(6)保守主義に先立つ精神的基盤 =======================

   (第8章 わが国の戦後社会保障の条件 第1節 わが国の社会保障に先立つもの)

 

(1)「父母を敬え」

(2)育まれた「保守性」

(3)伝統的保守主義

    1)人々の内面に形を与えたもの

    2)明治の忠

    3)恤救規則

    4)国と家

    5)家族と家長の権威

(4)日本人にとっての自立

(5)相互扶助と勤倹貯蓄

 

 

第1節 わが国の社会保障に先立つもの

 

 江戸の町では孤児や迷子が発見されたら、どこかに奉公できるまでその町が面倒を見るというしきたりがあったというが、6歳くらいで奉公すれば店で食べさせてもらえたがそれを恩に着せて早朝から夜まで働かせ詰めで休日もほとんどなかった。

 また、江戸時代の農民や町人たちには無尽・頼母子などの「講」があった。「契約講」は一定の掛け金をし冠婚葬祭に一定の金品を贈るもの、「家作(かさく)無尽」は家の共同建築・修理、屋根の葺き替えを共同で行なうもので掛け金が縄・カヤ・労力だった。「縄索(なわひき)無尽講」は村民全体が参加して夜なべ仕事で一定の縄をない、それを共同販売して得た金銭を村の窮乏者救済、村人の離村防止、農具や肥料の購入などの資金とした。「頼まれ無尽」は村落内の困窮している農民を、村全体または有志によって救済する講だった。新潟県佐渡での農作業の「結(ゆい)」は、田植えや稲刈り、屋根の葺き替えなどのときに行なわれた(4)

 助け合いをするには日頃からがんじがらめのしきたりを守り、お互いに家の格に従った義理を欠かさないことが肝要だった。

 また、戦前の庶民には家族と家業が重要だったが、社会生活では冠婚葬祭や地域総出の共同作業や行事など親族や近所や同業者とのつきあいと義理が一番大事だった。そういうしきたりを律儀に守れば一人前で、規範の内面化が共同体への帰属意識と一体だった。この帰属意識が戦後は会社に向けられることが多くなったが、いずれにしても欧米の自立観から見れば集団から「自立できない」日本人だった。

 それでも戦後になると学校では欧米にならって個人の価値を重視し「子」の個性を伸ばすことが重視された。団塊世代は学校では、個人を家族やその先祖につなげて考えたり評価したりすることは個人の価値を軽んじる封建的なものとして教えられた。そのため個人を超越した過去・現在・未来の「生と死の連続性」への思いを巡らす方法は学校教育ではなく家庭や宗教の課題のはずだった。

 つまり思想・信仰では、保守主義的に親・子・孫の連続性を強調したり個人主義的に親からの自立を強調したりする。ところが生物学レベルでは、ヒトのDNAは何百万年にもわたって人間を乗り物として自己保存してきたが、それ自身の中に世代の連続性と独立性の両面をそなえているから環境に適応できたのかもしれない。

 

(1)「父母を敬え」

 

 親が子を養い、子が親を敬うというのは古今東西の道徳でもある。田中美知太郎は古代ギリシャの演劇の台詞でも、身につける徳のひとつは「生みの親を敬う」というのがあったという(5)。

 また、聖書「出エジプト記」の「十戒」に「あなたの父母を敬いなさい」とある。ところが、マタイによる福音10:37には「私よりも父や母を愛する者は私の弟子に値しない。私よりも息子や娘を愛する者も私の弟子に値しない」とあり、読者を悩ませたが、加地伸行はそこに矛盾はないという。なぜなら、親を敬うべき子の「孝」は、絶対の真理なる父なる神への孝順を通して人類の魂を救うことにより完成されるからである(6)。

 『論語』は「父母に事(つか)える」と教えるが、『論語』為政では、近ごろの「孝」は親を食べさせるだけだ、犬馬にえさを与えるのとどこが違うのか、「孝」は父母への尊敬がなければだめだ、と嘆いた(7)。今なら「ペットにはうまい物を食わせてかわいがるくせに、親を敬う気持ちは全くないね」か。

 釈迦は在家の人に対しては、「われは両親に養われたから、両親を養おう。かれらのために為すべきことをしよう」と教えた(8)。また、財があるのに「年老いて衰えた母や父を養わない人」を賤しいといい、「父母につかえること、妻子を愛し護ること」がこよなき幸せであるといった。しかし出家者には「妻子も父母も」全て捨ててただ独り歩めと教えた(9)。これでは祖先祭祀ができず子孫ができないから、儒教の中国人には不向きだった。

 やがて『法華経』を信仰しさえすれば在家のまま仏国土に生まれ変わるとする大乗仏教になると、西暦1世紀頃つくられたとされる『仏説観無量寿経』で、極楽に生まれたいと願う者は「父母に孝養」すべしとある。また、「中品下生(ちゅうぼんげしょう)」グループの「父母に孝養」した人たちが臨終に出家者から仏の国土の楽しさを聞けば、直ちに「西方の極楽世界」に生まれるとある(10)。さらに6世紀ころ中国で作られた『父母(ぶも)恩重経』では、苦労をしながら育ててくれた親の「恩」に報いるため子は老親に尽せと教えた。いわば「孝」を追加して中国での仏教浸透を図ったかたちである。

 もっとも中国の「孝」は、子をまともに育てず虐待した親でも、生を授けてくれた親であるかぎり「孝」が子の務めである。日本でも親が折檻と称して子を殴ったり食事を与えなかったり寒夜に外へ出したりしても「親を怨まず事えよ」と教えられた。

 

(2)育まれた「保守性」

 

 中村元は日本人の「いえ」や「むら」を支える内面について次のように述べた。日本は元来、狭い地域で集団生活をし、そこでは同一の「家」が長年月存続していた。村人のあいだでは祖先からの系譜や親戚関係が知れ渡り、そのつながりは家族のようである。「人々は閉鎖的な人間結合組織を形成し……相互のあいだに直観的な理解が成立し、自己の主張や意向を強硬に貫こうとすると、相手の感情を傷つけ、自分も損をする。」そこで日本人は感情的・情緒的な一つの雰囲気のなかでわかり合える、またはとけ合う努力をしてきた(11)

 きっと1、2万年前から、毎年のようにやってくる台風や洪水や地震で住居や土地が壊されたあとも長年の経験が詰まった今までの生活に戻るには、自己主張を控え協調し、しきたりに従うことが早道であることを学び「和」を最優先させる気風が育まれたのかも知れない。このような自然に取り囲まれて今、田畑や山や町中で暮らしていけるのは「先人の知恵や祖先のお陰」と考えることは全く理に適っていたといえよう。仮に「和」が互いの利害の一致に基づく行動パターンだとすれば、スウェーデンがゼネストの経験のあとに労使協調路線を築いたように、「和」が日本型福祉社会路線の精神的インフラかも知れない。

 そして、中村はわが国の社会形成の背後にある考え方を次のように指摘した。

 第1は、身近な人間結合組織のために自己を捧げるという道徳思想はきわめて有力である。日本の最古代の道徳観においても、「ひとつの共同社会の内部における他者の利福、全体性の利福を欲するがゆえにヨシとされた。悪心も、他者の利福、あるいは全体性の安全を害なうがゆえに悪とされていた。」

 第2は、「古代日本の氏族社会では、古神道によって家の祭祀が重んじられ、祖先崇拝が重視されていた。」この「家」の重視は近代まで日本人の実践を支配している。また、支配・服従の関係が封建的な家族原理で隠され、支配者と被支配者がお互いに家族の一員のような意識を持ち、支配・服従関係がないような外観がある(12)

こう見てくると、わが国の「いえ」「むら」「和」などは、欧米流の自己の確立や脱家族など個人主義的な「自立」を基準にすれば共同体と集団に縛られていて「保守的」「封建的」「前近代的」といわれよう。その個人が国家や会社や仲間のためには違法行為も辞さなかったり自己犠牲もいとわなかったりした。