「銀座らしさ」は商店主が話し合って守る…新規出店・広告・照明、街の発展のため細部まで目配り(24年4月20日 読売新聞オンライン無料版)

 

ブランド力<4>

 

記事

 

(1)特定の場所(プレイス)が持つ意味や価値を関係者が共につくる活動は「プレイス・ブランディング」と呼ばれる。全国のお手本が東京・銀座だ。

 

写真 国内外の買い物客や観光客らでにぎわう現在の銀座4丁目交差点

 

(2)「銀座はアジアのショーウィンドー。銀座の店で何を見せるかはブランドにとり重要」

4月中旬の昼下がり。高級ブランドの旗艦店が軒を連ねる銀座通りは親子連れや買い物袋を抱えた外国人観光客らが行き交い、にぎわいをみせていた。

妻と初めて日本を訪れ、カルティエで結婚指輪を購入した中国人男性(27)は「中国で買うより12万円安く買えた。銀座は洗練された街で、ここで買い物ができて満足だ」と笑顔で話す。

 

 

写真 1955年の東京・銀座4丁目交差点。銀座通りには都電が行き交い自動車が走る。左に和光(服部時計店)、右に三越

 

(リシュモンジャパンの三木均社長)

店舗側も並々ならぬ思いで店づくりをしている。

カルティエやクロエなどの高級ブランドを展開するリシュモンジャパンの三木均社長は「銀座はアジアのショーウィンドー。銀座の店で何を見せるかはブランドにとってとても重要でそれがブランドイメージに直結してくる」と語る。

 

(3)「巨大な人物広告や大画面の動画広告、派手な看板はほとんどない」

国内外の人や企業を引きつける銀座。だが、他の繁華街で見られるような巨大な人物広告や大画面の動画広告、価格を強調した派手な看板はほとんどない。

 

(4)「銀座デザイン協議会」

こうした銀座らしさを守る組織がある。銀座の商店主と有識者約10人で組織する銀座デザイン協議会だ。

 協議会が協議または審議するのは、銀座1~8丁目で新規出店や店頭広告の差し替えなど街の景観に関わる案件。

 

(5)「唯一の判断基準は「銀座らしさ」だが明確な基準を定めないことを決めた」

(中央区)

 一定の大きさ以上の建築物などは着工前に協議会での協議を義務づけている。

協議会には義務の対象外を含め年間約300件が持ち込まれる。

 認めるか認めないかの唯一の判断基準は「銀座らしさ」。

ユニークなのは最初に基準を明確に定めないことを決めたことだ。

協議会が入る全銀座会の東條幹雄街づくり委員長(ワシントン靴店会長)は「基準を決めると、その範囲内だったらいいとか、基準に書いてないからいいという話になってしまう。だからあえて示さない」と狙いを話す。銀座らしさを守るため、「我々のようなうるさい存在があることが大事だ」という。

 

(6)「銀座という共有資産を守り、発展させるため、目配り」

協議会のメンバーは案件ごとに「銀座らしさ」に沿うかどうか意見を交わす。

周囲の街並みと合うか。照明は明るすぎないか。パチンコ店や生き物の販売はいいか。銀座という共有資産を守り、発展させるため、目配りは細部にわたる。

 

(7)「高級ブランドも「銀座国際ブランド委員会」を組織す」

普段はライバル同士の高級ブランドも、銀座国際ブランド委員会を組織する。

街の発展に貢献する目的で高級ブランド同士が手を組むのは世界でも珍しい。

委員会前会長の三木氏は言う。「銀座が作り出す街の魅力がお客様を呼び、そのお客様が我々にビジネスをもたらす。街との共存共栄はとても重要だ」

 

(8)「「銀座らしい」「銀座は特別だ」と思わせる地動(ちどう)な活動」

銀座は店舗の入れ替わりが激しい。それでも「銀座らしい」「銀座は特別だ」と、いつの時代も多くの人に思わせるのはこうした共創型の地道な活動がある。

 

(9)「プレイス・ブランディングは近年注目されるようになった新しい考え方」

地域名そのものがブランドになるのは古くて新しい。京都や奈良は日本を代表する観光地ブランドであり、「大間まぐろ」といった地域産品ブランドも数多い。

 プレイス・ブランディングは近年注目されるようになった新しい考え方だ。行政単位に縛られず、特定の場所をブランド化しているのが特徴だ。

場所の対象は銀座などの商業地域だったり、鉄道沿線だったり、三陸や瀬戸内といった広域圏だったり様々。「麻布台ヒルズ」といった企業が主導する都市開発も含まれる。ブランド競争のステージは地域・都市間から「場所」にも広がりつつある。

 

銀座通りの路面店、時代を反映

 

 

(10)「銀座通りの路面店の変遷は時代を反映する」

東京・銀座の地名は1612年、銀貨の鋳造所・銀座役所が駿府(静岡市)から現在の銀座2丁目に移されたことに由来する。

正式な地名となったのは明治維新後だ。

1872年の大火の後、政府の意向で銀座に 煉瓦(れんが) 街が誕生した。ガス灯をともし、日本の西洋化を象徴する街並みになった。

銀座通りの路面店の変遷は時代を反映する。

明治期 舶来品を扱う店舗や新聞社が社屋を構え、銀座は情報発信地となった。

大正期 銀座をぶらぶら散歩する「銀ぶら」という言葉が生まれ、

関東大震災後 百貨店の出店が相次いだ。かつては金融機関も多かったが、

今 高級ブランドの旗艦店が軒を連ねる。

 

(11)「地価を上げ、家賃や税負担が経営を圧迫する」

反面、日本一の商業地というブランド価値は地価を上げ、家賃や税負担が経営を圧迫する。

(銀座の不動産に詳しい増田不動産研究所)

 昭和通りまでの銀座1~8丁目の1階部分の空き店舗数は2021年に100件を超えた。コロナ禍で家賃や税負担に耐えられない店が相次いだ。23年11月時点では49件に減ったものの、老舗の閉店や店舗の一部を賃貸に回す対策も目立つ。増田富夫所長は「銀座の人気は健在だが、銀座で商売を継続できる体力がブランドの証明とも言えるのが現実だ」と指摘する。