聖カテリ・テカウィザ
モホーク族のユリ
1656年に生まれた北米大陸先住民、イロコイ族によって捕らえられたキリスト信者となったアルゴンキン族の女性の娘であり、非キリスト信者であるモホーク族の酋長と結婚した。天然痘の流行の間に孤児となり、更に顔に痘痕と視力障害が残った。1676年にイエズス会宣教師より洗礼を受け、その信仰によって親類より虐待を受けた。聖女は遠方のキリスト信者となった先住民のための村に逃れ、1679年に貞潔の誓いを立てた。福者は高い霊性と質素な生活で知られ、また奇蹟の働き手として知られた。1680年4月17日に24歳で帰天した後、その墓は先住民とフランスの入植者の奇蹟の巡礼地となった。1980年、北米先住民初の福者となった。1943年1月3日に尊者にあげられ、1980年1月22日に教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福された。祝日4月17日。
2012年10月21日、教皇ベネディクト16世によって列聖。亡命者、孤児、信仰のために嘲笑される者の保護者。
<聖カテリ・テカウィザのチャプレット>
このチャプレットは、聖人のメダイと、一連が八個の小珠からなる三連によって構成されています。第一連の茶色の珠は大地を象徴し、第二連の赤色の珠は血を象徴し、第三連の透明の珠は水を象徴し、全体の24個の珠によって、24年の聖女の御生涯を表しています。
第一連の八個の各小珠で「主祷文」を、第二連の八個の各小珠で「天使祝詞」を、第三連の八個の各小珠で「栄唱」を祈ります。
<祈願>
「天主の愛し給う子なるカテリ、モホーク族のユリよ、彼の御身に与え給いし数多の聖寵ゆえに天主に謝し奉る。我に御聖体とイエズスの御母への大いなる愛を与え給え。イエズスへの犠牲を為し奉らんが為に我を備え、しかして我がわが霊魂を救いて天の御国において御身と共に幸いにあらん事を。カテリ、我御身を愛し奉る。常にわが友となり給え。聖カテリ・テカウィザ、我らの為に祈り給え。」
<福者カテリ・テカウィザの連祷>
主憐れみ給え▲キリスト憐れみ給え。
主憐れみ給え▲キリスト憐れみ給え。
キリスト我らの祈りを聴き給え▲キリスト我らの祈りを聴きいれ給え。
天主なる御父▲我らを憐れみ給え。
天主にして世の贖い主たる御子▲我らを憐れみ給え。
天主なる聖霊▲我らを憐れみ給え。
唯一の天主なる聖三位▲我らを憐れみ給え。
貞潔のユリなるカテリ、▲我らの為に祈り給え
イエズスの聖心の慰めなるカテリ、▲我らの為に祈り給え
全ての北米先住民の輝ける光なるカテリ、▲我らの為に祈り給え
恐れる者の勇みなるカテリ、▲我らの為に祈り給え
イエズスの十字架を愛するカテリ、▲我らの為に祈り給え
迫害者に対する不屈の花なるカテリ、▲我らの為に祈り給え
誘惑において動ぜざるカテリ、▲我らの為に祈り給え
苦しみにおいて堅忍に満てしカテリ、▲我らの為に祈り給え
迫害において貞潔を守りたるカテリ、▲我らの為に祈り給え
マリアへの真の愛によりてあまたの先住民を真の信仰に導きたるカテリ、▲我らの為に祈り給え
イエズスの御聖体を愛したるカテリ、▲我らの為に祈り給え
苦行を愛したるカテリ、▲我らの為に祈り給え
信仰の学びの為に幾百里を旅せしカテリ、▲我らの為に祈り給え
よろずの祈祷において確固たるカテリ、▲我らの為に祈り給え
万民のためにロザリオを祈るを好みたるカテリ、▲我らの為に祈り給え
御身の同胞へのよろずの徳におけし手本たるカテリ、▲我らの為に祈り給え
病者の慎ましき下僕なるカテリ、▲我らの為に祈り給え
御身の謙遜の愛によりて諸天使に喜びを与えしカテリ、▲我らの為に祈り給え
御身の聖なる死が全北米先住民にイエズスとマリアを愛する強さを
与えたれば、カテリ、▲我らの為に祈り給え
今世においてあばたの残りし御顔が、御死去のうちに美しくなりしカテリ、▲我らの為に祈り給え
世の罪を除き給う天主の子羊▲主我らを赦し給え。
世の罪を除き給う天主の子羊▲主我らの祈りを聴きいれ給え。
世の罪を除き給う天主の子羊▲我らを憐れみ給え。
祈願
「ああイエズス、北米先住民に貞潔の手本としてカテリを与え給いし御者よ、万民に貞潔を愛する事を教え、そのユリの花によりて、
御身の無原罪の御母マリアと、聖カテリ・テカウィザと御身の聖なる十字架を慰め奉るを教え給え。アーメン。」
「聖カテリ・テカウィザ、我らの為に祈り給え。」
聖カテリ・テカウィザの生涯
カテリ・テカクウィタはモホーク族の酋長と捕虜として連れてこられた部族の娘・マリアの娘としてオッセルネノン、現在のニューヨーク州オリエスヴィルで生まれ、母・マリアは幼少時、フランス人開拓者に引き取られた孤児でキリスト教の洗礼を受けていた。父はモホーク族の中で「亀」と呼ばれる最高の地位に就いていた。亀はモホーク族の間で神聖な生物として崇拝されていた。出生時の名は「ワシェクン」(モホーク語で「空の明るさ」の意味)、テカクウィタは「両手を突き出して進む人」の意味である。テカクウィタは母からキリスト教を教わりそれが彼女の人生に大きな影響を与えことになる。
しかしテカクウィタの父はキリスト教を快く思わず娘から遠ざけようとした。その後、弟が生まれたが1659年、彼女が3歳の頃、天然痘が流行し各村落が全滅し、1660年、両親と弟が病没、孤児となったテカクウィタも感染するもの母の友人であるアナスタシアの献身な看護で回復し父の妹夫婦に引き取られ養女となった。
叔母夫婦の下でモホーク族の生活習慣を身に付けたテカクウィタは11歳の頃、初めて宣教師と出会いキリスト教に興味を惹かれいく。1673年、17歳となったテカクウィタは部族の習慣に従い結婚する事に決まったが違和感を持って拒み、1676年、正式に洗礼を受け「カテリ(カタリナ)」と名乗る。それが叔母らの迫害を受け、彼女は逃亡を決心し、イエズス会がセントローレンス川沿いに建設したカナワケ(「急流」の意味)の「祈りの家」まで命さながら脱出した。「祈りの家」はキリスト教信者となったイロコイ族が規則正しく生活を送る場所であった。
テカクウィタから献身に信者を支えながら質素な生活を送り、1680年4月17日、死去。テカクウィタの霊性が認められ、1980年6月22日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世により列福、2012年10月21日、ベネディクト16世により列聖された。