前田利家 (まえだとしいえ 1538~1599 安土桃山
時代の武将 加賀初代藩主 権大納言。尾張(愛知県)
荒子城主、前田利春の次男 幼名は犬千代。
1551年に織田信長に仕えた後、又左衛門と改める。
青年期は、血気盛んにて武勇を誇り「槍の又左(またざ)」
と異名をとった。ある時、信長の怒りに触れてしまい禄を
召し上げられたが、美濃・桶狭間・姉川・長篠の戦で功を
あげ、能登一国23万石を拝領した。
翌年、「本能寺の変」で信長が急死し、羽柴秀吉と柴田
勝家による後継者争いとなるや秀吉につく。豊臣秀吉の世
となり、五大老の一人として秀頼の後見役となる。
秀吉の没後は、徳川家康と反家康派の間で両者の協調に
努めた。温厚で人望も厚く、優れた治績を残して加賀藩の
基礎を作った。 1599年閏3月に病死。)
不遇(ふぐう)の時に 人の本心が
わかる
この言葉は、前田利家の実体験に基づくものである。
前田利家は、織田信長にたいそう気に入られ、また可愛
がられた大名で、若い時分は信長の近習も務めていた。
信長が“かぶき者(異様な風体をして大道を横行する者)”
と言われ、尾張の城下を遊び歩いていた頃、利家もやはり
同じ様な格好をして腰巾着の様に供をしていたという。
ある時、信長配下の坊主を殺めてしまった事から、信長の
逆鱗に触れてしまい、牢人生活を強いられた。
その際に自分自身の心情と親しかった者達の心変わりに
ついて出た言葉とされる。
親しかった連中も、落ちぶれてしまった今となれば信長に
“告げ口”をして、自分の出世の材料にする者は居ても、
本心から心配して見舞いに来る者は、ごくごく限られた者
達だけであった。
あの秀吉でさえ来なかったとされる。
日和見(ひよりみ)に長けていた秀吉は、情に流され自身
の出世の妨げとなる様な事はしない。
常に、「信長は何をしようとしているのか?」「その為に我々
は何をしなければならないのか?」を考えて行動している。
話しが余談になってしまったが、自分にとって無償の思い
で応援をしてくれる人間は一体、何人いるだろうか?
と考えた時、苦境に立たされてみるとそれらが見えてくる。
人の本心や思いやり、心遣いについては、逆境に立たされ
孤軍奮闘、孤立無援、四面楚歌といった状態に陥った時に
こそ手に取るように肌で心で感じられるものです。
あなたにとって “本当の仲間” や “心から心配して助言を
くれる友人” は一体誰なのでしょうね・・・・。