(3)米国保守主義とリバタリアンの結合 =============================

 

(第3章 社会保障の変遷と方向転換 第4節 レーガンとサッチャー (1)米国保守主義とリバタリアンの結合)

 

2)米国保守主義と共和党

 

 米国保守主義について佐々木毅、川本隆史、中岡望、会田弘継ほかを参照してみたい(39)。

ここでは哲学的・思想的な自由至上主義や自由放任主義など自由主義思想と、市場の自己調整力を重視する経済自由主義のうちの格差容認派を「リバタリアン」として一括りにしておく。

 

ⅰ)(米国保守主義)

 米国の「建国の父」たちは成文憲法がない英国でさえもコモン・ローの「法による支配」の精神が統治の基礎になっていることを重くみて、これを新国家に制度化するために合衆国憲法を起草した。そして連邦政府の権限を強化する連邦派と共同体意識や郷土意識が強い州権派が対立したが、民主党は「連邦派」、共和党は州政府中心の「州権派かっこだった。

 

(ア)戦後の米国南部では、農業と農村が国の基礎だと主張する保守的な農本主義を引き継いだウィーバーが産業主義を批判し、米国とソ連はやがて巨大資本家または巨大政府によって支配されると予想していた。また、第2次大戦の大量殺戮や原爆投下は「新しい知識と道徳」を当てにする進歩主義の帰結だと考えていた。

 このように進歩主義を批判する保守思想が戦前から冷戦時代にかけて南部で引き継がれていた。「思想は必ず実を結ぶ」と幹事長時代の安倍総理が演説したといわれるが、会田によればこれはウィーバーが1948年に出版した本に編集者がつけた書名で、元の草稿では『われらの世界を取り戻す道』と題されていたという。自民党のポスターには一時、「日本を取り戻す」とあった。

 

(イ)1950年代の米国では、戦前から続く民主党政権のニューディール体制に反対する「古典的自由主義」や「オールド・ライト」が自分たちを「リバタリアン」と称した。また、哲学界でも「最小限国家」や、国家から自由になっている個人が望ましいという哲学が「リバタリアニズム」と呼ばれた。多数の貧困者の幸福のために政府が税金や法律で個人の生命・自由・財産や幸福追求を侵害するのは、国家権力が個人を「手段や道具」として扱う不正義であると考えた。

 また、「伝統的保守主義」は家族と郷土と信仰を基本的な価値とし、国家を家族や私有財産を脅かす存在とみなしていた。そこで政府の肥大化に警鐘を鳴らすハイエクなどの自由主義が保守主義者の理論的基礎となった。

 そういう意味では、伝統的保守主義とリバタリアンは、ニューディールが個人や家族を圧殺しているという意見で一致していた。

 

(ウ)1950、60年代の米国の保守主義には、一方で「信仰で結びつく地域社会」の復活、他方で自由放任経済への復帰と個人の自由の回復、つまり、共同体中心か自由市場中心かという対立があった。そして会田によれば、ウィリアム・バックリーは「政府の仕事は市民の生命と自由、財産を守ることである。政府がこれ以外の事に手を出せば、それだけ国民の自由は少なくなり、発展の妨げとなる。従って、我々は政府の役割拡大と常に闘わなければならない」といって保守主義の統合を果たした。

 こうして経済自由主義派との連携が米国保守主義の本流になった。

 

ⅱ)(民主党と共和党)

 民主党の伝統的な支持基盤は南部の保守的な労働者や農民などで、党の政策として独占企業など大企業に反対していた。20世紀初めになるとニューディール政策や連邦政府の役割を重視し増税してでも福祉を充実させ個人の自由を拡大できるという社会自由主義(現代自由主義)に近かったが、この思想が「リベラル」といわれるようになった。

 

 ところが米国民の間では「リベラル」は社会主義に近いと見なされることが多かった。

 そこで今度は反ニューディールで反社会主義の立場は「反リベラル」と呼ばれた。つまり、民主党など反自由放任が「リベラル」で、対する「反リベラル」には自由放任主義、反ニューディール、保守主義、共和党支持者、反社会主義などが含まれた。(ここは単純化したが、民主党内にも保守主義者や白人至上主義者や「小さい政府」論者もいるし、共和党内にもニューディール支持者はいるという)。

 

 1960年の大統領選挙では民主党ケネディが共和党ニクソンを制したが、選挙人数はともかく得票数の差は0.17%の僅差で、国論は二分されていた。

 ケネディ大統領(1961年~63年)は就任演説で「自由な社会が多数の貧者を救えないとすれば、少数の富者を救うこともできない」、「自由の存続と発展を保証するために」いかなる代償をも払い、いかなる敵とも対峙する、そして「国民のみなさん。国家がみなさんのために何ができるかを問わないでほしい。皆さんが国家のために何ができるのかを問うてほしい」という有名な呼びかけをした。まさに東部のエスタブリッシュメントの理想を明らかにした。そして「ニューフロンティア精神」による政策として、公立学校や教員給与の補助のための連邦政府支出の拡大、住宅政策促進、高齢者医療拡充、都市再開発、黒人や少数民族の地位の向上や公民権法の制定などの公約を掲げた。

 しかし議会は連邦政府の権限拡大に反対で、社会・経済立法計画は南部民主党と共和党保守派の「保守連合」に阻まれた。

 

 ケネディ亡き後の1963年の大統領選挙では共和党はゴールドウォーターを候補に選んだ。

 ゴールドウォーターは元民主党員だったが、ニューディールに批判的で共和党に鞍替えした。中岡望によれば、ゴールドウォーターは1960年の著書『保守主義者の良心』では、経済ニーズのために国家に依存すれば政治的自由は幻想となる、権力者はさらに大きな権力を求める、連邦政府が新しい分野に進出するので州政府は正当な機能を果たせなくなる、国民は少数者への権力集中を懸念している、政府は絶対主義に向かって拡大する傾向がある、など伝統的な保守主義と類似のことを述べた。こうしてゴールドウォーターは、共和党内外の保守主義者から保守主義を政治で実現する人物とみなされた。

 ゴールドウォーターは反ニューディールと同時に、法と秩序・小さい政府・反共主義など保守主義者の哲学を訴えたが、これが民主党の牙城だった南部の「保守的な労働者」の支持を得た。そこで共和党は保守主義を前面に出したが、のちに「保守主義者が共和党を乗っ取った」とされた。

 (もともと共和党は自由主義の政党で、リンカーン大統領を出した。また、世界大恐慌の時も、市場の働きでやがて景気は回復すると考えて、政府の介入は控えめだった。そのあとの、民主党の大統領がニューディール政策で景気回復を図った。そのなかに社会保障もあった)

 

 大統領選挙は民主党ジョンソンが大勝し、黒人差別撤廃の1964年公民権法を成立させた。ゴールドウォーターは50年代には公民権確立と人種差別撤廃に最も熱心なリベラルな共和党議員だったが、民主党の「公民権法案」では連邦政府の権限が強すぎるとして反対した。また、南部の白人層はニューディール政策の最大の受益者だったので民主党支持だったが、かれらは法律による人種差別撤廃には反対で、ゴールドウォーター支持に鞍替えした。

 

 選挙大敗後、ゴールドウォーターは共和党の新しい保守革命を主導した。それまでの反ニューディールを、小さな政府・減税・福祉政策縮小、個人の自由、自由な企業活動などを掲げる保守政治路線として明確にし、シンクタンク「ヘリテージ財団」の協力も得て、若い世代にも訴えた。

 

 のちに民主党も政権奪還のために家族や信仰の尊重などの選挙戦略をとり、南部の州知事だったカーター、クリントンを大統領候補にすることで雪辱した。カーターも小さな政府と規制緩和を訴えた「保守的な」大統領であったし、クリントンは「大きな政府の時代は終わった」とさえいった。