保守主義に先立つ精神的保守(4)国と家 家族と家長の権威==================

 

 

4)国と家

 

 田中美知太郎は明治の国家建設をこう述べた。新しい国家の姿を求めて欧米へ派遣された政府要人は、1871年に国家統一を遂げたばかりの新興ドイツ帝国に注目したが、「国家」は徴兵制度によって「家」を破壊する力を持っていることを目の当たりにした。国家は家族や隣近所の付き合いなど自然発生的で共同体的な人間関係に背く性質があった。

 西洋では、国家が言語や文化の違ったものを人工的に統合した経験があるが、明治維新の日本で人民が国家意識を持つには意識革命が必要だったはずである。そこで明治の指導者は対立するはずの「国」と「家」を一つにして、国家を家族のイメージでとらえさせようとした。日本という国は一つの大家族で、どんな人も先祖をたどるとみな皇室にたどり着くと教え、皇室が家長とされた。こうして指導者は、「お国のため」は「家のため」といって忠孝一致を庶民に浸透させた。なるほど日本人はネーションにcountryとhomeの漢字を当てて疑問を感じないと英国人が指摘した(24)

 

 子どもは学校で「立身揚名」が親の立派さを表す最高の「孝」と教え込まれていた(「身を立て道を行い名を後世に揚げ以て父母を顕すは孝の終わり(孝の完成)」『孝経』開宗明義章。江戸の寺小屋では大人になっても困らない実用的な読み書きソロバンを学べた)。でも国は「孝」を教え込み殉職者の遺族を支援するだけで、庶民の家族そのものを守ったわけではなかった。一方で、国民にとっては生き延びるためのモデルは家族や親族やムラの助け合いで、そのためにも自分も所帯を持ち子を育て家業を継承することが当たり前だった。それらは内面的にも社会的にも「自然に」行われたから、「新しい国家」は庶民に結婚・産業・出産を強制しなくても、家長に強い権限を与えておくだけでよかった。その意味では庶民の家族や共同体は「明治国家」から自立していたようにみえる。

 1871年に渡欧した大久保利通は政治体制を先進国英国ではなく新興国のドイツ(プロシア)の官僚主導の近代化に強い影響を受けた。82年伊藤博文は欧州で憲法調査をし、ウィーン大学のシュタインから立法府は議会の会期にしか存在しないから、国家の有事を察し臨機の対応をする役目は行政府が持たねばならないということを学んだという(25)。85年に大臣を省の長官に据えることで強い官僚制度が始まった。

 

5)家族と家長の権威

 

 上野千鶴子によればわが国の家族の形は明治以前は、武士階級に「父系直系家族」(子どものうちで跡取りだけが父の財産を引き継ぎ他の子はやがては家を出る仕組み)がみられたが、武家は人口の3%にすぎず、そのほかの「農工商」は多様な世帯構成のもとで暮らしていた。

 政府は各地の相続や家族の慣習法の調査をして1878年に最初の民法政府案を出した。豪農や豪商の間では、息子の出来不出来が分からないので、娘の婿を広い人材の中から探す方が家族戦略に叶うということで「姉家督」と呼ばれる「母系相続」であったが、政府は母系相続を「庶民の蛮風」としてしりぞけ、1898年に男子が家督を相続するという最終案になったという(26)

 もっとも中根千枝によれば日本の父親の権威は「父」ではなく「家長」に由来し、家長権の内実は家柄や財産に左右された。だから昔の父親の理想像は一部の恵まれた家のものだった(27)。庶民の家庭では「かあちゃん」が強かったのである。

 

 明治民法では家長権を絶対視したが、今日でもわが国の保守主義者が描く嫁のモデルの極端な例は、貝原益軒の著書を本屋が簡略化して出版したとされ、江戸時代から明治にかけて女性の教訓書とされた『おんな大学』であろう(28)。明治時代は離婚が多かったから、婦道が廃れたと不安を感じ「期待される女房像」として利用されたのであろう。一部を例示してみる。

 一、嫁してはその家を出でざるを女の道とすること、聖人の教えなり。もし、女の道に背きて去らるる時は、一生の恥なり。一、女子は夫の家に行きては専ら、舅姑を我が親よりも重んじて厚く愛しみ敬い孝行を尽くすべし。親の方を重んじ舅の方を軽んずる事勿れ。一、婦人は夫を主君と思ひ敬い慎みて事(つか)ふべし、軽しめ侮(あなど)るべからず。夫の教訓あらば其の仰(おおせ)を背くべからず(以下省略)。

 

 ところが人間関係の上下関係を規定したのは儒教の「五倫」ではなく「三綱」(さんこう)であるといわれる(綱は人の守るべき道)。

 「五倫」は孟子由来で、親や年長者への敬愛を「孝悌」と名付け、「父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信」の実践が重要とした。

 それに対して「三綱」とは西暦79年に儒教の学説を整理し国家主義化したとされる中国の「白虎通」の三綱六紀篇で、その「君為臣綱、父為子綱、夫為婦綱」は、君と父と夫は臣・子・妻にとって行動様式の根本となる絶対的な存在であると解された。朝鮮の『三綱行実図』(1431年)は「三綱」の模範となる忠臣・孝子・烈女の実践事例集で、日本に伝わり17世紀中頃に和訳本が刊行された。

 元来、「五倫」は相手との双務的な関係だったのに対して、「三綱」は服従的・縦的な関係を強調し、政治的・社会的に上に立つ者に都合よく作られたものである。儒教の特徴とされる、個人の尊厳を損なう服従倫理、家父長的な権威主義、個人の自由の抑圧などの原因の一端は「三綱」にあるという(29)。(もっとも西洋でも紀元前4世紀のアリストテレス『政治学』第5章(岩波文庫)に、男性は自然によって優れたもので女性は劣ったもの、男性は支配する者で女性は支配される者とある)。

 

 確かに『孝経』諫争章では、父の言葉には疑いを持たずに従うことが「孝」かと問われて、「否。不当・不善・不正があれば父に諫言(かんげん)するのが孝」と答え、父に絶対服従とは教えなかった(諫は人の過ちを正す)。

 だが『論語』里仁には、父母の間違いに気づいて諫めた時に父母が納得しなくても、父母を敬う気持ちは変わらず無駄になっても怨まない、とある。

 また『礼記(らいき)』曲礼(きょくらい)下篇では「子の親に事うるや、三諫して聴かれざれば、則ち号泣して之に随え」と教えた。戦前も人身売買された娘が苦界に身を沈めても親や弟や妹のため「孝」のためと納得するほか考えは浮かばなかった。

 

 夫婦の性別役割分業はどうだろう。井上哲次郎は教育勅語の解説の中で、教育勅語の「夫婦相和し」を次のように説いた。「一家の安全」は夫婦の和合に基づくものだから夫婦は常に愛し合い、また、妻はもともと知識や才量が夫に劣るからなるべく夫に服従すべきである。夫は自分の幸福だけでなく妻の幸福にも気を配るべきで、最も親しい「同伴」として深く愛すべきである。家は、「夫ハ外ニアリテ業務ヲ営ミ、婦ハ内ニ居テ家事ヲ掌(つかさど)」り、子を養育し独立させる義務がある(30)

 この最後の引用が「男は外で仕事、女はうちで家事」という性別役割のきっかけといわれる。

 

 しかし当時の庶民は7~8割が農民漁民で残りの大半も商人や職人だったはずだから、家業や内職で夫婦共働きが当たり前だった。だから妻が家で夫の帰りを待つだけの「専業主婦」が望ましいなどというはずがなかった。昼間は夫婦共に働くのは当然として、その上で夫は家の代表としてもっぱら寄り合い(各戸の当主の集会)や同業者との対外関係を引き受け、「家庭内の事情」は妻に任せなさい、という役割分担を述べたものであろう。農家や商人は村や町内、同業者と歩調を合わせないと「出る杭は打たれる」式に仕事に差し支えができるから夫はそれを弁えて家業をやるべきだということでになる。妻は昼間の家業が終わったら繕い物や保存食や育児、親の世話などやることはいくらでもあった。もちろん寄り合いがない日は手伝ってくれる夫もいたはずである。家の内では「夫婦は愛し合いなさい」といい、家庭は「家業」を支え「家」と夫の評価を左右する妻の職場だったから、今の会社員の専業主婦の家事労働とは全く違った。今でも歌舞伎など職業によっては「家業」を支えるのは妻で、それなくして「家業」が成り立たない。