保守主義に先立つ精神的保守(3)明治の忠 恤救規則=============================

 

2)明治の忠

 

 大国清が列強によりアヘンと武力で蹂躙されたのを見て、幕府は戦争と植民地化をおそれ開国して通商に応じ西洋式の軍備を取り入れた。ところが島津家の薩摩と毛利家の長州は列強と交戦し敗れ、賠償金をとられたが幸いなことに日本の植民地化は免れた。

 1861年の米国の南北戦争はヨーロッパに綿花の不足と価格高騰を引き起こした。そこで、それまで琉球交易や海外貿易の経験を積んでいた薩摩御用商人は、その機に乗じて大坂で日本中の綿花を買い集め輸出し巨利を上げた。こうして外国商人を知る薩摩は海外情報を収集しつつ富を蓄え、最新の武器・艦船を購入して近代化された軍事大国になった。また、旧式軍艦を他藩に転売して利益を上げた(21)。そして海外情勢をもとに幕府に改革を提言したが受け入れられず焦りを募らせ、その一方、徳川に領地を奪われた怨みを持つ長州にはコメと引き替えに武器を融通した。

 それまでの英国勢は海外の進出先で紛争を煽ったといわれるが、徳川との内戦に備える薩摩は英国貿易商から戦勝賠償金を形に最新式武器を買い込んでいた。これが大政奉還後の討幕開戦の圧力の一因という説もある。1867年パリ万博で薩摩は幕府とは別に「日本薩摩琉球国太守政府」の名で参加する勢いで、西欧列強は幕府と薩摩のどちらを交渉相手にすべきか迷ったという。

 結局、天皇・公家と通じた薩長は慶喜の大政奉還後に武力で徳川の封建体制を終わらせたが、覇権を握った薩長新政権の正統性は天皇の信認だった。

 

 その外交は、帝の許可なく徳川が独断で締結したと尊攘派が非難していた外国との条約を新政府も守ると宣言し「攘夷」論を棚上げして徳川の「開国」を引き継いだが、「海防」はやがて吉田松陰の「雄略」に乗り換えた。内政では、国家として外国に対応するために中央集権制に転換し、政府の独自財源を調達し、各藩へ太政官達(たつ)などよりも強制力のある命令を出せる新政体の確立が課題だった。

 

 1871(明治4)年の廃藩置県では、主君と家臣の主従関係が廃止され両者は朝廷の家臣となり、大名は知藩事として新政府の地方行政官となり世襲は廃止されたがのちに華族に列せられ皇室の守り(藩屏(はんぺい)。天皇を守る人)となる使命を与えられた。藩の領地は新政府の管轄地となり藩の消滅で各藩は商人からの莫大な借金を返済せずに済むことになった。とはいえ、やがて家宝の美術品などを売って家計を賄った。

 

 廃藩置県と76年の秩禄処分をやり遂げた藩閥政府(欧米の歴史家が大変な無血革命だという)は、今まで主君に向けられていた家臣の「忠」や領民の恭順を天皇に向けさせなければならなかった。しかし当時の武家社会では官相当の上士、吏相当の下士ともに「孝」と「忠」をもっていたから、その「忠」を天皇に向けさせれば良かったという(22)。同時に政府は敗者徳川を悪とする歴史観を広めた。

 

 しかし儒教には弱点があった。

 「父は子の為に子の悪事を隠し、子は父の為に父の悪事を隠す」『論語』子路、つまりルールよりも「情」を重んじ、これを公的場面に持ち込む。だから、もし兵が老母を気遣って戦争の前線を逃亡しても、儒家は親孝行だなあとほめる。親子の情が子を国と民に背かせる。現代でも儒教の影響がある国では、法治国家らしからぬ、法律でなく大衆の「情」で動かされる政治を民主化という政権もある。「情」で動かされた検察や裁判が「徳治」として大衆受けする。

 

 吉田松陰は1855年の『士規七則』で「君臣父子を最も大なりと為す。人の人たるゆえんは忠孝を本となす。君臣一体、忠孝一致、ただわが国をしかりとなす」と述べた。実は『孝経』士章では「孝を以て君に事(つか)うれば則ち忠」だったが、松陰はこの「孝忠」に代えて「忠孝」一貫教育をおこなった。これは『論語』の弱点の克服だった。

 新政府指導者は庶民に「忠」を持たせるために、例えば天皇が京から江戸へ移動する途中の村々で領民に施しものを賜ったりして庶民に広く慈愛を示してもらった。

 

3)恤救規則

 

 1868(慶応4)年4月、五箇条のご誓文が発出された翌日に出された『五榜の掲示』の第一札は「五倫道徳遵守」で、その内訳は「人タルモノ五倫ノ道ヲ正シクスヘキ事」「鰥寡(かんか)孤独廃疾ノモノヲ憫ムヘキ事」「人ヲ殺シ家ヲ焼キ財ヲ盗ム等ノ悪業アル間敷事」であった。この五倫とは君臣・父子・長幼・夫婦・朋友の間のあるべき関係を述べたものである。(なお、ここの「鰥寡孤独廃疾」は『礼記』礼運篇の大同というユートピアの説明にあった「鰥寡孤独廃疾」をひいたものといわれる)。

 

 戊辰戦争で荒廃した江戸では藩から解雇された奉公人も多く、人口は50万に減りその6割が極貧だったと言われる。1872(明治5)年のロシア皇太子の東京訪問に際して、「帝都の恥かくし」のために浮浪者を収容するのをきっかけに「養育院」が東京府により設立された(昭和47年まで続いた東京都養育院の前身)。その資金には江戸の貧民救済資金「七分積金」も用いられたが、それを管理したのが実業家の渋沢栄一だった。

 富を成す根源は仁義道徳と考えていた幕臣渋沢はフランスに派遣されて見聞を広め、帰朝後、銀行や会社を創るとともに、困窮者救済にも目を配った。1874年に養育院の事務監督、76年に事務長に任命され入所者の医療、職業訓練、基礎教育を始めた。それから50年間、先頭に立って民間資金を集め養育院をまもり、さらに大蔵大臣に救護法実施を促すなど、実業家が社会福祉に貢献する嚆矢(こうし)となった。他の実業家も渋沢に請われては断ることもできず、福祉に寄与するようになった。

 

 1874(明治7)年に明治政府は、廃藩置県で藩主の施しがなくなった身寄りのない貧困者を救済する太政官達「恤救(じゅっきゅう)規則」を発し、身寄りのない困窮者のうち障害者と70歳以上の老衰者と13歳以下で極貧の者に金銭を給付することにした。しかし冒頭で「済貧恤救ハ人民相互ノ情誼ニ因テ其方法ヲ設クヘキ(準備すべき)筈」と述べた。

 「人民相互の情誼」とは親類縁者を頼ることや江戸の町の孤児養育や、あるいは、乞食や浮浪者などが地元の資産家のお屋敷や大きな商家の裏口へ行き食べ物や衣類などの「施し」を恵んでもらうこと、あるいは長屋で融通し合うことであろう。庶民にはそういう情があることを下級武士なら知っていたに違いない。それにもありつけない「無告ノ窮民」(苦しみを訴えることもできず頼るすべのない貧困者)に、ヨーロッパの救貧法を見習ったのか帝の慈愛を示すためか、米代相当の金銭を国が給付した。

 しかし社会福祉学ではこれは「権利としての公的扶助でなく前近代的なものだった」と一刀両断である。(ちなみに、恤救規則の給付は食費と生活費で年に米代一石八斗(1800合)相当の金銭だったが、当時の一般成人には1日にコメ3合が必要とされていたからエンゲル係数は約60%相当といえる)。

 

 恤救規則の改正案がいくつかあったが成立しなかった。

 1902(明治35)年に提出された「救貧法案」に対しては、義務救助にしたら惰民を生み貧民を増やし国費の乱用となる、恤救規則で救済できないものは隣保相扶、私人の慈善事業で救貧すればよい、という反対論があった。1912年の「養老法案」(70歳以上の無資産無収入で身寄りがない者に現金を給付する)の提案理由は、窮民の自殺が多い、家族扶養が期待できない、良民だったのに窮老になる者が多いなど、家族扶養が強調されたにもかかわらず下層では扶養が困難というのが実態だった。しかし、国の支給は権利を認めることになるので、むしろ隣保相互扶助で足りるなどの反対で不成立となった(23)。

 

 周防の百姓の子だった伊藤博文は「培養国本」と書いた。

 吉田久一は『新・日本社会事業の歴史』(勁草書房)で窪田静太郞と井上友一を紹介し、プロシアにならった新生国家の社会政策を描いた。二人とも東京帝大首席で内務官僚になったが、岡山藩士の子の窪田は、1899年の『貧民救済制度意見』で将来の救貧制度としては「人民ノ自助心ヲ基礎トシテ其上ニ建設」すべきと主張した(1871年にはすでにスマイルズ『自助論』が翻訳され流行っていた)。また別の論文では「貧」とは経済的手段が欠ける状態を客観的に指すものとし、「絶対的貧」と「相対的貧」(経済的手段が欲望に伴っていない)とを区別していた。

 同じく金沢藩士の子の井上は日露戦争の勝利で国中が浮かれていた中で、人民の実力や精神が西欧列強よりも劣るから国民教化による「国民の造成」「良民の形成」が急務と考えていた。また「救貧は末、防貧は本、さらに教化が源」と述べ、緊急課題は貧富の格差を予防する防貧で国家の基礎は中流民であると考えていた。そこで1890年の「窮民救助法案」に対しては家族相助や隣保相扶を破壊し良民や中流民の形成を阻害してしまうといって反対した。「教化が源」は、今ならさしずめ教育の機会均等であろう。