(平成21年)「早稲田にあったのは革マル派の自由」流れた資金は2億円超 対峙した奥島孝康元総長の気概と矜持(24年5月2日 産経新聞オンライン無料版)

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インタビューを受ける奥島孝康さん

 

この記事は、平成21年5月29日付の産経新聞大阪本社版に掲載された記事のアーカイブ配信です。肩書などは当時のまま。学生運動について描いた連載記事「さらば革命的世代」のなかで、5月1日に亡くなった早大元総長、奥島孝康さんのインタビューを掲載しています。

 

元早大総長の奥島さん死去(2024/5/2)

 

◆合鍵もつくられていた

 

「早稲田は自由の大学といわれていますが、実際にあったのは、革マル派にとっての自由だったのです」

早大の元総長で、現在は学事顧問を務める奥島孝康さんは振り返る。革マル派に大学の実権が握られているという危機感を強くした奥島さんは平成6~14年の任期中、彼らをキャンパスから追い出すことを最大の任務と位置づけていた。

 

早大では昭和40年代後半から、革マル派が各セクトとの抗争を制し、勢力を強めていた。自治会の主導権を握り、サークルの部屋が学外者も含めた活動家の拠点に使われるなど、約30年間にわたり大学が利用されていたとされる。

 

15万人以上の来場者を呼び「日本一の学園祭」といわれた早稲田祭の収入が革マル派の資金源になっているという疑惑もあった。公安関係者によると、サークル補助金の流用なども含めると、早大から革マル派に流れる資金の総額は年間2億円を超えていたという。

 

奥島さんは、革マル派の主導で行われていた学生大会でストライキ決議が可決されると、期末試験が中止になるという慣例を特に問題視していた。

「値上げもしていないのに値上げ反対のスト決議が可決されたこともあった。こんなことが長年続けば、教育は荒廃する。だが、以前の大学執行部は『学生を追い詰める必要はない』と及び腰だった」

革マル派は、中核派などとの激しい内ゲバで知られる過激派の一つ。警察無線すら傍受できる盗聴技術を持っているといわれる。その技術を駆使したのか、革マル派に批判的な姿勢を見せた早大関係者は次々と、金銭問題や女性問題などのスキャンダルを暴露された。アジトを捜索した警視庁が大量の合鍵を見つけたこともある。その中には、奥島さん宅の玄関ドアの鍵も含まれていたという。

 

◆合図したら逃げて(大学もなれ合い)

 

約40年前の全共闘運動の特徴は、ノンセクトラジカルと呼ばれるセクトに属さない活動家が多かった点だ。組織に拘束されず、誰もが参加できる。ただ、そのスタイルは共感を集めると同時に、沈静化するのも早かった。セクト回帰の動きは次第に加速し、全共闘以降も生き残った各セクトは労組や大学を拠点としながら命脈をつないだ。

 

こうした動きを「大学側にもメリットがあった」と指摘する関係者もいる。「彼らは不審な新興宗教や悪質商法を学内から追い出す役目も果たしてくれた。セクトをうまく使えば、学生管理がしやすいという面もあったことは否定できない」。早大では、反共産党の教授が「民青がはびこるぐらいなら、革マル派の方がまし」と支援に回ったこともあったという。

 

首都圏のある大学を拠点としたセクトは大学当局と表面上は衝突しながらも、背後で「一線を越えない」と取り決めをしていたという逸話も残る。この大学の学長経験者は「団体交渉の際、学生側から『追及はするが合図したら途中で逃げてください』と事前に持ちかけられたこともあった」と打ち明ける。

 

◆新左翼セクトとの決別を進める大学が増加

だが、平成に入ったころから、新左翼セクトとの決別を進める大学が増加。早大の場合、奥島さんが法学部長に就任した平成2年ごろから、革マル派との対決姿勢が鮮明になった。奥島さんはまず、慣例を振り切り期末試験を強行する。

平成5年1月23日の法学部の期末試験初日。試験強行の方針を知った革マル派側は全国動員で活動家を集め、教室前でピケをはった。ただ多かったのは学生ではなく40、50代の活動家。教職員ともみあいになり、けが人も出たが、教員が拡声器で「試験は予定通り行う」と連呼すると、一般学生が教室になだれ込んだ。「革マル支配に風穴が開いた」と奥島さんが思った瞬間でもあった。

 

◆うわべは保守派もウラで革マル派と結託

 

奥島さんは、思想的には「左」だ。学生運動経験もある。全共闘運動の約10年前に盛り上がった昭和35年の60年安保闘争のときは、早大2年生。クラス委員として赤い腕章をつけて全学連デモの先頭に立った。

同年6月15日の国会突入デモでは、機動隊とのもみあいで亡くなった東大生の樺美智子さんのすぐそばにいた。「学生のころから、社会主義に共感は持っていたし、そうした気持ちは今でも残っている」と話す。

 

革マル派の勢いを止めるためにさらに必要なことは、資金源を絶つことだった。大学側は平成7年には商学部自治会の公認を取り消し、自治会費の代理徴収もやめた。経理の不透明な学園祭の実行委員会をめぐっては9年、事態の正常化を一気に進めるため早稲田祭そのものを中止した。

法学部長として4年、総長として8年の計12年間にわたった「12年戦争」。奥島さんは「大学の歴代執行部は、あえて対決を避ける事なかれ主義に陥っていた」と振り返り、さらにこう指摘した。

 

「革マル派との対決は、いろんな人の協力があってこそできたこと。ただ、革マル派と手を組む人が学内に大勢いたことは我慢できなかった」

例えば、教授の中にも、清廉潔白を売り物にして常々「不正は良くない」という割に、革マル派の不正は容認するという人、保守的な主張を繰り返す一方で、裏では革マル派と結託していた人もいたという。

 

◆思想的な立場よりも、その組織や個人が実際にどんな行動をするのか見きわめる

 

「彼らとの対決を通じて思想的な立場よりも、その組織や個人が実際にどんな行動を取っているのかを、見極めることができた。『世の中を変える』と口先では言いながら、実際には『変わらないほうがいい』と内心では思っている人が大勢いることも知りました」