか。カルバンはどれほどしばしば自分の見解を変更したであろうか。またルターは生涯の中で絶えず矛盾していたのである。1つの御聖体の論説の上で、彼は33もの矛盾に陥ったのである。1つの矛盾は、彼らが神の聖霊を持たない事を示すのに充分である。「私達が真実でなくても、彼は常に真実である。(二テモテ2:13)」要するに、教会の権威を追い払い、そうして神の啓示も、当然の道理そのものもどちらも役立つ物ではないとして、各人の自分の気まぐれによる、完全な個人的な解釈となるかもしれないのである。彼らは莫大な数の異教と無神論の分派の種類が発生し、この良心の呪われた自由が起こった事を理解しないのであろうか。私は繰り返す。貴方が公教会への服従を取り去るのであれば、全ての過ちが含まれるであろう。



<尊者アンナ・カタリナ・エンメリックの言葉>

「教会は唯一、ローマカトリックのみであります!そしてこれは地獄の門が打ち勝つ事の出来ないとするイエズス・キリストの地上に一つだけ残された、彼の物である普遍的な教会です。」


「その後、私はマリアが教会であり、教会と、我らの御父なる神と、私達の兄弟であるイエズスの御母である甘美な保証を得ました」


「ああ、誰がマリアの美、純潔、潔白を知るでありましょうか。彼女は何事も御存じであられますが、何も知らないというかの様な、非常に子供らしくも見えます。彼女は視線を落としておられますが、御目を上げられた場合、彼女の一目は光線の如く、純粋な光の筋の如く、それ自体が真実であるかの如くにしみ通ります。これは聖母が完全に潔白であられ、神で満たされ、御自分に報いられる事がない為です。彼女の聖寵に逆らいうる者は誰もおりません。」


「天主の御前における人間の価値は、彼の御心の御意向によって算定されます。それは、その正しさ、その良き意思、その慈善、そして知識の範囲ではない知性の鋭さです。」


「私は世界中の無数の精神への吹き込みを見ました。時々、稲妻の一撃の様に教会の信徒達の上に降りかかり、また彼らの中で聖寵を受け取りし者がある事がわかりました。或いはまた、突然に光と強さを賦与されて、彼らの家で個人的に祈るのを見ました。その光景は私に大きな喜びと、公教会は彼女の常に増大する苦難に対して屈する事がないという確信を起こさせました。この世の全ての場に対し、私は防御者達が聖霊によって彼女に向かって上げられたのを見ました。私はこの世の力の圧迫が、彼女の強さを高める為に役立つと感じました。」


「それらは善を生み出さず、そうして非常に軽く尊ばれ、非常に不注意に永遠に向かって非常に速やかに飛ぶこの短い人生の逃げ去る瞬間と同じく、人類の大多数の人々によって費されます。」



<ヨゼファ・メネデンス修道女への啓示>

修道女によって最後の啓示が書かれたのは、1923年12月6日、木曜日の事でした。我らの聖主がこれをポアティエの司教に伝えられる事を望んでおられる旨を書き留めて、修道女はペンを置きました。


「限りなき愛の年史において決して期日を忘れてはいけない。我らの時代における、イエズスの御心の無数の富に基いて投げかけられる光、これは贖いの道上における転機である。それは間もなく世の不正を打ちのめすであろう憐れみのほとばしりなる隠された源である。それはこの世への新しい生命及び霊に与えられるであろう炎を発する火山であろう。それは夜明けの始まりにして、日の出前の天主の王の偉大な日に輝くであろう。」


出典元・信心の園

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