(岸・増田『社会保障の保守主義 増補改訂版』

第8章 わが国の戦後社会保障の条件 第1節 わが国の社会保障に先立つもの)

 

(4)日本人にとっての自立

 

 『礼記』大学篇に、国を治めようとする者はまずその家を斉え(ととのえ)、家を斉えようとする者は先ずその身を修めるとある。修身は自分のためではなく家と国のためだった。『孟子』離婁(りろう)上篇では「天下の本は国に在り、国の本は家に在り、家の本は身に在り」とある(16)。これらは個人そのものの価値に発するというよりは「個体-家族-国家-天下」という連続体において個人の成長を位置づける発想で、漢籍に堪能だった福沢諭吉は独立自尊を唱えるとともに、一身の独立を国家の独立に結びつけ、当時の人々の教養に訴えて列強に植民地化されまいとする時代の要請に応えた。

 

 『孝経』応感章に「身を脩(おさ)め行いを慎むは、先を辱(はずかし)むるを恐るればなり(祖霊に恥をかかせないためである)」とある。また、『春秋左氏伝』に「君の義、臣の行い、父の慈、子の孝、兄の愛、弟の敬は、いわゆる六順なり」と家族の心構えを定めた。また、『論語』述而(じゅつじ)に孔子が「述べて作らず信じて古(いにしえ)を好む」と述べ、儒教では昔の出来事や歴史から離れられず個人の自由な発想を嫌う傾きがあった。こうして西欧的な「個性の発展」や「自立」を育てるには不向きな環境だった。

 

 もっとも西欧だってキリスト教に縛られていたが、一部の人がそこから脱出したり棚上げするときに「自我」や「理性」などと言いだした。それは当初は、教会やしきたりにしたがって暮らしている庶民にとってはどうでもいいことだった。(16~18世紀に中国で布教したイエズス会士が、当時の朱子学をヨーロッパへ紹介したが、神の存在を前提せずに「理性」の自律的な働きが存在するという発想が、フランス百科全書派とフランス革命やドイツの啓蒙主義などに影響したという)。

 逆に、日本でも朱子学を通して、自分がやっていることや、やろうとしていることが道理にかなっているのか自己反省するということを学んだ。ある意味、日本人は「人」の内面を重んじる儒教や仏教を通して外見に縛られない考えをもっていたのかもしれない。

 

 そして、天下の台所・金融の中心地大坂の奉行所の捜査担当の与力の大塩平八郎が役人の腐敗を告発し1837年に与力仲間・町人・農民と共に決起した。かれらは自分たちが「義」であることの根拠を陽明学に求めたということで、町人にも陽明学の人気が出たという。

 

 そして、王陽明『伝習録』教約の「事上磨錬」にも関心が持たれた。

 「人はすべからく事上(毎日の仕事や生活)に在って磨錬し、功夫を做(な)すべし。乃ち益あり。もし、ただ静を好まば、事に遇ひてすなわち乱れ、遂に長進なく、静時の功夫もまた差(たが)はん」。学問はただ静座してやるのではなく、心を込めて仕事をやりそこから学ぶことであると解釈されたが、これは朝鮮朱子学の理論偏重、実学軽視・商業抑圧路線とは対照的な儒教だった。(なお西郷隆盛はじめ明治に活躍した人にも陽明学支持者が多かった)。『大学』からも「学ぶ者は誰でも職分の当(まさ)に為すべき所を知って而して各々、勤勉に勤めてその力を尽くす」と学んだ(31)。

 

 これらを座右の銘とした人たちは天職としての職業に目覚め、経済的成功と教養と人格の完成を結ぶ商人道徳を練り上げ、お金の損得だけでは左右されない処世訓を内面化した。とはいえ実践することは難しかったに違いない。だからこそ「天野屋利兵衛はおとこでござる」というせりふに江戸庶民はしびれたのであろう。

 

 実は釈迦は、人が洪水で流されても大河の中の中洲の島につかまって救われることになぞらえて「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」と諭した(32)。また「己こそ己の主である。己こそ己のよりどころである」(33)とも述べ、自分と釈迦の教えを拠り所にしなさいと教えた。(うちの真言宗のお寺から来たチラシにお釈迦様のことばとして「自灯明方灯明」ということばが紹介されたことがある。これを解して「自灯明とは自分を拠り所としなさい」ということで、「自分を拠り所とするとは自分を知ること。一人で生きているわけではない。必ず何かのご縁により学び、怒られ、育てられている自分を信じて生きる」という)。 

 

(5)相互扶助と勤倹貯蓄

 

 戦前のわが国の会社では、親・家長たる社長が使用人や社員に家族同然の身内として接し、若い使用人の交友関係や遊興、信仰、教養などにも気を配るのは当然とされた。それは今日の「温かい家族」とは違って、実は、雇い人は社長から保護されないとだめな人間とみなされ、社長の意向に逆らえば、虫けら同然に蔑まれたようだ。もっとも社長も会社の外では、取引や社員採用に、親類縁者だとか出身地や学校の先輩後輩、お世話になった人や地元の有力者の紹介など、縁故や義理のしがらみがあった。

 

 このようにわが国では親族、地域、同業者組合、業界団体などの相互扶助や企業の福利厚生が「共同体の相互扶助機能」を持ち、生活に役立った。その半面、困ったときには親兄弟、妻の実家に泣きつけば何とかしてくれるという、いわば都合のいい処世術にもなった。断られれば「薄情」といって逆恨みした。

 

 しかしそれに対して二宮尊徳(1787~1856年)の報徳思想は少し違っていた。それは人びとに生活の中での至誠(心を誠・徳・仁に向ける)・勤労(至誠にかなうように行動する)・分度(収入の内から一定の余剰を残す)・推譲(余剰余力の一部を各人が分に応じて拠出し、助け合いや村づくりに充てる)の実践を勧めていた。これは単なる「やりくり上手」ではなくまさに「自助・共助」で、地域の人間関係・社会関係の中で「報徳精神」を極めようとするものであった。(ちなみにもともとの報徳とは「徳を以て徳に報いる」の意とされる。『論語』憲問では、ある人が「怨みに対して徳で報いる」という答はいかがでしょうかと尋ねると、相手の方が、それでは人から恩恵を受けたとき何でお返しするのか。「怨みには怨みを徳には徳を」で良いと答えたことに由来するコトバといわれる。しかし報徳精神は人は助け合いがあってはじめて生きていくことができるのだから、自分の周りの人に感謝することが大切ということであろう)。

 

 これは産業振興のために国民を啓蒙しなければいけないと思っていた政府・官僚にとっては願ってもない和製の「実践モデル」でもあり、全国の小学校に二宮金次郎の像を建てて後々まで人びとの「自立精神」を育むのに役立てた。(欧米流の「自立」は家族や集団に依存しないことで、近年の日本の自立は国家に依存しないことといえる)。