資本主義に「幸福にしてくれ」と頼んではいけない
<span style="line-height: 150%"><font size="3">いつもありがとうございます。
ツイてる抗加齢(アンチエイジング)実践家てるです。
毎日毎日、多くの素的なことがあり、感謝しています。
幸福はそれぞれの価値観により異なりますが、
健康、経済力、生き甲斐、自由な時間など多くの項目のバランスが必要です。
私はバランスの取れた幸福へ確実に近づいていると感じていますので、
バランスの取れた幸福を望む人のお手伝いをしていきます。
年賀状に書いたのですが、
今年は3つを柱としてお志事をして社会貢献していきます。
<a href="http://plaza.rakuten.co.jp/wellness21jp/15000 ">コラボレーション先の統合医療ライフ・クリニックでの相談活動</a>
<a href="http://plaza.rakuten.co.jp/wellness21jp/3012 ">ママ・プレママの食育勉強会の活動</a>
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▼資本主義は社会を裕福にし、自由にすることはできる。だが「幸福にしてくれ」と頼んではならない
2000年以来、一人当たりに換算して年率3.2%の成長を続けてきた世界経済は、「史上最高の10年」となる道半ばを超えたところ。このペースを維持すれば、世界の景気は至福の時代と言われる1950年代と1960年代を両方追い抜く。世界経済の原動力である市場資本主義は、見たところ、その役目を立派に果たしている。
だが、実際そうだろうか。その昔、資本主義の役目とは、人々の生活を豊かにすることだと考えられていた。今では、それほど明瞭ではない。解決すべき大問題を模索する経済学者や大胆な公約を探している政治家は今、資本主義は何か別のことをすべきだと考えている。曰く、人を幸せにすることである。
経済学は金銭だけではなく、それ以上のものを考慮すべきだという意見は、欧州大陸で広く支持されている。米国型資本主義者と討論する際、賢いフランスの美食家らはよく、経済成長が遅い言い訳として「生活の質」という考え方を引き合いに出してきた。
だが、今では、かつて実利主義に傾いていた英国・保守党の新党首デイビッド・キャメロンが、古くからある国内総生産(GDP)に換わるものとして、「全員の幸福」(general well-being=GWB)という概念を打ち出した。
一方、米国では、不平等、超過勤務、その他の繁栄の隠された代償が中間選挙で大きな論議を呼んだ。そして(健康と対比されるものとしての)「ウエルネス」が巨大産業となり、特にベビーブーマーの「裕福な不満」に応えている。
▼欲しいとは思ってもみなかった物
この議論の多くは、心理学と経済学を融合させた新しい「サイエンスオブハピネス(幸福の科学 science of happiness)」を拠りどころにしている。その信奉者はまず、膨大な調査統計から議論を始める。1972年以来、毎年(あるいは隔年で)数千人の米国人から聞き取り調査している。その調査は、「最近どんな具合ですか。たいへん幸せですか、まあまあ幸せですか、あるいは、あまり幸せでないですか?」といった単純で庶民的な質問から引き出された調査結果だ。
調査結果の一部は、驚くまでもない。裕福な人の方が貧しい人より幸せだと答えている。しかし、説明を要する矛盾も生じている。裕福な国は、豊かになる過程で大して幸福になっていないのだ。米国から日本に至るまで、幸福度を測る数字はほとんど動いていない。
「サイエンスオブハピネス」は、この矛盾について2つの説明を提示している。まず、資本主義は、贅沢品を必需品に変えることに長けている。特権階級がいつも享受していたものを大衆にもたらすのだ。
だが、この能力を裏返せば、人々は、以前は遠くから欲しがっていたものを、持って当然と思うようになるということだ。持てるとは思いもしなかった虚飾が、なしでは済まされない必需品になる。人は“踏み車”から離れられなくなる。より良い生活水準を実現すると、その楽しみに慣れてしまうからだ。
贅沢を大衆市場に持ち込む資本主義の力にも限界がある。人々が最も大切に思う事物――エリート職や最高の教育、あるいは一級の自宅住所など――の多くは、必然による贅沢品である。例えばエリート教育は、それが誰にでも提供されれば、もはやエリート教育でなくなる。これら「局地財(positional goods)」と呼ばれるものは、供給が固定されている。
人がそれを楽しむことができるのは、他人がそうしない場合に限られるだ。それらを手に入れるのに必要な金銭と努力の量は、競争相手がどれだけ投入するかにかかっている。
一部の経済学者は、このような結果は、長年堅持されてきた自分たちの学問の真実性に疑問を投げかけると考えている。経済学は伝統的に、人は自分の関心事を知っており、個々人が勝手に自分の関心事に取り組むのが一番いいと想定する。どれだけ働くか、何を買うかといったことは、その人たちが決めることだ。適切に育てられた経済学者は、人々の決定についてとやかく言わず、説明を試みる。だが、新たな幸福学の大御所たちは、なかなか人々の選択を尊重しようとしない。
仕事を例に取ってみよう。1930年にジョン・メイナード・ケインズは、より豊かな社会はより多く余暇を持ち、労苦から解放されて人生の素晴らしい事物を楽しむようになると想像した。だが、大半の人が、今もかなり長時間、働いている。彼らは、自分たちを幸せにしてくれそうだと思うものを買えるように懸命に働くのだが、結局、労働の果実はすぐに腐ってしまうことに気づかされる。彼らはまた社会的な地位に憧れるが、そうする過程で、生存競争で負けないためにより速く走るよう他者に強いる。だから、だれもが敗者になる。
とはいえ、労働量が減ればより幸福になるかと言えば、それは自明ではない。米国で週の労働日数が短縮された時、空いた時間は熱心なテレビ視聴で埋められた。幸福についていえば、仕事を止めた高齢者は、仕事を続ける仲間よりも早く死ぬことが複数の調査で分かっている。実際、幸福の経済学は他方で、仕事から得られる金銭以外の報酬の研究に勤しんでいる。ほとんどの人は仕事を部分的に楽しみ、さらには仕事を愛する人もいるというわけだ。
資本主義の一面である浪費的な物質主義については、アダム・スミスでさえもそれを問題にしていた。「どれだけ多くの人が、取るに足りない安物の便益におカネをつぎ込んで失敗していることか」と彼はこぼしている。ピラミッド形のティーバッグ(4年にわたり多大の費用をかけて開発された)が人間の幸福の総和を大きく増やしたと主張することは難しい。それでも、資本主義が時に人々を説得し、彼らが欲しいと想像していたにすぎない事物を買わせることがあるとしたら、彼ら自身、自分が持っているとは気づいていなかった趣向や適性に訴えかけることもある。芸術では、それは「創造性」と呼ばれて尊重される。商業では、それは「斬新さ」と呼ばれて、かなり頻繁に退けられる。だが、物質的な改良を求める衝動がなければ、人は今でもウールの下着を身につけ、ブータンではなくてボグナー(訳注:英国の地名)で休日を過ごしているだろう。それは、そんなに素晴らしいことだろうか?
▼ニッチな資本主義の喜び
この種の成長が人々を幸福にしないとすれば、停滞が功を奏するはずがない。硬直した社会は「局地財」をより嫉妬深く防衛する。一方、繁栄している経済は、生物学者が生態的地位(ニッチ)の「込み合った川岸」と呼ぶものを創造する。それらの間には明瞭な上下関係はない。ジョージメイソン大学のタイラー・コーエンは、米国には3000以上の「名誉の殿堂」があり、ロック・スター、スポーツ選手から犬ぞりの御者、漬物包装人、会計士までを讃えていると指摘する。そんな社会では誰もが、自分が所属する特定集団でトップになる希望を持てる。たとえ自分が見下している人は、少し違った集団のトップを自任しているにしても。
市場システムは、成長に加えて喜びをもたらさないから欠陥があると思っている人は、市場システムに重い義務を負わせすぎている。資本主義はあなたを裕福にできる。そしてまた資本主義は、あなたが好きなだけ不幸になる自由を与えている。市場システムにそれ以上を求めるのは、求め過ぎというものだ。
(出典:日経ビジネスオンライン)</font></span>