「社会的効率主義」と「社会改造主義」の観点は、教育委員や学校運営協議会などにはぜひインプットしてほしい観点です。

 

 

All or Nothingになってはいけませんが、社会に適合させるための教育か、理想の社会を実現させるための教育か、という議論はいつの世でも継続的に行うべきだと考えます。

 

社会的効率主義を「子どもを社会に適合させるのが目的」とだけ理解すると、非常に印象が悪いですが、社会は不寛容な部分も多いのは事実ですし、学校や教員が卒業後もずっとその子を支援し続けられるわけでもないので、やはりある程度は社会に適合させることを目的にする必要はあります。

 

これは幼稚園より小学校、小学校より中学校、中学校より高校や支援学校など、社会に出るまでや支援の手が離れるまでの時間が迫って来れば来るほど、そのプレッシャーを強く感じるのは事実だと思います。

 

一方、社会改造主義を「理想の社会を作るための人材育成」と捉えると、学校の中で理想の社会を実現するために日々過ごしてきた子どもたちが、社会に出たときにフィールドを変えてその理想の実現のために活躍してくれる、と考えられます。

 

しかし、この「理想」を設定するのは簡単ではないですし、教育政策も政治と無縁ではいられないですから、時の政治状況などとの距離の置き方には非常に慎重でなければいけません。

(特に戦時下の政治状況を反省材料にすることが重要ですね)

 

 

こども基本法第一条は「日本国憲法及び児童の権利に関する条約の精神にのっとり」と始まります。

この日本国憲法と子どもの権利条約は、教育の土台として置くには(今のところは)優れた法規だと思います。

同条は、「次代の社会を担う全てのこどもが、生涯にわたる人格形成の基礎を築き、自立した個人としてひとしく健やかに成長することができ、心身の状況、置かれている環境等にかかわらず、その権利の擁護が図られ、将来にわたって幸福な生活を送ることができる社会の実現を目指して、社会全体としてこども施策に取り組むことができるよう」と続きます。

「権利の擁護が図られ、将来にわたって幸福な生活を送ることができる」「社会の実現を目指して」とあるように、今の社会を更に変化させていくことを謳っています。

 

そして教育基本法第一条では「平和で民主的な国家および社会の形成者〜」の育成が掲げられていることから、こども基本法にあるような社会を形成するための資質能力を育成することも、今の学校教育に要請されていると理解できます。(多少強引かもしれませんが)

 

社会的効率主義は大人の作った社会に子どもを付き合わせるものかもしれません。社会改造主義は大人の作った理想に子どもを付き合わせるものかもしれません。

 

でも、そうならないためには、やはりこども家庭庁が「こどもまんなか」をスローガンに掲げたように、子どもにとって最善の利益は何かを、子どもたちと一緒に考えていくことが重要なんだと思います。

 

教員をやっている人には分かるかもしれませんが、子どもたちは日々学校や教室という社会の中で、そこに適合していったり改造していったりする力をもっているものです。

人と人の間で、教えるとか導くとか与えるとかばかりではなく、支援や伴走をしながら、一緒に考えたり行動したりするという姿勢を大切にしたいなあと思いました。

 

引用>

そこでは、望ましい社会の在り方を模索し続けるとともに、しっかりと子どもを見つめ、その内なる求めに応じて育て上げていくことが求められる。なぜなら、子どもの健全な成長こそが、次世代の社会を健全なものとする最大の力だからである。その意味で「社会に開かれた教育課程」とは、同時に「子どもに開かれた教育課程」でもあり、そこにおいてこそ真の共有や連携及び協働が実現できると理解すべきであろう。<