アビラの聖テレジア教会博士

祝日10月15日



1515年3月28日スペインの貴族の娘として生まれ、幼い頃より聖人伝を読み庭で「隠者ごっこ」をして育ったと伝えられる。また幼少の頃に一度病に罹ったが、聖ヨゼフに祈って治癒を得た。12歳の時に母親が亡くなり、17歳の時に父親に修道院への入会を反対された聖女は、誰にも言わずに家を出てカルメル修道院に入会した。聖女の信念を見た父親は聖女の入会を許した。誓願の後、間もなく深刻な病に罹り、それより健康を完全に回復しなかったが、その頃より示現を受け始めた。それは聖フランシスコ・ボルジアを含むドミニコ会士やイエズス会士によって調査され、それが真の物であると宣言された。1562年には厳格なる会則に立ち返った女子跣足カルメル会をアビラに創立し、17の女子修道院を設け、神秘的な著作を残した。1582年10月4日帰天。1622年3月12日に教皇グレゴリオ15世によって列聖。1970年9月27日に教皇パウロ6世によって教会博士にあげられた。スペイン、病者、孤児、聖寵を求める者、修道者、信心ゆえに嘲笑される者の保護者。



<アビラの聖テレジアに倣う祈り>

「聖なる父、全能永遠の神よ。貴方は聖テレジアに溢れる才能と聖なる賜物を豊かに与え、尊い友情をもって花婿であり師であるキリストに結び、教会の聖性と一致の為に絶え間ない熱心な祈りと償いの業を教えました。また聖女に知恵の賜物を豊かに注ぎ、貴方の民には完徳の師、新しいカルメルの家族には霊的な母とされました。私達が常に聖女の霊的な教えから力を汲み取り、真の聖性への深い憧れに燃え立って、聖テレジアの模範に倣い、喜びをもって貴方の慈しみを歌う事が出来ます様に。私達の主イエズス・キリストによって。アーメン。」




<聖人の御言葉>

「イエズスは彼の友を決して見捨てられません。」


「全ての者に優しく、己には厳格にありなさい。」


「苦しみは決して永続しません。」


「我らが十字架を避ける為にどれほど努めても、もし十字架の列にいるならば、現世において十字架を欠く事は決してありません。」


「貴方にはただ1つの霊魂がある事を忘れないで下さい。貴方の死にはただ1つの死があります。貴方にはただ1つの生があります。もし貴方がこうするならば、貴方が案じていない多くの事があります。」


「聖人達は迫害と傷つきにおいて喜びました。なぜなら、その者らの赦し、彼らが天主に祈った時に、天主に捧げる事の出来る物を得たからでした。」


「主が霊魂を更に謙遜の内に育てようと躓かせる事は、絶えず起こります。」


「我らが罪と無縁になれないというのは真理ですが、少なくとも我らの罪が常に同じという訳ではありません。」


 


<聖女の幻視>

マラゴンの修院が完成する四ヶ月前の事、ドン・ベルナルディノ・デ・メンドーザという、地域でよく知られた男が聖女の元を訪れ、もし聖女がヴァランドリアにおいて修道会を始めるのであれば聖女に建物を提供しようとしました。聖女は疲れており、しぶしぶながら「はい」と答えました。二ヵ月後、その男は突然病にかかり、全く話す事が出来なくなってしまい、告解も出来なくなりましたが、

天主の御赦しを願う印はする事が出来ました。それから少し後に、彼は息を引き取りました。主は聖女に御出現になり、男が主の御慈悲を得た事を言われました。なぜなら聖女に建物を与えた事でカルメル会によって聖母に光栄を帰したからでした。しかし主はまた、この男がその建物で最初の聖祭を祝われるまでは煉獄を離れる事が出来ない事も教えられました。聖女はその霊魂の酷き苦しみを感じ、マラゴン修院の開院の先回りをして、このヴァランドリアの修道会に取り掛りました。聖女は1568年5月19日にマラゴンを去りヴァランドリアに向かいましたが、途中で遅れてしまいました。主は聖女の夢の中に御出現になり、語られました。聖女はこの事を次の様に書きました。「ある日私が祈っておりました所、主が私に教えられました。『急げ。かの霊魂(ドン・ベルナルディノ)は大変苦しんでいる。』」聖女は急ぎましたが、ドン・ベルナルディノの残したヴァランドリアの建物は災害に見舞われていました。聖女はその建物を急いで他の所に移す準備をしましたが、この都市の市長代理は、カルメル会の為にそこで直ちにミサ聖祭を祝う事を命じました。聖女は主の御約束がこの様に実現されるとは思ってもいませんでしたが、すぐにヴァランドリアに修道会を創立しました。ユリアノ神父が聖女に御聖体をもって近接した時、聖女は司祭の傍らにドン・ベルナルディノが立っているのを見ました。彼の顔は光り輝き、喜びが放たれていました。彼は聖女の「はい」という承諾に感謝し、また主が彼を煉獄から解放され、天国に迎え入れられた事を伝えました。



<聖女の幻視Ⅱ>

聖テレジアの1つの幻視では、ある時御聖体の前で祈っていると、ある修道会の聖人が聖テレジアに御出現になりました。この聖人は大きな書物を手にしておられ、それを読み上げられました。「その修道会が満ちる時は来た。その会は多くの殉教者を出すであろう」聖テレジアはその会について具体的に言及しませんでしたが、それはイエズス会でした。



<アビラの聖テレジアの連祷>

主 憐れみ給え。▲キリスト憐れみ給え。

主 憐れみ給え。

キリスト我らの祈りを聴き給え。▲キリスト我らの祈りを聴き容れ給え。


天主なる御父 ▲我らを憐れみ給え。

天主にして世の贖い主なる御子 ▲我らを憐れみ給え。

天主なる聖霊 ▲我らを憐れみ給え。

唯一の天主なる聖三位 ▲我らを憐れみ給え。

聖マリア ▲我らの為に祈り給え。


天主への愛によりて心を横切らせ給いし聖テレジア▲我らの為に祈り給え。


天主のいと慎ましき下僕なる聖テレジア▲我らの為に祈り給え。我らの為に祈り給え。


天主の御栄えの為にいと熱き聖テレジア▲我らの為に祈り給え。


心のいと強き聖テレジア▲我らの為に祈り給え。


一切の被造物より真に離れ給いし聖テレジア▲我らの為に祈り給え。


公教会の大いなる光なる聖テレジア▲我らの為に祈り給え。


カルメル会の改革者にして誉れなる聖テレジア▲我らの為に祈り給え。


神秘神学の女王なる聖テレジア▲我らの為に祈り給え。


スペインとアビラの光ある名なる聖テレジア▲我らの為に祈り給え。


テレジアの名前を永久に栄光ある者となし給いし聖テレジア▲我らの為に祈り給え。


苦しみ、そして死する者の望みなる聖テレジア▲我らの為に祈り給え。


「ああ主よ、御身の方法は何と甘美にして、喜びある物なるか」と叫び給いし聖テレジア▲我らの為に祈り給え。


諸霊魂の救霊を大いに望み給いし聖テレジア▲我らの為に祈り給え。


この惨めさの谷にありてさえ、主のいかに甘美なるを目の当たりに、味わい給いたる聖テレジア▲我らの為に祈り給え。


「ああ死よ、真の生命への道に恐れを起こし得るものよ」と叫び給いし聖テレジア▲我らの為に祈り給え。


キリストの十字架の真の愛し手なる聖テレジア▲我らの為に祈り給え。


愛に生き、愛に死し、永久に愛し給える聖テレジア▲我らの為に祈り給え。



世の罪を除き給う天主の小羊 ▲主我らを赦し給え。

世の罪を除き給う天主の小羊 ▲主我らの祈りを聴き容れたまえ。

世の罪を除き給う天主の小羊 ▲我らを憐れみ給え。

聖テレジア、我らの為に祈り給え。 ▲キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。


 


祈願


ああ天主、御身の天主の御愛の宝庫より、御身の祝せられし下僕なる聖テレジアの心を補い満たし給いし御者よ。聖女の如く、御身との一致の内に、我らが御身を愛し、御身の為に万事に苦しむを得させ給え。かくして我らが御身の為に諸霊魂を得、己が霊魂の救霊を手にせん事を。これを、我らの主の御功徳と、御身の栄えある童貞テレジアの御執成しによりて、切に願い奉る。アーメン。



「ああ聖テレジア、気高き童貞女にして、御身の十字架に磔にせられし主の愛し給う浄配、地上において御身と我の天主に向けしいと凛冽なる愛に燃え、今なお楽園においてより輝き清められし炎の盛りし御者よ。世俗と、一切の被造物、そして己をも忘却さする同じ聖なる火の火花を我に得しめ給わん事を御身にこい願い奉る。御身、全人類によりて主が愛さるるを見るを常に大いに望み給いたればなり。わが一切の思いと望みと慈をして、至高の善なる天主の御旨を行う内に絶えず仕える者となし給い、我が喜び或いは苦しみにあれば、主を愛し、永遠に服従するに相応しからしめ給え。天主にいと力強き御身よ、この聖寵を我に得させ給え。天主の愛の火によりて、我をして御身の如き全き火とならしめ給え。アーメン。」(300日の免償。この祈りを一ヶ月間毎日続けて唱えるならば、通常の条件下で、月に一度全免償。1898年4月22日 聖座認可。)


 


<祈願>


「ああ天主、御身の公教会を完徳の道として明示さする為、御身の聖霊にアビラのテレジアを突き動かさせ給いし御者よ。聖女の優れに教えによりて育まれ、聖性への鋭く抑えがたき切望を我らの内に灯し給わん事を祈らん。愛の心の喜びにして、唯一の天主、御身と聖霊と共に世々に生き かつしろしめし給うイエズス・キリストによりて。アーメン。」


 


アビラの聖テレジアの主祷文


1942年 C.S.C ウィリアム・J・ドヘニ モンシニョール 教会認可


「我らを試みにひき給わざれ、我らを悪より救い給え」


 


<試みと闘いの必要>


我々はそれを天主に求め奉るので、これらの高尚なる恩寵を我々は考慮し、理解せねばなりません。絶対的な物として、私が見ます一点より学び始めましょう。それはこうです。彼らは完徳に達する為に天主に試みと、誘惑と、迫害、そして闘いから解放して頂ける様にとは願いません。試みによって苦しみますが、そうした霊魂は聖霊によって導かれる他の明白にして紛れも無い証拠があり、また彼らは天主の御手より来る特別な恩寵と黙想を見奉る時、彼らは惑わされません。試みを好み、彼らはそれを求め、愛しさえするのです。



<キリストの兵士達の分け前、闘い>


私を信じて下さい。闘いの時はキリストの兵士達、即ち黙想に昇り自らの為に祈りに専念する者達にとって充分であるほど、決してすぐに来ません。彼らは宣告された敵共に大きな恐れを抱かず、彼らは自らそれを知り、そうした相手が天主の強さを備える者達に対する真の力を持たぬ事に気づいています。彼らは常に闘いより勝利者として前進し、報いに富まされます。そうした霊魂が敵共の群れに置かれる事は決してありません。


 


<悪魔は反逆者である事>


恐れるに足る理由を持つ彼らは反逆者であり、また彼らは我らの主より保護を願い奉るのです。これらの内の後者は自らを欺き、光の天使に変身する悪魔であり、また霊魂に最大の被害をもたらすほどの敵です。彼らは自らの本当の正体を知る事が出来ませんが、彼らは徐々に我々の霊魂の生命ー血液を吸い取り、徳を破壊し、その結果我々はそれを成し遂げる事なく試みに陥るのです。我々が主祷文を唱え奉る時、我々はしばしば我らの主に試みに引き給わざれとこい願うべきです。我々が試みに負かされる事なく、幻想の被害者とならぬ様に彼に願いましょう。我々の敵共は光と真実とを我々より隠すでしょう。我々にこの懇願を教え給い、我々の為に御父にこう語られ給うた我らの聖主はどれほど義でありましょうか。


 


<妄想の危険>


我々の隠れた敵共が多くの方法によって我々を傷つける事が出来ると云う事を悟って下さい。彼らが我々にもたらすであろう喜びと慰めが天主より来りし物と我々が信じ、もっぱら信じ込ませて我々を騙すとは考えないで下さい。それは彼らが霊魂にもたらし得る最も小さな害です。実の所これらの喜びと慰めは、更にいくらかの霊魂を天主への仕えに進む様にと促すかもしれません。こうした喜びは祈祷により多くの時間を当てますので、そうした霊魂を惹きつけるかもしれません。霊魂に対するサタンの影響力を知らずに、この人達は絶え間なく天主に感謝し奉り、殊にそうした恩寵の彼らの相応しからざるを見て、彼に対し常により熱心に仕えようと感じます。彼らは更に多くの忠実を示そうと努めるべきであり、それによって、我らの主は彼らが自ら既に受け取ったと考える新たなる聖寵を加え給うでしょう。


 


<謙遜がサタンからの保護なる事>


常に謙遜である様に努めて下さい。そうした高尚なる聖寵に相応しからざる物を貴方が求めぬ様に悟って下さい。私はこうしてサタンが自惚れ、既に滅ぶと見なした多くの霊魂を失わせるであろうと確信致します。従って、邪悪なサタンから根拠を求められる我らの主は善を引き降ろされます。我らの主は我々の意向が祈祷において彼に近づき奉り留まるにおいて、それが彼を喜ばせ、彼に仕える事になる事を確かめられます。また彼は約束に常に誠実であられますが、我々が謙遜に対し背かざる事、もしくは慢心に取って代わらぬ様に注意すべきです。我らの主にそうした害悪より救い給う様に、聖主が貴方を赦し給う事を恐れぬ様に、長きに渡って他の誰からかではなく彼御自らより慰めを受けられる様に願い奉るべきです。


 


<想像上の諸徳の危険>


我々自身の知らぬ、サタンが我々が現実に所有せざる諸徳を備えているという確信へと我々を惑わして多大なる害悪を引き起こすかもしれません。これは真の悪です。不注意によって我々は安全と見える道を通ります。そして直ちに脱する事の能わぬ湿地に陥ります。もし我々を地獄へと引きずり込む大罪を犯していないならば、少なくとも足が捕われ、そうして我々は完徳への道に続く事が出来ません。彼が深き湿地に陥ったならば、彼は如何にして歩む事が出来ましょうか。彼はそこで生涯の日々を終える事を宣告されます。更なる深みに、そして地獄に陥らなかったとしたら、彼は幸運でしょう。如何にしようとも、彼は決して前進する事は出来ないでしょう。彼がそうした不幸な状況にあるならば、彼は自らを、もしくは他の者達を助けられないでしょう。実際に彼は有害であり、またそこには既に穴がありその道を通過する多数がそこに陥り得るのです。もし1人がその湿地に沈み込んだとしても苦労して這い登り、また土で満たされますのでそれ以上害悪は彼と他の者達には及びません。私は悪魔が我々を惑わします、我々が現実に持たざる諸徳を持っているかの様に思わせる唆しが、非常に危険なる唆しである事を貴方に警告します。私は経験によってこれを充分に区別する事が出来ます。私はこの主題において語る事は出来ますが、私が望むほど充分にではありません。


 


<サタンの策略>


サタンは例えば、貴方が清貧であると理解させる事を与えます。貴方は少なくとも口で天主に対しての清貧を誓ったのであり、この内に真理が存する事を判ります。彼は更に信心深い者達にさえこれを確信させたのです。もし我々が何を約束し奉るのかを完全に悟り、心からの誠実さをもって約束を為し奉りたならば、サタンは20年間、もしくは一生涯の間に渡ってさえ我々に罠を掛け続ける事は不可能ですので、私は"口で"と申し上げたのです。確かに我々はそうした行いによって世界を誤らせて考え違いをさせる事を理解すべきです。


 


<純なる清貧の必要>


我々は清貧の約束を為し奉りました。或いは少なくとも我々自身を清貧と信じ述べます。「我現世の事物を望み奉らず。されどそは欠くべからず。我天主に仕え奉らんが為に生くるが故、かの物を保たん。」結局、彼は我々の肉身を養う事を望みます。従って、我々は千の異なる物に対しての欺瞞の弁解を提示せねばなりません。光の天使に変装した悪魔は合理的に言い表します。彼は我々が既に貧しく真の清貧の徳を持つので、我々がそれを得る為に更に努める必要がないと我々に納得させるのです。我々はもし行いを注意して検討しなければ、我々が徳を持つであろうかを発見する事は出来ません。現世的事物に過度の関心を抱く人であらば、それが顕れるのは遅くありません。しかしながら、1つの正当なる動機、もしくは異なる動機についての為にそれを求める時に、真の清貧なる者はこの世の事物を重んずる事にそれほど不安にはなりません。もし彼が何事かを欠くならば、それに対してそれ以上思う事はないのです。もし彼が真に貧しくなるならば、彼の貧しさを予約しません。地上的事物は彼にとって第一の物ではなく、二次的な物です。彼の思いは更に高まるでしょう。


 


<余剰の危険>


何も所有せざる貧しき宗教者は、時に実際に所有する物を持ちませんが、万が一誰かが彼らに何らかの物を与えるならば、彼らはそれを不要と見なすでしょう。彼らは幾らかの蓄えにおいて常に幸福でありますし、もしより良い布地の衣類を持ち得るならば、より粗末な布を求めないでしょう。万が一病が一般的な治療以上のものを要し、彼らの必要を保証する資金の小さな蓄えしかなかったとしてさえもです。貴方は天主に対し世俗的事物に関して予約しない事を約束し奉り、例え如何なる事になろうとも蓄えなく彼の御摂理に対し貴方自身を委ね奉りますか?しかしもし貴方が何かを欠かない様に絶えず心配しているならば、収入を固定する事は心配を回避する方法として望ましくないのでしょうか?更に例え我々が罪なき収入を所有してさえも、それは充分に我々が清貧に対し犯す過ちを理解させます。そうして我々はこの徳の所有よりどれほど離れているのかが判るかもしれません。そして我々はこの清貧を天主に求め奉りて、またそれを得る為に努めるべきです。既にそれを得ていると誤信するならば、我々はそれを得る機会を完全に断つ事になるでしょう。また更に悪い事に、我々は幻想の中に生きています。


 


<純なる謙遜>


同じ事が謙遜の徳にも該当します。我々が人々から尊敬を求めず、我々が全ての者より離れる様に見えるでしょうが、我々の憤慨と行為の表現とを試験に置くならば、恐らく我々は謙遜ではないでしょう。また我々は受け取る小さな尊敬を拒絶したりはしません。同様にして、私が語った様な清貧の人は彼らに少しの利点を持つ対象を拒絶しません。そして更に彼らは自ら天主の御旨を求めません!


 


<天主からの慰め>


我々が天主より喜びと慰めを受け奉る時、我々は彼よりその賜物を受け奉るのみであると感じます。従って、我々はそれらに対する謝意の内により大いなる厳守を天主に捧げ奉る事を感ずるべきです。他方、サタンより慰めが来る場合、我々は天主への捧げ物を提供し、また彼が見返りをすべき仕えを彼に与えていると考える様に見えます。これらの欺ける観念によって、サタンは徐々に害の最大なる物によって霊魂を徐々に動かします。一方で彼は謙遜を弱めさせ、もう一方では我々が所有していると勘違いして思っている徳を得る事の中で我々を怠慢にさせます。


 


<サタンからの欺ける慰め>


我々が持つこの誘惑に対する治療は何でありましょうか?最上であるのは、我らの主の与え給いし物に見えます。彼は我々が誘惑に陥る事がない様に、永遠の御父に祈り求め奉る事を教えられます。しかし私は補う治療を示しましょう。我らの天主が貴方に特別なる徳を与え給うた様に見える時、それを借り物として、彼が取り消し可能であると見なして下さい。またこれは彼の特別なる御摂理なく起る事も、現実にしばしばあります。私は個人的な体験からこれを知っています。私は時折現世的事物より非常に切り離される事を感じ、また時にそうである事を証明します。しかし他の時にはこれに反して自分がある点において、非常に愛着を持っている事を見出します。その点は前の日には笑うべく物でありますが、自ら認識する事が難しい物です。



出典元・信心の園


 

 



 

 

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