春秋(24年4月7日 日本経済新聞電子版)
記事
(1)ひとつぶ口にすると、初めは苦く、辛く、しかし「あとは甘露のような甘さとなった」――。
水上勉さんのエッセー「土を喰(くら)う日々」に、漬けてからじつに半世紀あまりを経た梅干しの話が出てくる。「五十三年も生きていた梅干しに、泣いた」と作家はつづっている。
(2)▼幼少のころに住み込んだ、京都の禅寺ゆかりの逸品だった。
縁者に再会した水上さんは、かつて寺の土蔵に眠っていた梅干しにめぐりあうのだ。1976年ごろである。ところが、その味についてコラムに書いてみたら、どうせフィクションだろうと難癖がついた。いまならSNSなどでもっと物議をかもすかもしれない。
(3)▼食品の賞味期限表示が一般化したのは80年代後半だ。
昨今ではカップ麺もハムもマヨネーズも、表示なき食べ物はない。塩分20%の梅干しだって、市販のものは2年がせいぜいか。まだ大丈夫そうだけど、期限を1日過ぎただけでポイ……。あくまで「賞味」の目安なのに、食品ロスの一因にもなるあの「年月日」である。
(4)▼総菜の「消費期限」を含め、消費者庁は基準を緩める方針という。
すでに、ポテトチップスなどで期限延長や「年月」表示への切り替えが進む。無駄を減らす一歩だろう。「土を喰う日々」は、軽井沢の山荘での自給自足の物語だ。禅寺のもったいない精神と、そこに宿る滋味の深さよ。53年ものの梅干しを食べてみたい。