一旦は学びの多様化学校が増えることは良いことだと思います。

ただ、

「普通の学校に合わない子はあっちへ行ってください」

という考え方に陥らないように注意しなければいけません。

 

それは、

「人には合う合わないがあるから、特性に併せて分離して生きていけばいい」

という考え方に繋がりかねないからです。

 

「共生社会」とか「インクルーシブ」

といった言葉が様々なところで聞かれますが、それが表す社会の姿は、「分離」や「棲み分け」ではなく「統合」や「共に過ごす」ことなはずです。

 

しかし、今の学校や社会は、マジョリティ側に併せて設計・運用されている部分が多いのは事実で、様々なマイノリティ性に寄り添った形に再設計や運用変更を行う必要は常にあります。

(ちなみに人は誰しもマジョリティ性とマイノリティ性を併せ持っているもので、単純にマジョリティ側の人・マイノリティ側の人と切り分けられるものではない)

 

そういう点で、学びの多様化学校が増えて、教育課程の特例によって柔軟に運用されるようになれば、

 

「そっちの学校の方がいいな」

「なんでうちの学校ではできないの」

 

という議論が各地で生まれると思います。

 

そうした議論の中で、既存の学校は自らの教育観や学校観を問い直し、説明し、当事者たちと対話することになっていく、そんな流れも期待して、一旦は学びの多様化学校が増えていくことを歓迎したいと思っています。

でも、その先にはやがて「学びの多様化学校」と呼ばれる必要もないほどに、既存の学校が誰にとっても居心地の良い場になっていくことを願っています。

 

千葉大の藤川教授は教育新聞の記事で3つの課題を指摘しています。

 

引用

>第1に、どのような学校が求められているかについて、当事者やそれに近い方々の意見を反映させる仕組みを作る必要があることだ。<

>第2に、教育課程の特例がどこまで認められるかが不透明であることだ。<

>第3に、本紙22年11月30日付記事でも報じられているように、地方自治体の財政負担が重いことだ。<

 

 

これらの課題については、国レベルの議論になってくるので、文科省や国会議員の方々にも、その先にある社会の姿まで想像しながら、ぜひ深い議論をしてもらいたいです。