大機小機 労働に価値、マルクスの再評価を(一礫)(24年3月15日 日本経済新聞電子版)

 

記事

 

(1)昨今の日本を見渡すと、格差社会を実感する。

高度経済成長期の日本

 労働者の生活は良くなっていった。資本主義が発達すると労働者は搾取されて貧しくなる、とするマルクス経済学の「窮乏化理論」通りにはならなかった。成長に伴って所得の二重構造は解消に向かっていった。

 

(2)近年はどうか。

マルクスの言う剰余価値(生産された価値―労働に支払われた価値)は潤沢、株主への高配当が目につく。

円安のもと株価は高水準、地価も上がり、高額の高層マンションは飛ぶように売れる。資産インフレの一方で、日々の生活費を切り詰める人は少なくないようだ。

 

(3)店を開くにしても、富裕層をターゲットにするかそれ以外の人々を対象にするか、はっきり分かれている。同じ国土に全く異なる日本国民Aと日本国民Bとが暮らしている――とは言い過ぎだろうか。窮乏化理論が脳裏をよぎる。

 

(4)「労働の価値が後退してしまった」

何が変わってしまったのか。気がかりなのはやはり、労働価値が後退してしまったことだ。

価値は他にもある。例えば効用価値だ。スーパースターがさらりと書いたサインに高値がつく。バブル経済で株価や地価が一時的に上がった場合もそうだ。財やサービスの市場価値は消費者の主観的評価=効用によって決まるとする「効用価値説」は、それはそれとして理解できる。

人工知能(AI)やロボットの活用で労働の質は変化する。ただ、形態や仕事観が時代によって多様化しても、労働という営みに価値の根源があることは間違いない。

 

(5)「経済学の始祖のアダム・スミスだって労働価値説だ」

労働を基礎に据えたマルクスの「労働価値説」は、当たり前のこととして看過されてきた。かつてマルクス経済学は高度成長の現実を直視せず、信頼を失った。

しかし、経済学の始祖のアダム・スミスだって労働価値説だ。ほこりまみれになっていても、偉大な経済学者たちが残した思想には時代を超えて学ぶべきものがある。

 

(6)経済活動の要である労働者は、労働価値に見合う賃金を受け取る。ここ一両年の春季労使交渉(春闘)で前向きな動きが出てきたのは、格差是正に向けての一歩だ。

そして労働価値説への回帰は、失われた日本経済社会の活力を一部の人だけでなく各層にわたって取り戻す、確かな足がかりになるだろう。

(一礫)

 

<私見:

「(2)マルクスの言う剰余価値(生産された価値―労働に支払われた価値)は潤沢、株主への高配当が目につく。

円安のもと株価は高水準、地価も上がり、高額の高層マンションは飛ぶように売れる。資産インフレの一方で、日々の生活費を切り詰める人は少なくないようだ。」

 マルクスは18世紀後半から19世紀前半の英国資本主義を観察して「産業資本のモデル」を作り、生産設備の所有者の資本家は剰余価値(不払い労働時間分の生産物)を自分のものにして、「それを再投資する」そして「拡大再生産」する。

 その結果、労働者の購買力に比べて生産物が多すぎ、破たんする企業が増え、大企業がそれを買収し独占になり、ますます過剰生産で、こうして資本主義経済は内部から崩壊するというシナリオになった。それを「資本主義経済から社会主義への歴史法則」と考え物理学の法則と同じだと主張し、やがてロシア革命に。しかし、ソ連崩壊で「歴史法則」は否定された。

 

「(3)店を開くにしても、富裕層をターゲットにするかそれ以外の人々を対象にするか、はっきり分かれている。同じ国土に全く異なる日本国民Aと日本国民Bとが暮らしている――とは言い過ぎだろうか。窮乏化理論が脳裏をよぎる。」

 19世紀前半の英国の保守党の重鎮ディズレーリが英国は当時の国内が分断されていることを保守政治家として憂えて『2つの国民』を書いた。そして伝統的な雇い主と使用人の関係を守るという保守の伝統を破り、賃金労働者の保護に繋がる労働時間の制限を雇い主に法律で強制するなど「社会政策」を始めた。

 こうして「改革する保守」という政治理念が現実のものになった。

 ただし、社会主義者のように資本主義を変えるという理念はなかったために「資本主義経済を温存するもの」と左派から批判された。マルクスも『共産党宣言』で社会事業や慈善は「資本主義を温存する」として真っ向から否定していた。

 

「(4)何が変わってしまったのか。労働価値が後退してしまったことだ。

価値は他にもある。例えば効用価値だ。財やサービスの市場価値は消費者の主観的評価=効用によって決まるとする「効用価値説」は、それはそれとして理解できる。

形態や仕事観が時代によって多様化しても、労働という営みに価値の根源があることは間違いない。」

 マルクスが観察したのは18世紀後半から19世紀前半の英国資本主義経済で、当時の経済は製造業の産業革命が中心になって新たな展開をし、農業部門から製造業部門へ大量の賃金労働者が供給された。つまり、第三次産業などは影に隠れていた。しかし、現代先進国では就業者の半分以上が第3次産業で、その商品はまさに「消費者の主観的評価=効用」で決まる。クリティカル労働者の賃金とテレビタレントの報酬とは比べようもない。これは労働価値説で説明できない。

「労働という営みに価値の根源がある」

 マルクスは資本主義経済が成り立つ前に製造業に投資する産業資本家と賃金によって生活する賃金労働者階層の2つが揃うことを前提にして、これらが準備される過程を「本源的蓄積」と呼んだ。

 

「(6)経済活動の要である労働者は、労働価値に見合う賃金を受け取る。ここ一両年の春季労使交渉(春闘)で前向きな動きが出てきたのは、格差是正に向けての一歩だ。

そして労働価値説への回帰は、失われた日本経済社会の活力を一部の人だけでなく各層にわたって取り戻す、確かな足がかりになるだろう。」

 マルクスは商品の価値はそれに投下された労働時間で決まるといったが、実際の商品価格は市場の需給で変化し、商品の価値通りにならないこともあると考えていた。

 労働の価値は「労働力の再生産にかかる費用」であり、それは普通の賃金労働者の家族の生活費で表されると考え、さらに、資本家は労働者を雇うときにこの平均的な労働力再生産の費用相当を「賃金」として前払いする。だから資本家が所有する生産設備や原材料に労働を投下し生産された商品はすべて資本家のものとなる。それを売り上げて得た「利潤」は生産設備などの所有者である資本家のものになる。資本家は出資者に配当を支払う。

 このように考えた革新政党は「老齢年金は賃金の後払いであり、年金は労働者が自分のモノを取り戻すモノだ」と主張していた。これは積立年金方式には、ある意味で、あてはまる。なぜなら、現役世代が法律で強制されて年金保険料を支払うが、自分が年金を受け取るまでは「国に強制的に貯蓄させられていた」と主張できた。もっとも30年40年も労働者が自分たちで運用できるかどうかは別の話で、大金をどのように運用したらいいのかの知識はあまりない。そのせいか、野党は、年金積立金を運用する基金が「株式」に投資することを批判していた。>

追記

 夜のBSフジプライムニュースで、自衛官や警察官や介護、医療、輸送などのエッセンシャルワーカーの人手不足の話で、産業再生機構の責任者だった冨山和彦さんが、一般的に、ホワイトカラーの給料が高すぎてノンホワイトカラーの給料が低いと仰っていた。そして、ノンホワイトカラーの給料を引き上げるにはDXだのAIだの使って生産性を上げることが必要だといっていた。