神秘家 マリー・ジュリー・ジェニーの生涯と啓示

 


聖痕者であったマリージュリー・ジェニーは、1850年2月12日、カトリックの深い信仰の下に生きる両親の、五人兄弟の長女として生まれた。マリー・ジュリー・ジェニーの初聖体の時に、我らの主は数多の聖寵で満たし、十二歳になったばかりの頃に世の聖化を助ける為にフランシスコ会の第三会に入会した。その後、生まれ故郷のブラインに近い小屋に住み、犠牲の霊魂としての生涯を送った。世界とフランスの罪の償いを行い、イエズスとマリアより様々な示現や、天の警告の預言を受けた。彼女は謙虚な伝達者であり、霊的指導司祭や司教にも従順であった。彼女は二つの大戦や聖教皇ピオ10世の選出、公教会やフランスに関することの預言を与えられ、それらは全て的中した。


1877年10月26日、彼女は四つの十字架を幻視した。


第一の十字架は「フランスよ、汝の涙と叫びは聞かれなかった。」


第二の十字架は「ブリタニーよ、汝の唸りをあげる心は御子に嘆息し、主が汝の心を聞くのは困難である。」


第三の十字架は「親愛なるヴェンディーよ、汝の信仰の為に、どれほど汝の血を流すであろうか。わが祝福は汝に降る。」


第四の十字架は「アルサスとロレインはフランスに再統合されるであろう。」


教皇レオ13世の御死去の数日後、コンクラーベが開かれたが、その時彼女は幻視を与えられ、この様に預言した。「天主によって選ばれしアドリアの枢機卿は、キリストの統治となさいます。彼は余り長くは持たず、ピオと呼ばれるでしょう。」更に、一般のパンより御聖体を得る賜物、祝別された物とされていない物を感知する賜物、聖遺物を見ただけでどこに由来する物かを感知する賜物、聖歌や祈祷文の幾つもの言葉を理解する賜物、聖痕の賜物などを受けた。1875年の12月28日までの五年間は、御聖体のみを食して生きた。

しばしば恍惚となる事もあった。1941年3月4日に帰天した。


預言


「司祭達の異常の中で、己の誓いを破ります。生命の書には、御心を破り裂く名前のリストも含まれています。」


「(カトリックの信仰が置き換えられる)恐ろしい宗教です。数多の、数多の司教達が、この汚聖の悪名高き宗教を受け入れるでしょう。」



天の元后は言われました。「これまでの司祭の数の内、天主の召命の真の牧者は非常に少なく、大変少なくなるでしょう。畏るべき日にも、告解の守秘の冒涜に対し、恥じ入らぬでしょう。」これは第二バチカン公会議の前から既に始まっていました。彼らはパドレ・ピオの告解式の中で故意に送話器を設置しませんでした。この非道行為の共犯者の一人は、バチカンにおける重要な地位を長期間は占めませんでした。


「曇った嘆息の下に公教会の声あり、私の霊魂のドアを破る為にやって来て、臨終の声が響き渡ります。教皇はキリスト者、御父の子らに向かって苦悶の中で語りかけますが、これは私の霊魂に対する剣…私は白い鳥が嘴で彼の血と肉片を運び出すのを見ます。私は天主の1つの爪の如くにペトロの手が出現するのを見ました。彼の祭服は、祭壇に天主を降らせ奉る為の威厳のある装束で、その切れ端の中で引き寄せました。私は太陽の中にこれらの全てを見ます。ああ、それは苦しみです。」


1896年5月12日には、聖母よりこの様な御言葉を聞きました。「私は、懲罰より私の者達が救われる為に行い得る事なら全て致しましたが、数多の司祭は不平を言い、私の無原罪の御言葉を信じようとしません。彼らは私を大変に不快にし、万聖中の中の聖なる御方を激怒させます。」


彼女に大天使聖ミカエルは言いました。「主がそれを望まれます。私は天主の友らに、自らを備え、祈りを倍増する様にと教える。なぜならこの大艱難の時には、どんな事でもあるからである。しかし天主の友らには、前もって警告される。その時彼らはただ、その寛大なる信仰における沈黙の内に待つのみ。十字架の全ての友らは、万聖中の中の聖なる御方と、主の愛し給う御母の御保護によって保たれる。」


聖母はまた言われました。「この罪の時代は始まりました。多くの母親は、己の胎児に対し、天つ御国の花なるみどりごに対してさえ無情となるでしょう。」


1880年9月28日、聖ミカエルは彼女に言いました。「ここに私の火の如き剣あり、私はこれを、聖心の友らに貸す事、彼らの戦いに差し出す事を望んでいる。なぜなら、地獄の過酷な追跡と、世人の仕返しに対し、全ての敬虔なる者が信仰の力と、戦う為の勇気を得ようとするのはこれからさほど遠くない時代であるからである。」


1881年10月25日、聖ミカエルは彼女に言いました。「貴方は公教会を支配する者について見た。致命的な政府の樹立に対して、彼らの命と力を与えている。彼らは聖域に近づき、地獄の混乱に譲り渡すだろう。」


1904年、聖母は彼女に言われました。「フランスの人口の半分が滅ぼされるでしょう。

この天罰の後、彼らは霊魂もなくその村を後にするでしょう。フランスの四つの町は消え去ります。私にはこれ以上の力はありません。私は決して御子の御腕を引き戻す事は出来ません。わが子らよ、わが御子の御定めは、全て世の終わりまで運ばれなければなりません。唯一、祈りのみが残されております。」「例えわが天主の御子と私が、ユデアの全ての者の古の全ての奇跡よりも大いなる奇跡の御業を行いましても、それらの全ての卓越せし業は嘲られるでしょう。そして天主の御子とその聖なる母に、更なる侮辱を加えるでありましょう。」


1875年、彼女は天罰とその後の幻視を与えられました。「全てが失われた様に見えます。その後は勝利の時代です。全ての冒涜と侮辱の、それを犯す者に下り戻る時代です。」


1882年1月27日、我らの主は彼女に言われました。「聖ジュヌビエブの祈祷所がずっと前にダンスの為の館となった。これは、最も地獄に落ちる罪である。」


1904年1月5日、聖母は彼女に言われました。「サタンは歓喜しております。彼は全世界を旅し、彼の教えに生き、続く弟子どものいる囲まれた彼の家では、彼ら迷った霊魂達にサタンの秘密を明かしております。彼は助言を与え、その地獄の犬どもを導く者は、もう長い事その教えを飲み干し、冒涜と呪いをなしております。」


1904年10月11日、聖母は彼女に言われました。「義人はイエズスの篩(ふるい)にかけられます。しかし彼らは、主と、主の栄えある天宮の姿を見出す喜びの確証があります。私にはこれ以上なすすべがありません。祈り、これだけが唯一の力であり、霊魂の力強き糧となる物です。」


我らの主はつけ加えられました。「わが御心は打ち砕かれている。私は第一の受難にて私を刺し貫きし剣によって、刺し貫かれる為の清浄な霊魂を求めた。それらの全ての剣は、イエズスの犠牲となる者の1人ずつ全てを刺し貫くであろう。苦難が必要である。大変恐るべき十字架が必要である。それは地上に生きる者には耐えられぬ物となろう。殉教に次ぐ殉教、残酷に次ぐ残酷、暴君に次ぐ暴君、火刑に次ぐ火刑、専制政治に次ぐ専制政治」


1904年1月5日、我らの主は更に語られました。「私を愛する霊魂は、私を見るだろう。

わが聖殿は投げ捨てられ、他方ではそれまでの世紀には置かれなかった様な不浄な冒涜が置かれるであろう。」


1881年3月24日、聖母は「暗黒の三日間」について彼女にこの様に言われました。「私の祝別された御絵を家の中に飾り、私のロザリオを運んでしばしばこれを唱えて私によく仕え、私を呼び求める者に対し、私は彼らに属する全ての物を損なわない様に致します。天からの熱は耐えがたい程の物でありますが、それが家屋に近づいてさえもです。全天空は炎となりますが、祝別されたロウソクの灯る家屋には稲妻が浸透しないでしょう。この光のみが唯一、あなた方を守るでしょう。」


1882年9月20日、聖母は言われました。「(暗黒の三日間の間)地獄が地上に解き放たれます。」


1905年8月17日、聖母は言われました。「わが愛する子らよ、主の天主なる御心の内に生くる全ての霊魂は、危難を受けません。彼らはただ、主の御怒りを知って気絶するのみに留まります。」


「彼らは天主の正義の大風の間、この巨大な力の海洋に囲まれるでしょう。」


 


<暗黒の三日間の間に唱えるべき祈りと水>


「ああイエズス、死の克服者よ、我らを救い給え。」


「我は御身に御礼をなし、崇め、抱き奉る。ああ崇むべきわが救い主の十字架よ、我らを防ぎ、守り、救い給え。イエズスは御身をいとも愛し給いたれば、主の模範によりて、我は御身を愛し奉らん。御身の聖なる御姿によりてわが恐れを鎮め給い、ただ平安と信頼とを感ぜさせ給え。」


「わが天主なる御心のメダイを、わが崇むべき十字架に辿らせ、これら二つをコップ一杯の水に浸せ。これらは金属か、厚紙で作られていなければならぬ。」


「貴方はその水を二度祝福の為、二度浄めの為に飲むのである。一滴は食物にたらせ。僅かな滴は天罰を遠ざけるのみならず、わが正義の天罰を遠ざけるのに充分である。」


「あなたは未知の病の天罰によって苦しめる惨めなる霊魂に、この水の滴を与えるであろう。」


「あなたはセイヨウオトギリソウを、殊に危難の間の胸の苦しみと荒々しき頭痛の為に取って煎じるだろう。コレラの為にはサンザシ、未知の熱病に対しては、ニオイスミレの香りと謙遜の徳が効を与える。」


「この致命的な流行の間、守護の為の唯一の薬は、薄紙に"ああイエズス、死の克服者よ、我らを救い給え。ああめでたし十字架"と書いて飲み込む事である。」




ユリの聖母

1936年6月23日、ブラインから来た一人の少女が、教区の聖堂にキリストの聖体の祭日の間、御聖体の御前に飾られていたというユリを、彼女の所に持ってきました。それらのユリは、大きな冠をされたルルドの聖母の御像の御腕の中にあった物でした。彼女はまた恍惚に入りました。その恍惚の間、彼女は自身と友人達全員を捧げようとしていました。聖母は言われました。「私の諸徳を至美を思い起こさせし、私の腕の中に置かれたこの美しき白き花の報いとして、このしみなき花を散らせなさい。皆に小片を家に取らせなさい。これを私自らが貴女に持ち去らせます。ユリの元后、平和の元后、驚くべき元后、奇跡の元后。」


そして我らの主がこの様に御母に言われたのを聞きました。「私が貴女の御前に与えた祝福を、御母よ、思い出して下さい。」そして聖母は言われました。「わが天主なる御子に次いで、私はこのユリを祝福致します。これは大変素晴らしいものです。」そして聖母は彼女に、「ユリの聖母」の御称号の下に聖母に願う事を御求めになられました。それから数日後の2月4日、彼女の恍惚の間、聖母はこの様に言われました。「小さき友たちよ、私にこの称号を捧げなさい。清浄の聖母、しみなき清浄のユリ。愛と共にいとも育まれしイエズスのいと清浄なる聖寵が置かるる所のこの美しきユリによって、このユリによって聖なる幕やの内にてイエズスが崇められるによって、地上に私の愛が広げられるでしょう。私は数多の聖寵を与え、私は驚くべき業さえも行い、この清浄のユリによって触れられし時に病者は健康を取り戻します。」「ああ、地上の小さき子らよ、私をユリの元后、力の御母、驚くべき御母として私を呼び求め、私の御心に来たりなさい。」


聖母は1937年4月8日に再び言われました。「ああ、私の小さき子らよ、私は御心の全てをもってあなた方を祝し、ユリの聖母の御心によってあなた方を祝します。」


1937年6月10日、我らの主はこの様に言われました。「小さき友たちよ、私はあなた方のユリに祝福を与え、私が与えたこれらの物はあなた方を守り、"ユリの聖母"なるわが寛容なる御母のこのいとも愛すべき御名を見出さしめ、広めさせるであろう。私は奇跡を行い、地上にて私の選びたる者に対し、並々ならぬ驚きをなすであろう。」


彼女は言いました。「これは私にとって驚きではありません。善き天つ御国の御母は、御身の寵愛にとって水を差されしこのユリ、御心よりこのユリに降し給いて聖寵の雨で溢れさせ給い、御身に依り頼み奉る我らを勇ませる為に分配されるこの花冠は、天つ御国より我らに取られしこのユリは、我らに(信頼の為の)素因を与え、これをその御諸徳と共にいと聖なる童貞の如くに、天主の御子の御国へ、愛と彼の永久の崇拝への為の物です。


イエズスは幾度も言われました。御母よ、地上の貴女の子らに聖寵を与えられる時、私は己を捧げ、貴女と共に私は、私の者と貴女の者を混ぜ合わせます。それは同一の者ではありません。そうしてこの祝せられしユリより彼らに流れ伝って、二つの大いなる祝福となります。彼らの目は己を見る事はないでしょうが、霊魂の目、彼らの霊魂は知らぬ事はないでしょう。


1939年7月18日、我らの主は言われました。「私はこれらのユリを祝し、これらの惨めなる苦難より救う為の力を与えよう。」


1878年9月29日、聖ミカエルは彼女に言いました。「貴女が期待し得るものは何もない。世人からは、本当に全くない。」「地獄が居つく為に、行動の活動範囲でに据えた所に天主の神殿がある。この時、己の目を天国に上げるべきである。なぜなら、腐敗させる為に全世界を通じて旅する者が、最後の審判の時に反キリストとして世界の四隅にいるからである。」


「その後、我らの主は私に、この致命的な大事件の時の背教者の数を御示しになりました。この天主の牧者が始まりの開始ですが、その内の全てではありません。この天罰は、天つ御国が開かれ、天主の復讐がその義の示しとして現われます。私は天主の御怒りを、これほど近接して見た事はありません。(1884年11月11日)」


「畏怖は(キリストの)群れを棄てた聖職者に及びます。」(1882年1月27日)


「彼らは泥の中に投げ入れられるでしょう」


「過去の全ての世紀のどれか1つも、この時代に似ていません。」


1903年9月24日、聖母はこの様に言われました。「彼らの為にこの時はやって来ます。なぜなら地上の天主の支配の前に、悪の支配があるからです。」


1901年9月19日、聖母はこの様に言われました。「これらの大いなる約束は、蔑まれた公教会の丁度手の中にあります。彼らが光を見る事を望まなければ、聖職者の曲がった道に関する幻想に対して役に立たぬ物となり、心中と音誦の祈りが捨て去られるでしょう。公教会を離れる事を認める者、他への乗り換えを求める惨めな人々、惨めな人々、惨めなフランス、そして惨めな聖職者は、永久の智恵の真の光明を失うでしょう。なぜなら彼らは利己的であるからです。」


彼女はまた、その最終の危難についてこの様に告げました。「多数の霊魂が、地獄の霊によって憑依され、乗り移られます。」


1896年9月16日、我らの主は、真の信仰を失う司祭についてこの様に言われました。「この司祭は決して謙遜ではない。彼は決して敬い深くはない。彼は軽薄で、聖なる奉仕において冷淡であるだろう。彼が慰めを与えず、霊魂に呻き声をあげさせる時、彼は己の肉身が強められると考えている。世俗的な豪華な食事は、永久の恐るべき事で支払うだろう。わが怒りの大きく震えるその日に。多くの者が、己の仕えるこの王を忘れるだろう。無信仰の司祭は御父を忘れて恐れず、ユダの如くに全く永久に渡って己が司祭職に恥辱を据えるだろう。我々はその裏切り者どもが、張り巡らされて広げられるその恐怖に据えられるのを見るであろう。救霊の為のその肉身の生命が、彼らの霊魂を数多失わせている!」


1901年9月19日、聖母はこの様に言われました。「わが天主なる御子はあらゆる良心の深みを見通される御者にして、私の御約束を黙想し奉る者を顧み給いて、輝きと光明、真と義とをもたらす私の子供達に、私の言葉を知らしめて依り頼みたる全ての者に対し、天つ御国の厳正の基準を調整せしめ給う御者です。私が地上を待って眺める時、再び涙が零れ落ちます。甘ったるき言葉の主張の下の誤った使徒達、誤った約束、嵐と血の危難より

生命を救う事に対し、私の愛する子供達を歓迎する嘘の数々をつく事…他ならぬ私の御子の敵どもの影の只中より、貴方が解放される事を請け負いましょう。私は再び限りなき悲しみに向けさせられます。私は公教会の頭の下にある牧者らを見ます。私はかの報いが破り割かれるの見ます時、回復不能な非道の行い、致命的な見本の中で私の愛する人々が災いにあるのを見ます。私の悲しみは限りなくして、天つ御国は大いに苛立たされます。無数の霊魂の喪失を引き起こす弱き牧者達の為に祈って下さい(聖母は3回繰り返された)。」


彼女は最後の危機が三部に分かれて訪れる事を告げられました。いとも罪深き物は破壊され、「この(最初の)義の風は、ただ彼らを苛立たせるのみに留まります。」


二番目はより短いながらもより恐ろしく、一層不吉であり、「わが天主の御子は御覧になり、これらの全ての風は、赦しと憐れみとを求める主の者達に戻される事はありません。失われる霊魂達には、恐怖に満ちて再び一層多く当たるでしょう。」


三番目は、「一切の物が上から下まで失われるでしょう。そうして、私の親愛なる子らよ、天つ御国からの指令を待ち構えている大天使聖ミカエルが、私の善き子ら、真にして、勝利の善き子らと共に戦う為に、彼の軍団と共に降ります時、義はどこにでも通過していきます。この全ての時の間、貴方には力の糧(御聖体)がなく、使徒もないでしょうが、私の天主なる御子、いと高き司祭が貴方に許し給う、唯一、糧としての信仰を持つでしょう。」


1901年9月19日の、ラサレットの聖母の御出現の記念日に、聖母は彼女に言われました。「私の子供達に、もし回心するならば善き知らせを、もし重き不正を続けるならば悪しき知らせをもたらしたいと望んだ時の、かの日に流した涙の跡は、今日もなお私の眼にあります。彼らは私が明らかにしました小さな通告を受け取りました。公教会の権威者らの軽蔑に至る大いなる約束となるのが今この時です。彼らは光を望みません。私はこれらの全てに対する大いなる密約を苦しみます。この時私の御心は圧迫に苦しみます。最も苦しき剣は、それをなす叙階された者達を見る事です。その聖職者達は聖なる報いより己を切り離し、聖なる公教会を直に支配します。わが子らよ、私が聖なる山(ラサレット)でかの日に、脅かされる世界に対してもたらした警告を忘れないで下さい。私の言葉の辛辣な受け入れ方を私は憶えております。全ての者によってではありませんが、多くの者によってです。それを得べく者、子らの霊魂と心と精神には大いなる信頼と深き浸透とによって知らされます。しかし、彼らは通告を受け入れません。彼らはそれらを見下し、彼らの多くは己の信ずる所に逃れます。」


1887年9月29日、聖母が御子にこの様の言われたのを聴きました。「わが愛する御子よ、私の娘として選ばれたフランスを、私は常に守っておりました。これは私の御心のユリです。」


大天使聖ミカエルが主に言いました。「主よ、全ての呪われし者どもが地獄を発ち、彼らの毒を放り投げ、毒が至る所に荒しめる為にフランス全土に行く様に見えます。」主は言われました。「聖なる大天使よ、これは彼の支配の時代となるが、この時は非常に速く経過してしまうだろう。その後彼は二度と離れる事の出来ない深淵に入る事になる。彼はきつく繋がれ、彼の鎖は決して破れないだろう。」


1877年12月26日、ルチフェルは言いました。「あのユリを打ち砕く為に、これが必要である。」


1880年6月3日の恍惚の間、我らの主は、ルチフェルが如何にして成し遂げるかについて教えられました。ルチフェルは司祭に言います。「お前は赤い大きな外套を着るのである。

我々はお前にパンの小片と数滴の水を与えよう。お前がキリストに属していた時に行ったあらゆる事を、お前は行う事が出来るだろう。」(我らの主は加えられた。「しかし彼らは奉献と聖体拝領を加えない」)そして地獄はこう加えた。「我々は、お前にこれを全ての家の中、野外であってさえも唱える事を許そう。」


「邪悪な者は恐るべきあらゆる事を犯し、御聖体は路上に散乱させられるでしょう。それらは泥の中からそれを見つけ出されるでしょう。信心深きある司祭達は、それを拾い上げて懐に入れて運ぶでしょう。」(1883年10月17日)


「非道の所業より御聖体を守る為に、天使達が数多の聖堂から御聖体を運び出してゆくであろう事を、私は理解しました。」(1881年12月23日)


1880年5月12日、聖母は言われました。「その澄み渡った空に美しき夜明けがある時、"天主によりて定められし御者""義なる御者""天主なる人""主の者達の平安と救霊(助かり)なる御者""フランスの唯一なる御者""御心に据えらるる御者"が、彼方より来たり給うのが見えるでしょう。」


1882年2月9日、彼女は御父が御子にこの様に言われているのを聞きました。「わが御旨がこれである。全ての罪人と不信心の者は破壊されよう。」


1904年8月4日、天の元后はこの様に言われました。「世に天罰が降りかからない事を、貴女はどの様に期待出来ましょうか。彼らは、私の言葉が消え入る消えるほど遠くに行き、この聖なる大義に身を捧ぐる者に苦しみを引き起こさせます。私は私の善き司祭、私の下僕達に報いを与えるでしょう。」


1881年10月25日、主はこの様に言われました。「私は恐るべき天罰を告げ知らせるに相応しく、聖なる衣を纏い、聖寵に満ちている。彼らは、私の公教会を虐げている。全ての者ではないが、数多の者が、莫大な数の者が大変罪深くある。私は彼らの意向、思いを知っている。私は弱さが私の司祭達を恐るべき範囲に連れて行っている事を眺めている。保守派でない最大の派は、この惨めなる国の企みの側であり、彼らは血と恐怖のその色の中に彼らの規範があるであろう。」


1887年9月29日、彼女は幻視しました。「聖ミカエルの十字架は松明の如くに光っています。フランス全体は天主なるイエズスの王座の周りに集められ、聖ミカエルは栄光を纏い、剣を手にして起立されます。イエズスは、悪しき者どもより善人を分ける様に命じられました。この聖なる大天使は降られ、御顔は輝き、善人と悪人どもの間に防御壁を引かれました。私は聖ミカエルと地獄との戦いが始るであろう事、善と悪の間の戦いが始まるであろう事を見ました。無原罪のマリアは、恐れるであろう我らを顧み給うでしょうか?」


大天使聖ミカエルは言いました。「私は天主に次ぐ、貴方の守護者と助けとなろう。私に寄り頼みなさい。もし貴方が私の力を知るならば、より熱く日々、貴方の祈りを私に捧げるであろう。」聖ミカエルは、フランスを誘い、フランスを灰へと落とすであろう事に対し、フリーメーソンを非難しました。


1903年10月20日、我らの主は、天罰を送られない様にこい願わない者について、この様に言われました。「わが娘よ、罪人の数は莫大であり、罪も深すぎる。彼らは私の聖寵を、殊に彼らの性分にあって、わが崇むべき体(御聖体)を虐げる。彼らの状態であり、その不敬ゆえにである。私は決して赦しを与えず、裁きは行われる。貴方の全ての信仰を、貴方は直ちに必要とする。」


1884年1月14日、我らの主は言われました。「私の者達に対して、私はあらゆる事を行った。御母を地上に遣わし、ごく僅かの者が彼女の言葉を信じた。わが御声は、私が自ら奇跡と驚くべき事を働く事を選んだ犠牲の者を通じてどこにでも聞かれる。彼らは軽蔑され、迫害されるであろう。」


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