私は今日、大嵐によって目が覚めました、風は荒れ狂い、豪雨が降っていました。そして何度も何度も落雷しました。私はこの嵐によって何も損なわれない様にと祈り始めた時、この言葉を聞きました。"私が教えたチャプレットを唱えよ、そうすれば嵐も収まるであろう。" 私は直ちにチャプレットを祈り始めると、唱え終えるまでに嵐は収まっており、またこの様な言葉が聞こえました。"もし私の御旨に違わなければ、このチャプレットによって貴女は何事でも得られるであろう。"




「私がポーランドの為に祈っていた所、この御言葉が聞こえました。"私はポーランドに特別なる愛を持ち、もし彼女(ポーランド)が私の御旨に従うならば、力と聖性によって彼女をほめ、彼女から来たる火花は、私の最終の再臨に対し、世を備えさせるだろう。"」




「崇敬の間、イエズスは私にこの様に言われました。"わが娘よ、貴女が私に抱く愛情と同情が、(オリベトの)園にありし私に対する慰めであった事を知れ。"」




「1938年4月16日の聖土曜日。崇敬の間、主は私に言われました。




"わが娘よ、平安あれ。これは私の物である慈しみの業である。貴女の事は、この中に何もない。私が貴女に命ずる事をなし、貴女が信心深く運ぶ事が私を喜ばせる。一つの言葉でも、足したり削ったりしてはならない。」




「わが娘よ、霊魂らを私に与えよ。貴女の使命は、祈りと犠牲によって私の為に諸霊魂を勝ち得させ、それらを私の慈しみに信頼させる様に力づける事であると知れ。」




「私はポーランドに重くのしかかる天主の御怒りを見ました。そして私は、今もし天主が我々の国を最大の天罰で罰され給う事になっているならば、それほどの重大なる背約によって、主は我々を永遠の滅びで罰する事がお出来になりますので、まだ大いなる慈しみがある事も見ます。主が私の為にベールを少し持ち上げられた時、私は恐れで身動きが取れませんでした。現在私は、選ばれた霊魂達が、世界の義に対する対処を成し遂げるために存在しているのをはっきりと見ています。」




「1938年1月27日の聖時間の間、イエズスは霊魂達の忘恩について私に訴えられました。"私の祝福の見返りに、私は忘恩を貰う。私の愛の見返りに、私は忘却と無関心とを貰うわが御心は、これらを負うことは出来ぬ。」




「霊魂達に、己の心の内にわが慈しみに対する障壁を置かぬ様にと伝えよ。全て彼らの戸の開いた心の内に、わが慈しみが働くのである。罪人と独善者は、わが慈しみを必要とする。堅忍と同様に、回心はわが慈しみの聖寵である。」




「崇敬の間、イエズスは私に約束されました。"わが慈しみに依り頼む霊魂達、そしてわが大いなる慈しみに誉れを帰し、他の者にのべ伝える者達に、私は彼らの臨終の時、わがつきざる慈しみを多大に与えよう。わが御心は悲しみにある。なぜなら、選ばれし霊魂達でさえ、わが慈しみの多いなるを理解しないからである。彼らと私との関係は、堅固なる道のうちにあって不信が染み込んでいる。ああ、わが御心の傷はいかなるものであろうか。


私は受難を憶えており、もし私の言葉を信じぬならば、せめてわが御傷を信じよ。"」




「1934年聖火曜日、イエズスは私に言われました。"私は貴女が罪人の為、殊に天主の慈しみへの望みを失いたる霊魂の為に、己を捧ぐことを望む。"」




「私は人類の贖いの分かち合いを貴女に与えている。貴女はわが死去の時を慰めよ。」






「私は午後庭に行こうとしていた時に、私の守護の天使は言いました。"その臨終の者の為に祈りなさい。"そこで私は庭で、その臨終の者の為に一度、ロザリオを唱え始め、私達は様々な種類の祈祷をその臨終の者の為に唱えました。祈り終えた後、彼ら(一緒に祈った人々)は陽気に語り合い始めましたが、彼らが立てていた雑音にも関わらず、私は霊魂の内に、こうした言葉を聞きました。"私の為にお祈り下さい!"私には、その言葉の意味がよくわかりませんでしたが、その棟から数歩進んだ所で、誰が私に祈りを求めているかを考えました。そして私は、こうした言葉を聞きました。"私は修女です"その修女は、私がビリニュスいるこの時、この修女はワルシャワにいました。"私が止めて下さいと教える時まで、私の為にお祈り下さい。私は臨終にあります。"私は直ちに、イエズスの御心に息絶える様に、彼女のために篤く祈り始めました。


彼女は私に中断させず、私は三時から五時まで祈り続けました。私はこの言葉を聞きました。"有難うございました!" 私は彼女が息絶えた事を理解しました。しかし後日の聖祭の間、私は彼女の霊魂の為に篤く祈り続けました。その日の午後、その修女がこれこれの時に亡くなったという事を告げる葉書が届きました。私はそれが、彼女が私に"お祈り下さい"と言った時と同じ時刻であったのを知りました。」




「一度私は幼な子の御姿のイエズスを見ました。私は尋ねました。"イエズス、今、私と語って下さる時、なぜ幼な子の御姿をとられていらっしゃるのですか?"それにも関わらず、私はなおわが主にして創造主なる限りなき天主を見続けました。イエズスは御答えになり、私が単純さと謙遜さを学ばせるまで、主は幼な子として語られるとの事でした。」




「苦難は地上における最も偉大な宝です。それは霊魂を浄めます。苦難の内に、我々の真の友を学びます。」




「12月11日。私は今日、聖祭を全て手伝う事が出来ませんでした。私はただ、最も重要な一部を手伝ったのみで、それから聖体を拝領すると、私はすぐに独房に戻りました。天主の御現存が突如私を包み給い、同時に私は、短い間ですが、主の御受難を感じました。


その間、私は慈しみの御業のより深い知識を得させられました。」




「その夜、私は突如目覚め、誰かの霊魂が私に祈りを求めている事を知りました。それは多大な祈りを必要としておりました。簡潔に、しかし私の全霊をあげて、私は彼女の為の主の聖寵を願いました。」




「翌日の午後、私が棟に入ると、誰かが臨終にあるのを見、夜の間に苦悶し始めた人であった事を知りました。私は祈りを求められたのが、その時刻に当っていた事を確かめました。ちょうどその時、私の霊魂のうちにこの声を聴きました。


"私が貴女に教えたチャプレットを唱えよ。"




私はロザリオを取る為に駆け、この臨終の者の傍に跪き、私の霊魂の全ての熱意でもって私はこのチャプレットを唱え始めました。すると突如、彼女の目が開き、私の方を見つめました。私がチャプレットを全て唱え終える前に、並外れた平安と共に、彼女は息を引き取りました。私は熱く、主がこのチャプレットを唱える事による、私に与えられた御約束を果たして下さる様に願いました。その霊魂が既に主の私に約束された聖寵を得させられている事を私に御知らせ下さいました。それが、主の御約束の霊益を受けた最初の霊魂でした。私はその霊魂が慈しみの御力に抱かれるのを感じました。」




「私が独房に入ると、私はこれらの言葉を聞きました。"彼らの臨終の時、このチャプレットを唱えた全ての霊魂を、私自身の栄光として守るであろう。免償もまた同様である。


臨終にありし者の傍らでこのチャプレットが唱えられる時、天主の怒りは宥められ、計りがたき慈しみがその霊魂を包み、わが優しき慈しみ深淵は、悲しみに満てし御受難によりて動かされるであろう。"」




「ああイエズスよ、御身の祝福が万有にあらん事を。我、いと聖なる御旨を果たすを喜び奉らん。それ、我を幸いならしむるに足れり。」




「私は(無原罪の御宿りの祭日を)共同体全体によって一般的に唱えられるノベナのみならず、またそれぞれの日に、彼女(聖母)に千回の御礼を致す、彼女に九日間に渡り、


千回の「天使祝詞」を唱える私的な努めをなしました。†この様な方法で天主の御母にノベナを唱えるのは、これが三度目であり、それぞれの日に千回の「天使祝詞」を致すのです。その様にしてこのノベナは、九千回の御礼を含みます。また私は人生の中でこれを三度目と致しますが、私の務めの間に行った二度では、最大の正確さで遂げる事に全く失敗しませんでした。私はこのノベナを常に私の修練の時間外に行っていました。私は唱える為に、聖祭や崇敬の間には唱えませんでした。私は一度、病院で寝かされている間に唱えた事がありましたが、精神一到、何事か成らざん、レクリエーションの時は別として、私は祈って働くだけでした。私はこれらの日々の間、一言も無駄口をしませんでした。また、こういった事(ノベナ)が、多くの注意力と努力を要すること、無原罪の童貞女に光栄を帰し奉る時に多すぎる事はない事を認めねばなりませんでした。」




「無原罪の御宿りの祭日。聖体拝領の前に私は、思いも及ばぬほどの美しさの祝せられし童貞を見ました。彼女は私に微笑み給い、言われました。"わが娘よ、特別にして唯一なる方法で、私は貴女の母となる様、天主の御命令です。しかし私はまた特別な方法で、貴女が私の子となる様に望みます。」




「私の最も愛し、天主の最も喜び給う三つの御徳を修める、私の最愛の娘を望みます。第一の徳は謙遜につぐ謙遜なる事。第二の徳は、清浄。第三の徳は、天主への愛です。私の娘として、貴女は殊にこれらの徳によって輝かねばなりません。"


御言葉が終わると、彼女(聖母)は私を御心に押しよせられて、消えられました。私が感覚を取り戻した時、私の心は、それらの徳と、私の心に刻み込まれる様にそれらを忠実に修める事にとても素晴らしく引き付けられました。」




「1935年9月13日。夜、私の独房にいる時、私は天主の御怒りの執行者である天使を見ました。彼(天使)は、まばゆいローブを装い、御顔は荘厳に輝き、御足元には雲がありました。その雲から、雷と稲光が彼の御手に飛び込んでいき、彼の御手より飛び出していくと、地球に当たっていきました。私がその、地球と地上の特定の場所に当たろうとしていた天主の御怒りの徴を見ました時、その正当なわけ故に私は名を挙げる事ができず、その天使に、少しばかりの間、留まって下さる様に、世は償いを果たすでしょうから、とこい願いはじめました。しかし私の嘆願は、天主の御怒りの直面に対しては何もなりませんでした。」




「1937年11月10日。イレーン院長が私に、このチャプレットと連祷とノベナのある小冊子を見せられました。私はそれをちらりと見ていたので、目を通させて頂ける様に願いました。イエズスは、私が知る為に、内側に(御言葉を)与えられました。"既に多くの霊魂達が、この肖像によってわが愛に引き寄せられている。この働きを通じ、わが慈しみは霊魂達の内に働く。"私は、天主の聖寵を多くの霊魂が体験した事を知りました。」




「イエズスのいと慈悲深き御心よ、天主の義の御怒りより我らを守り給え。」




「1938年4月10日。枝の主日。私は聖祭に参加は致しましたが、枝をもって歩く力はありませんでした。私は非常に弱っており、聖祭が終わるまで何とか耐えましたが、聖祭の間、イエズスは私に御自らの御霊の御苦しみについて知らされ、主の聖心の内に痛みに満ちて響く様に、ホザンナの聖歌が反響しているのを、明瞭に感じました。私の霊魂もまた、苦しみの海によって浸され、ホザンナは、私の心をそれぞれ深く貫きました。私の霊魂はイエズスに一層近づき、私はイエズスの御声を聴きました。"わが娘よ、貴女の慈悲が私を新たにする。わが受難の黙想によりて、貴女の霊魂は異なった美しさを得るであろう。"」




「夕刻の聖時間の間、私はこの様な御言葉を聞きました。"貴女は、この瞬間、万力の内にそれ自体が明らかとする罪人に対する私の慈しみを見ている。貴女がこれについて、どれほど僅かしか書き記さなかったを見よ。それは一滴の雫のみである。貴女の力で、罪人達にわが善徳を知らしむる為に来たらせよ。"」




「†私はしばしば臨終にある者と伝達を行い、彼らの為に天主の慈しみを得させます。ああ、天主の善徳はなんと偉大にして、我々の理解よりも大いなる物でしょうか。この時と、天主の慈しみの神秘は天つ御国を仰天させる物です。不可思議なる天主の慈しみに向かって、我々の霊魂の裁きが止められますようにしましょう。」




「今日私は、十字架に磔にせられた主イエズスを見ました。貴き真珠とダイヤモンドが、御心の御傷より注ぎだされていました。私は数え切れない霊魂達がこれらの賜物を集めているのを見ましたが、一つの霊魂のみが御心に近づき、彼女はそれらの賜物の偉大さを知悉し、それらを自身の為だけでなく、同様に他の者達の為に、寛大さを持って集めました。救い主は私に言われました。"見よ、この聖寵の諸宝は、霊魂達に流れ出ている。しかし、全ての霊魂が、わが寛大の霊益を受くる事を知るわけではない。"」




「十字架の道行きの終わりに向かい、主なるイエズスは選ばれし霊魂の愛の欠乏と、修道者と聖職者の霊魂について苦言されました。


"私は修院と教会を破壊へと導くであろう。"私は答えました。しかしイエズスよ、修院の中で数多の霊魂が御身を称えております、と。主は答えられました。"その称えが、わが御心を傷つけるのである。なぜなら、愛が修院より追いやられたからである。霊魂達は愛なく、信心なく、霊魂はエゴイズムと自己愛に満ちて、霊魂は驕りと傲慢に満ちて、霊魂は偽りと偽善に満ちており、生ぬるき者はただ彼らの生命を維持するのみである。わが御心は、これらの事を負うことはできぬ。我の注ぎ出す一切の聖寵は、岩の表面を流れるが如くである。私は彼らに耐える事は出来ぬ。なぜなら、彼らは善でも悪でもないからである。彼らによって世を聖化するために、私は修院を招いた。彼らから来たる力強き愛の炎と犠牲が、先立って開かれなければならぬ。そしてもし彼らが悔い改めず、彼らの最初の愛によって火を灯されぬならば、私はこの世の定めに彼らを引き渡すであろう。いかにして彼らは、彼らの罪の意識が、世の罪の意識よりも大きい時、約束された世の審判と裁きの御座にある事ができようか?彼らには告解も償いもないのである。ああ、心は朝に私を受け、午後には私に対するあらゆる類の憎悪で、全くいきり立っているのである。私によって特別に選ばれし心よ、貴女を選びしこの故に、私に更なる苦痛を与えるのか?世における大なる罪は、私の御心をしたたか傷つけるが、選ばれし霊魂の罪は、私の心を貫き通しである。"」




「私が一人、祝せられた童貞の所に残りました時、聖母は内側の御生活について私に教えられました。"霊魂の真に偉大なる事は、主の御現存のうちに畏みて天主を愛し奉る事で、そして己を忘れ、己を何でもないものと見なす事です。なぜなら主は大いなる者ですが、唯一謙遜なる者によってのみ喜ばれるからです。主は常に、奢る者に敵対されます。"」




「主は私に言われました。"しばしば煉獄のうちに入れ、なぜなら彼らは貴女を必要としているからである。" ああわがイエズス、我に語られしこれらの御言葉の意を解したり。


されどまず第一に、我をして御身の慈しみの宝のうちに入らせ給え。」




「主は言われました。"わが娘よ、わが慈しみをのべ伝える事に疲れるな。この方法によりて、貴女はわが御心のうちに憩うであろう。"」




「今日、主は私に言われました。"わが娘よ、わが慈悲深き御心の内を見、貴女の心の内にその仁慈を映し出させよ。しかして貴女は、私の慈しみを世にのべ伝え、貴女自身をもそれで燃えさせるのである。"」




「聖体拝領の後、イエズスは言われました。


"わが娘よ、私に霊魂達を与えよ。貴女の使命は祈りと犠牲と、わが慈しみへの信頼に彼らを勇ませる事によって、私に霊魂を勝ち得させる事である事を知れ。"」




「今日の夕べの祈りの時、主は私に、潔白にして物惜しみせざる心をどれほど喜ばれるかを知らされました。私は、その様な心を顧み給う事が天主の御喜びとなる事を感じました。しかしその様な心は、騎士の心です。彼らの人生は、絶え間なき戦いです。」


 


「1934年8月9日。木曜日の夕べの崇敬において、私は十一時から深夜に渡る崇敬の時間としました。私はこれを、頑ななる罪人の回心の為、殊に天主の御慈しみへの望みを失った者に対して捧げました。私はいかに天主が苦しみ給い、どれほど大いなる愛を示されたか、そして天主が我々を大変に愛し給うかを


我々が信じられないという事実について思い巡らしていました。ああイエズス、これを理解できない者は誰でしょう?我らの救世主は、何の為に苦しまれたのでしょう。主の御死苦され我々が納得できぬならば、どの様にして主が我々に、主の御愛を納得させる事ができるでしょう。私は天つ御国の全体に、特定の霊魂達の忘恩に対して主に償いを行う事に、私を加えて下さる様に願いました。」




「イエズスは私に、償いの祈りがどれほど主を喜ばせるかについて知らされました。"このへりくだりたる祈りと、愛ある霊魂は、御父の御怒りを和らげ、祝福の大洋を引き降ろすであろう。"


崇敬の後、独房への片道で吠えていて、私を八つ裂きにしようと飛び掛ろうとしている巨大な黒犬の群れに囲まれました。私は彼らが犬ではなく、悪魔である事を理解しました。


彼らのうちの一人は怒りながら単刀直入に言いました。"お前が今夜、数多の霊魂を我々から奪い取ったので、我々はお前を八つ裂きにしに来たのだ。"私は、それがいとも慈悲深き天主の御心なら私を八つ裂きになさい、なぜなら私は全ての罪人の中でも最も惨めなる者で、私は正しく値しており、天主は全聖にして義、尽きざる仁慈であるからですと言いました。この言葉に対し、悪魔全員が一つになって答えました。"逃げよう、この女は一人ではない、天主がこの女と共にあるからだ!"


私が妨害をされずに独房に行く途中ずっと、騒音や埃のように払われていきました。テ・デウムを終えて、天主の限りなく、計り難き慈しみを思いました。1934年8月12日。」




「私は司祭達が罪人の霊魂に、私の大いなる慈しみに向けてのべ伝えるように望む。罪人に、私に近づくのを恐れさせてはならぬ。この慈しみの炎は私を燃やし、費やす様にと騒がしく願うのである。私はこれらを、霊魂達の上に注ぐ事を欲する。イエズスはこれらの言葉を持って私に苦をもらされました。"霊魂の疑念は、私の内側を裂くのである。選ばれし霊魂の疑念は、更に激しき痛みを引き起こす。彼らに対する尽きざる愛にも関わらず、私の死苦をもってしても、彼らの為になお足らないと思うのである。これらの(賜物を)嘲る霊魂に災いあれ。"」




「わが御手のうちにありし、選ばれし霊魂達は、私が灯す世の闇の中の光である。夜に輝く星の如くに、選ばれし霊魂達は地上で輝くであろう。一層完徳に進みし霊魂は、それによってより強く光が遠くに届く。それらに最も近きものでさえ、隠れて知られない事があるが、その聖性は世の最も遠き隅にある霊魂達にさえ反響するのである。」




「私が御聖体の御前にて祈り、イエズスの五つの御傷に御礼を致していると、それぞれの御傷への御礼で、私の霊魂のうちに噴き出す聖寵の奔流を感じました。私に天つ御国の予感と、天主の慈しみへの全き信頼を感じました。」




「これらの言葉を書いていると、サタンの叫びが聞こえてきました。"彼女はありとあらゆる事を書いている、我々を大変に負かしたからだ!天主の善徳について書くな!"そうして怒って吠え、いなくなりました。」




「ああ、真白きホスチア、純白のうちにわが霊魂を保ち給え。我は御身を見捨てる日をひたすら恐れり。御身は天使の糧にして、童貞らの糧なり。」




「ああ暗黒に満てし退屈な日々には、私は厳粛さと祝いの目で見つめます。永遠の御国に向けて功徳を集める為の機会に我々に与えられている時はいかに偉大にして、厳粛なるものでしょうか。私は諸聖人がどの様にそれを用いたかを理解します。」




「今日、私の霊魂のうちに御声が聞こえました。"ああ、もし罪人が私の慈しみを知るならば、彼らは大多数の中の滅びを受けぬであろう。罪深き霊魂に、我に近づく事を恐れさせてはならぬ。"」




「主は私に、慈しみの祭日の前のノベナでこのチャプレットを唱える事について教えられました。これは金曜日に始まります。"このノベナによって、私には霊魂に対して可能なあらゆる聖寵を与える。"」




「今日私はこれらの御言葉を聞きました。"わが娘よ、私に表される様に、私に対し幼な子の如くあれ。さもなくば、それらによって私が授ける聖寵の霊益はないであろう。"」




「1937年8月5日。主は私に、我々の親愛なるイレーン院長が私に対し、祈りだけでなく、行いによっても、私を守って下さっている事を御知らせ下さいました。この聖寵に対しイエズスよ、御身に感謝し奉る。私は心で報いる事は出来ませんが、私がイエズスと共にあります時、彼女の事を忘れません。」




「1937年10月1日。"娘よ、私は愛深き犠牲を必要としている。ただ私に対するものであるという意味である。私に対する世界の負債は、真に巨大である。清浄なる霊魂達は、彼らの犠牲、霊における慈悲の行使によって払うことができる。"」




「私はこれらの御言葉を聞きました。"もし貴女が私の御手に結び付けられていなければ、地上に数多の罰を降ろすであろう。わが娘よ、解かれたわが怒りを顧みよ。またもし貴女の唇が沈黙するならば、貴女は天の全てが揺り動かされる程の大声でもって私に叫ぶ事になるであろう。私は貴女の請願より逃れる事は出来ぬ。なぜなら遠くではなく貴女の心の中で、私を求めるからである。"」




「"私は三倍の聖にして、最も小さき罪を大変嫌う。私は罪で汚れる霊魂を愛する事は出来ぬ。しかし悔い改める時、それに対する私の寛大さには限りが無い。私の慈しみはそれを受け容れ、正しき者とする。私の慈しみで、彼らの行く手に沿って罪人を追いかけ、彼らが私の元に戻る時、私の御心は喜ぶ。私は彼らがわが御心に与えた苦しみを忘れ、彼らが私の元に戻る時、私の御心は喜ぶ。"」




「わが娘よ、言え。私の慈しみの祭日は、世界全体の為の慰めの為に、わがいと深みより、私の慈しみが先へと流されるのである。」




「1937年5月1日。主はお喋りな霊魂に対し、どれほど快く思わざるかについて知らされました。"この様な霊魂のうちに、私は憩いを見出す事は出来ぬ。絶え間なき騒音は私を疲れさせ、その霊魂の中心では、私の声を認知する事が出来ない。"」




「主は言われました。"私を霊魂達に与える事、わが愛で彼らを満たす事を望むが、彼らの為の全ての聖寵と私の愛を受け取る事を望む者は少数である。私の聖寵はなくならぬ。もしその霊魂がこれを受け取らぬならば、他の霊魂がそれを受け取るだろう。"」




「イエズスは私を御覧になって言われました。"わが苦しき受難において、悪しき思いのうちに滅びる霊魂あり。私は彼らに救霊の最終の希望を与えている。それは、私の慈しみの祭日である。もし彼らが私の慈しみを崇めぬならば、彼らは永久の滅びに入るであろう。




私の慈しみの書記生よ、この私の大いなる慈しみについて霊魂達に教えよ。なぜなら畏るべき日、わが審判の日は近いからである。"」




「†今日私の霊魂の内に、これらの御言葉を聞きました。"わが娘よ、貴女が行いを果たす時である。私は貴女と共にあろう。大いなる迫害と苦しみが貴女を待ちかまえてはいるが、犠牲とこの働きのよって数多の霊魂が救霊を得る事によって慰められるであろう。"」




「今日私はこれらの御言葉を聞きました。


"霊魂達の為に祈り、彼らに私の慈しみの審判の席に近づくのを恐れさせてはならぬ。罪人の為の祈りに疲れを覚えてはならぬ。彼らの霊魂がどれほど私の御心に重荷となるか貴女は知っている。私の死ぬほどの悲しみを救い、私の慈しみを分配せよ。"」


 


「私は突然目覚め、天主の御現存に私が抱かれ、私は天主の子である事を感じました。天主の御愛が私の霊魂に注がれ、あらゆる事が天主の御旨による事である事を見る事を与えられました。彼は私に語られました。"私は慈しみの祭日に告解に行き、聖体を拝領する霊魂達に完全な赦しを与える事を望む。"そして彼は私に言われました。"私の娘よ、恐れてはならぬ。もし私が不在の如く見えたとしても、私は常に貴女と共にいる。貴女の謙遜は、非情な高みにある私の王座より私を引き寄せ、貴女により近づいて私を一致させる。"」




「1937年6月20日。我々が隣人を赦す時、我々は天主に最も似た者になります。天主は愛、善徳、そして慈しみであります。"あらゆる霊魂、殊にあらゆる修道者の霊魂は私の慈しみを映すべきである。私の御心は、一切のための慈悲と慈しみに溢れている。私の愛する者の心は、私の御心に似ているべきである。


その心からは、霊魂達の為の私の慈しみの奔流が湧き出でねばならぬ。さもなくば、私はその者を、私の者とは認めぬ。"」




「私は主に一度、主が罪と過ちとをいかにして大目に見られて、彼らを罰されぬかについて尋ねました。主は私に答えられました。"私は天罰に対し非常に長く待っている。そして私は、罪人の為に慈しみの時を延長している。しかしもし彼らが私の訪問の時を認めぬならば、彼らを畏怖させるであろう。私の娘よ、私の慈しみの書記生よ、彼らの為のこの聖寵をこい願うだけでなく、彼らにまた私の慈しみに光栄を帰させよ。"」




「翌日の聖体拝領の後、私は御声を聴きました。"私の娘よ、私の慈しみの深淵を見、私の慈しみを称え、誉れを与えよ。この道を行き、世界全体より罪人を集め、彼らを私の慈しみの深淵に浸せ。私は霊魂達に私を与える事を望む。私は霊魂達の為に叫ぶ。私の娘よ、私の慈しみの祭日には全世界を通じ、私の慈しみの奔流に萎れたる霊魂達を運べ。私は彼らを癒し、力づけよう。"」




「私は今日、御聖体を望みつつも秘跡なしに臨終を迎えている苦悶のうちにある霊魂の為に祈りました。全て遅すぎたのでした。それは私の親類、伯父の妻でした。彼女は天主を喜ばせた霊魂であり、その時私達の間に距離はありませんでした。」




「聖時間の崇敬の時間の間、私の惨めさの深淵を見ました。何であれ、私のうちにある善は、ああ主よ、御身のものです。しかしながら私はいとも小さく哀れな者であり、私は御身の限りなき慈しみを数え申し上げる資格があります。」




「1937年2月17日。聖祭の間、私は苦しみ給うイエズスを見、主の御受難が見えざる方法で私に肉身に刻まれましたが、痛みはそれほどありませんでした。」




「今日、一日の黙想会に入りました。私が最後の話し合いに入った時、司祭はいかにこの世が天主の慈しみを必要としているか、そして世人が祈りと天主の慈しみを大変に必要としている特別な時と思われる事について話されました。そうして私の霊魂のうちに御声を聴きました。"これらの言葉は、貴女に対するものである。私の慈しみの労働を、全く可能な限り行え。私は私の慈しみが称えられ、人類の救霊の最終の希望を与える事を望む。私の慈しみに寄り頼め。この祭日の中で私の御心は喜ぶのである。" これらの御言葉の後、主が私から求められる聖日の義務から私を免れさせ得るものは何もない事を理解しました。」




「"私の娘よ、これを知れ。もし貴女が完徳の為に努めするるならば、数多の霊魂を聖化するであろう。もし貴女が聖化に努めぬならば、同じ理由によりて数多の霊魂は完徳に至らぬであろう。彼らの完徳は貴女に依るのであり、これらの霊魂達に対する責任の大半は貴女にかかっているのである。"」




「天主は水門を開け放たれておられます。天主の審判の日が到着する前に、それらの霊益を求めましょう。それは畏るべき日です。」




「ああわがイエズスよ、最後の審判の日にて御身はこの慈しみの働きの報告を私に求められるでありましょう。ああ義なる審判なれど、聖なる御旨を行わんとす私を浄配はまた同様に助け給うでしょう。ああ慈しみ、ああ天主の御徳よ。ああいと慈悲深きイエズスの御心、私の許嫁の君よ、私の心を御身の御心のようにして下さい。」




「7月16日。私は祈りのうちにこの夜いっぱいを過ごしました。私は主の御受難を黙想し、私の霊魂は天主の義の重荷によりて押しつぶされました。主の御手が私に触れられました。」




「おやすみなさい、わがイエズス。鐘は私を眠るようにと呼びかけます。わがイエズス、御身は私が霊魂達の救霊の為の望みに死にかけておりますのを御覧下さいます。おやすみなさい、私の最愛の君よ、私は一日が永遠により近づく事を喜んでおります。イエズス、もし御身が私を明日目覚めさせて下さいますならば、御身の賛美への新たなる聖歌を始めましょう。」




「人生の時に、霊魂はこの祈りを唱えるうちに唯一慰めを見出します。この様な時に、いかにして祈りのうちに保たれるかを知るべきです。これは大変重要なものです。


†イエズス・マリア・ヨゼフ。イエズス、我御身に信頼し奉る。†1937年一月一日に対する決議。」




「†私は今日、従軍司祭(テオドー神父)の元に告解に行きました。イエズスはこの司祭を通して、私を慰め給いました。ああわが母なる、天主の公教会よ、御身は子らを理解さるる真の母であります。」




「ああ、イエズスが我々の言葉と判断によってではなく、我々の良心によって我々を審判される事は、何と善き事でありましょう。ああ、思いも及ばざる善徳よ、私は正しくその審判の御業のうちに、御身の善徳に満ちみてしを見ます。」




「†イエズス、御身の慈しみのうちに我を隠し、わが霊魂を脅かすあらゆるものに対し我を防ぎ給え。御身の慈しみへの信頼を、失望にさせ給わざれ。御身の慈しみの全能によりて我を防ぎ、同様にわが審判には慈悲深くあり給え。」




「1936年12月28日。天主の慈しみのノベナを始め、この御肖像の前に自らを置き、主は私に教えられましたチャプレットを唱えておりました。この(慈しみの)ノベナの第二日目、私は御姿が数え切れぬランプと共にここにあるかのように来たり、またおびただしい人の群れが、幸福に満たされて来たる見ました。ああイエズスよ、私の心臓の鼓動は大いなる喜びと共にあります。私はこのノベナを、二人の方々の意向、即ちジャルブルズィコウスキ大司教よ、ソポコ神父の為に致します。天主を喜ばせるこのチャプレット、そして御肖像も認可されます様に大司教様に霊感を御与え下さいます様に心から主にこい願います。彼がこの働きを取り消されたり、遅らせられる事がありません様に。」




「ああイエズスよ、憐れみ給え。全世界を抱き給い、御心に我を抱き給え。ああ主よ、わが霊魂を御身の計り知れぬ慈しみの大洋のうちに我を憩わせ給え。」




「1月7日。聖時間に主は私に御受難を味あわせる為に私を導かれました。主の御霊を満たし溢るる御苦しみの御辛苦を私に分かち合って下さいました。イエズスは私に、種々の苦労の種、渇き、誘惑に関わらず、霊魂が祈りにいかに信心深くあるべきかを理解する事を私に御与え下さいました。なぜなら、しばしばの天主の大いなる御計画の悟りの多くの場合は、この様な祈りにあるからです。もし私達がこの様な祈りのうちに保たれなければ、私達を通じてなされる事、私達のうちになされる事をくじくでしょう。全ての霊魂にこれらの言葉を思い起こさせましょう。苦悶のうちに、彼は長く祈られた、と。私の力と、私の務めとの一致するようにして、私は常にこのように祈りを長く致します。」




「マリア、汚れなき童貞女よ、御身の特別なる御保護の下に我を受け取り、わが霊肉と精神の清浄を守り給え。


御身は模範にして、わが人生の星なり。」