(4)保守政権の福祉社会構想========================  (第9章 保守政権下の社会保障 第2節 保守政権の福祉社会構想)

 

 

 厚生労働省『国民生活基礎調査』の世帯構造別に見た世帯は、1975年には「夫婦と未婚子の世帯」と「三世代世帯」で59.6%だった。つまり、福祉元年(1973年)ころは家族といえば「両親と子」あるいは「祖父母と息子夫婦と孫」でよかった。

 それに対して2013年には「夫婦と未婚子の世帯」と「三世代世帯」は合わせて36.3%まで減った。それに代わって単身世帯と夫婦世帯が増え49.7%となり、いまや家族といえば単身か夫婦のみが半数で、これに「ひとり親と未婚子の世帯」を合わせれば56.9%に達するから、40年前の家族のイメージではだめだということである。

 

(1)日本型福祉社会論

 

1)「生涯設計計画」

 

 田中首相退陣後、三木政権(1974~76年)ができた。三木首相は施政方針で「物的生活は簡素に、精神的生活は豊かに、生きがいを求めていく」と述べ、その構想を「ライフサイクル構想」と呼んだ。

 1975年の「生涯設計計画」では、55歳から60歳への定年延長、65歳までの再雇用、65歳以降は年金で、というように生涯を通じて安定した生活を営めるようにする。そのためには自助、相互扶助を原則としながら、政府が一生の各段階で必要となるナショナル・ミニマムを提供する。ナショナル・ミニマムを越える部分は自助の努力で切り開く。具体的には教育、住宅、雇用、年金、医療などをシステム化し新たな制度の導入を進める。そして、誰でも努力をすれば家を持てる制度、新しい労働慣行と誰でもいつでもどこでも学べる教育制度、誰でもナショナル・ミニマムを保障される社会保障制度、誰でも安心して老後を過ごせる社会の4点を挙げた。

 学者中心でまとめたので官僚からは「学者の空論」といわれた(8)。

 確かに55歳定年の時代で今の少子化も想定外だったから、65歳年金支給開始などといったからそう受け止められたのであろう。1975年に村上泰亮・蝋山昌一ほか『生涯設計計画―日本型福祉社会のビジョン』が出版された。

 この構想に対して自民党からは膨大な財政支出を伴うという反対意見も多かった。76年にロッキード事件が露呈し、クリーンなイメージが看板だった三木は真相の徹底解明を主張したが自民党内の「三木おろし」で降板となった。

 

2)「日本型福祉社会」構想

 

 大平正芳は三木内閣で大蔵大臣を務め、酒・たばこ・郵便の値上げ3法案が廃案になったことによる歳入欠陥を穴埋めするために赤字国債(特例国債)を発行した。戦後の赤字国債は東京オリンピック後の不況対策の財源のために福田赳夫蔵相のもとではじめて発行され、三木内閣で再開された。しかし大平は「子孫にツケを回す」ことを非常に恐れていた。

 福田赳夫政権のあとの大平政権(1978~80年)では、安定成長と赤字国債依存という条件の下で、福祉国家路線を転換して保守主義的な「日本型福祉社会」構想を打ち出した。

 施政方針演説で「日本人の持つ自立自助の精神、思いやりのある人間関係、相互扶助の仕組み」と「適正な公的福祉」を組み合わせた「公正で活力ある日本型福祉社会」を建設すると述べた。

 また、「秩序と活力のある自由市場経済」と「内政外交を通ずる総合的な安全保障の確保」という枠組みを守るというのが国家観であった。

 「行政は簡素で効率的なもの」でなければならないが「社会的公正の確保、構造改革の推進等、行政が新たな役割を担うべき領域は拡大」していると述べた。(この日本型福祉社会で強調した「自立精神」は欧米のような家族や共同体からの個人の自立ではなく、例えば二宮尊徳の分度・推譲のように「自分たちの共同体、仲間内で始末すること」、つまり社会保障や公的な社会福祉を減らして福祉国家への依存をやめる、そういう意味での脱社会福祉といえる。ただ、自助・共助・公助のバランスの問題といえば、これはロブソン『福祉国家と福祉社会』に親和的といえよう)。

 1979年「新経済社会7カ年計画」では、「福祉は、個人の生き甲斐と温かい人間関係を基礎としてはじめて成り立つ」が、高度成長の中で「家庭や近隣社会の人間的なつながり」が失われた。これからの国民福祉は職場・家庭・近隣社会における潤いのある人間関係が基本だとした。

 同計画の閣議決定では、成長減速と人口高齢化に伴う扶養負担の増大のもとで、住宅や生活関連社会資本の整備、社会保障の充実、教育文化施策の充実等のニーズが高まるが、これを従来どおりのやり方で充足すると公共部門が肥大化して経済社会の非効率をもたらすおそれがある。そこで計画では「個人の自助努力と家庭及び社会の連帯の基礎のうえに適正な公的福祉を形成する新しい福祉社会への道を追求しなければならない」とした(9)。

 これは個人を丸裸にしないで共同社会が包み込み、家族や企業や地域などそれぞれの助け合いを「自立」とみてそれを復活させようとしたものである。今日、わが国の高等教育の教育支出に占める公費負担の割合が32.2%で米国の34%と並んで先進国中、最低になったのは(10)、自立自助や家族の責任を強調するこの路線のせいともいえる。

(7カ年計画ではつぎのように述べた。「欧米先進国へキャッチアップした我が国経済社会の今後の方向としては、先進国に範を求め続けるのではなく、……個人の自助努力と家庭や近隣・地域社会等の連帯を基礎としつつ、効率のよい政府が適正な公的福祉を重点的に保障するという自由経済社会のもつ創造的活力を原動力とした我が国独自の道を選択創出する、いわば日本型ともいうべき新しい福祉社会の実現を目指すものでなければならない」。また社会保障では人口高齢化などの社会的変動に対応して、社会保障が的確な役割を果たすよう、年金、保健・医療、社会福祉の各部門で長期的な展望に立って体系的な整備を進める、と述べていた。つまり自由主義経済は堅持するがスリムな福祉政策を遂行するということであろう)。

 

3)「共同体と市場の二枚看板」 第二臨調答申 

 

 ところが大平の次の鈴木政権では「増税なき財政再建」をうたい、臨調答申では「国民の所得水準の向上と社会の成熟化という事実を踏まえ、自由で活力のある福祉社会を実現するために、国民生活と行政とのかかわり方の見直しを進め、真に救済を必要とする者への福祉の水準は堅持しつつも(これは米国レーガン政権と同じ)、国民の自立・自助の活動、自己責任の気風を最大限に尊重し、関係行政の縮減、効率化を図る」とし「自立自助・自己責任」にシフトした路線が述べられた(11)。

 これは自由で活力のある福祉社会を述べたものだが、ロブソンとは「福祉社会」の内容が異なり紛らわしいことになる。

 中曽根政権(1982~87年)の経済政策は温情主義を捨て、サッチャー、レーガンにならった市場経済重視の経済自由主義だった。

 1982年の「第二臨調第3次答申」では、国民負担率抑制、活力ある福祉社会、日本型福祉社会として家族や近隣、職場等において連帯と相互扶助が十分に行われるように必要な条件整備をおこなうこと、などが述べられた。(ここの「連帯」は脱公的社会福祉を目指した個人間の相互扶助の連帯と読める。ところが、ヨーロッパの「自立と社会連帯」は個人が家族や共同体への依存をやめ福祉国家を造っていこうというときの理念であったから、逆だった)。

 1982年の社会保障長期展望懇談会「社会保障の将来展望について」という提言で次のように述べた。

 社会保障は、個人の自助を前提とした上で国民の連帯による相互扶助を組織化して社会の安定を図るもので、現代自由主義国家を支える基盤とし、貧困者やハンディキャップを持つ者だけに対象を限るべきではない。その一方で、広く国民一般に福祉サービスを行う場合、福祉は無料という考えを改め「負担能力と受益の程度に応じた費用負担」にするという考え方を示した。そして、社会福祉の目標は低所得層の防貧対策から、福祉サービスを必要とするすべての者の生活の自立や社会参加が可能となるよう社会的に援助する方向に転換する。そして、所得の向上で福祉サービスの選択範囲が拡大すると予想されるが、市場機構を活用する方向も検討する必要があろう、と述べられた(12)。

 つまり臨調の「真に救済を必要とする者」に対して懇談会は「低所得層の防貧対策から、福祉サービスを必要とするすべての者」としたので「公的な介護サービス」を求めたようにも見えるが、その一方で費用負担にも言及していたから社会保険方式の「介護」でも相当の公費を注入することで折り合いが付くものだった。むしろ介護の保険のサービスの範囲と程度をどの程度にするのかという問題は残ったように見える。

 こうして1982年の臨調第3次答申で公営事業の民営化が指針とされ、同年の社会保障長期展望懇談会提言でも市場機構活用が出された。大平の日本型福祉社会は福祉国家に代わる受け皿として相互扶助で個人を孤立させない家庭・職場・地域社会を描いたが、ここで民営化が加わり、福祉国家に代わる日本型福祉社会は相互扶助と民営化、あるいは「共同体と市場」の二枚看板になった。

(これは、上記「保守政権」でみた「自由主義を前提とする保守政党」という位置づけなら党内には抵抗がなさそうに見えるが、党内には経済政策中心で問題解決をしようとする人びとと、経済政策と市場外の社会政策の二刀流で問題解決しようとする人びとがいるようである。これは共同体に重きをおくか市場に重きをおくかという対立として見られることもある)。

 1983年に老人保健法が実施され、70歳以上の老人にも医療費を一部負担させることとなった。これで老人医療無料化は終わり費用を公平に負担するとした。公平といいながら、富裕な高齢者にも年齢で一律に軽い負担にとどめたのは、所得格差を露出させたくない保守主義的な方法といえよう。

 また、1988年からの「老人保健施設」は入院高齢者の退院を促進するもので、施設でリハビリを行い家庭での療養の負担を軽減するもので、「中間施設」とも呼ばれた。しかし帰宅に至らず長期滞在や病院への逆戻りも多かった。